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マルクス・ガブリエル「新実存主義」

存在論とは:存在者を存在させる存在なるものの意味や根本規定について取り組む

唯物論…観念や精神、心などの根底には物質があると考えている

観念論…われわれの精神世界だけをこの世界の本源的な存在とし、外界は、われわれが自己の精神的存在すなわち観念で認めた、仮象の世界にすぎないとする認識論

ドイツの批判主義 ── 批判=吟味する
 カント ── 批判哲学の立場から理性を吟味した。経験論、合理論を統合した
        アプリオリ

認識論…認識論(にんしきろん、独: Erkenntnistheorie、英: Epistemology、仏: Épistémologie)は、認識、知識や真理の性質・起源・範囲(人が理解できる限界など)について考察する、哲学の一部門である

デカルトは理性(思考)を重視していた。(ベーコンは目に見えるもの)

デカルトの二元論
心身二元論…精神と肉体 両者は独立している
 ・精神…思惟(考えること)空間的な広がりがない
 ・肉体…延長 空間的な広がりがある
→ 科学的観点からは精神が肉体に影響することは?
  科学的な観点からだと精神は脳になってしまう


ガブリエルは自然主義を批判する

自然主義的世界観の行き詰まり。

「心」や「精神」はといったものは脳のメカニズムでは解明できない。かといって脳の基盤なしに神秘的奇跡的に心が湧いてくるわけではない。
脳がなければたしかに心は生まれないが、脳の反応を完璧に記述できれば心が解明されるかというとそうではない。

→ なぜなら脳から心にうつるときに質的なジャンプが行われている
※ルソーの「一般意思」

ガブリエルは自転車とサイクリング で語る。
自転車=脳
サイクリング=心
自転車があるだけではサイクリングはできないが、自転車からサイクリングに至るには質的なジャンプが必要である。このジャンプを無視して自転車についていくら調べてもサイクリングはわからない。
→ 心をニューロン(脳)の反応に還元しようとする自然主義を、人間の精神への無理解のあらわれとして批判。

①人間は動物の一種=自然種
②精神について

自然種の次元だけでなく、我々には「われわれという身体が姿を見せる次元、人間という意味の場の次元」に連なる精神はある。
→ このガイスト(精神)の次元において、人間は人間以外のものと区別される。

→ つまり、人間は自然種でありながら、それとは違う別の次元へジャンプすることができる
人間であるには動物的身体=自転車=脳が必要ではあるが、それだけでは精神=サイクリング=心にはならない。

かつてのポストモダン → 全体主義の再定義を行ったが、集団幻覚=形而上学
    → 私たちに現れているかぎりで事物が存在する
      世界ないし現実は存在しない

カント 構築主義 森林が緑に見えるのは光の波長を眼が受け取り脳で認識しているに過ぎない。「緑の眼鏡」を全員がかけると緑に見えるだろう

新実存主義の中で語られる新しい存在論
存在論=オントロギー 存在することの意味

世界=私たちを取り囲むすべてを含む領域
包摂するひとつの世界は存在せずに小世界は存在している=意味の場

何かが存在するとは?全体を捉えることは原理的に大きすぎる。
世界を捉えることへのアプローチとは何か?「風の歌を聴け」
風とは世界を捉えることのできるきっかけであり、鼠は風の歌を捉えることができ、また羊と一緒になることにより世界を理解し世界そのものを捉えることができた。

存在しないものも「どこ」に存在しているのか?
がその際に問われる。

あらゆる対象領域が人間的な自己投影物にすぎない──本来のわたしたちの認識には依存しない均質な現実、私たちの認識の便宜のために区分したものにすぎない──にはならない。
→ ニーチェ
「事実は存在せず、解釈だけが存在するのだ。我々は事実「それ自体」を確認することができない。すでに解釈している。」
→ 構築主義 むしろ「事実」自体を構築しているのだ。
→ 認知機構・・・前提、手段、方法、素材のセット
→しかし、新実存主義の世界では、「事実は存在せず、解釈だけが存在する」にはならない。

世界とはそもそも? → 物、事実、対象領域の説明から~


①宇宙は物理学の対象領域である
②対象領域は数多く存在している
③宇宙は数多くある大正了以威のひとつにすぎず、存在論的な限定領域
④多くの対象領域は、話の領域でもある。いくつかの対象領域は話の領域でしかない
⑤世界は、対象ないし物の総体でもなければ、事実の総体でもない。世界とは、すべての領域の領域にほかならない

存在するとは?
→ 何かが意味の場に現れてくる状態。
例)サイは草原という意味の場に属している。
 → 存在するとは、世界をなすさまざま領域のひとつのなかに現れていること。

認識可能なもの──当の対象の何らかの性質を認識している。
その認識されている性質によって、その対象は、ほかのさまざまな対象と自身とに違いをつけ、ほかの様々な対象から自身を際立たせている。
例)銀河の総数は、ちょうど300年間には奇数だった。
→ 数を数えることはできないが、認識されている性質がある。この場合の性質とは物理学の中で想定される式と宇宙の特徴によって定義される性質。

自然科学は現実いっさいの基層を認識する。
かつ自然科学以外のいっさいの認識は自然科学の認識に還元されなければならない。
あるいは自然科学の認識を尺度としなければならない。

科学的世界像がなりたたない理由二つ
①世界は存在しない → 存在論的な理由
外から世界を眺めることができない。→ 認識論的な理由
→ 現実はある地点から眺める必要があり、どこでもない地点から眺めることはできない。

新しい実在論は次の二つのテーゼからなっています。第一に私たちはもの及び実質それ自体を認識することができることない。事実それ自体は唯一の対象領域にだけ遅くするわけではないということです。

真である認識は物それ自体の認識である。真である認識は、、物事の現象そのものだからです

フェティシズム ← 脱魔術化の先にあったもの
フェティシズムとは…自然物、人口物、自らの作った対象に超自然的な力を投影すること。
→ そのような投影により
  合理的な全体に自らの同一性を統合しようとする
  → 何らかの仕方で理解できる全体の一部分として自信を捉えたい。
  → 自分は孤立せずに守られていると感じられて安心できる。

物事の側面
→規則に従っていると考えることで、社会的協働が崩壊せずにいられる安心感。
全体を捉えることができないため、社会の構造をひとつの対象に投影することでフェティシズムが生まれる

シュライアーマッハー
宗教の対象は、「宇宙と宇宙にたいする人間の関係」である


シュライエルマッハーによれば無限なのは宇宙だけではありません。宇宙に対する私たちの立場の取り方も、やはり無限に多様にあり得る。それゆえ、無限なものの直感が一つだけ存在するのではありませんし、特定の信念体系という意味での宗教が一つだけ存在するのでもありません。むしろ無限なものの直感は無限に数多く存在するし、そのような直感としての宗教も無限に数多く存在することになります。
「宗教とは判断と考察とにおける最大限に無制限な多面性への資質」

→「神は宗教における全てではなく、むしろ一要素に過ぎない。そして宇宙はそれ以上のものである」
いかなる宗教もフェティシズムを完全に免れることはありません
。無神論も──意味を持たない純粋に物質的な宇宙を崇拝する態度にも全く同じように宗教的性格があるからです。「自然主義は宇宙を構成する個々の要素に人格的な意識と意思の表象を 見ることなしに、これらの構成要素の多数性において宇宙を見る考え方」だとされています。

宗教には二つの形態がある。

第1の形態は科学的世界像、 フェティシズムです。全てを創設し全てを包摂し、全てを支配し、全て秩序づける原理、の表象が、多種多様に生み出されます。
第二の携帯の宗教とは「無限の者に対する感性と趣味」

第一の宗教での意味、現象している現実の全体、色彩、解釈しているこの世界は幻想だと主張しています。それは科学的世界像の特徴でもあります。その背後に物の真の存在が隠れている。
ニーチェ → フェティシズムは「世界の背後」を想定している。「ツァラトゥストラかく語りき」のユニークな一節に「世界の背後を説く者たち」が登場しますが、子供の館が世界の背後なるものを発明するのは、苦渋に満ちたしすべき存在であるという自身の状況から目を逸らすためにほかなりません。
「菰神は人間だった。それも、ひとかけらの惨めな人間と自我とにすぎなかった。私自身の灰がらと炎から出てきたのだった。この幽霊は本当に彼岸から来たのではなかった。
兄弟たちよ、私が作り出したこの神は、人間による作品であり、人間による妄想だっ、あらゆる神々と同じように。」
ここからニーチェは余計な一歩を進めてしまいます。すなわち人間は人間の世界だけを見ているのでと想定しそれを超える一切は手品師のトリックに過ぎないと見なすのですこうして残念な事にニーチェは構築主義に陥ってしまいます

フェティシズムは良くない宗教です。


ニーチェ以前にマルクスが商品フェティシズムの分析で指摘していたように、分業体制に基づく近代的な生活はそもそもフェティシズムへの傾向をはらんでいます。 

私たちは常に対象を交換購入していますがその際、対象がそもそもどのように製造され価値を持つに至っているのかをほとんど知らないからです。これを指摘するに際してマルクスは商品フェティシズムとフェティシズム的な宗教と結びつけています。
「労働による産物が商品として生産されるや否やそこにはフェティシズムが張り付く。ソレイユフェティシズムは商品生産とは切っても切れない関係にある。人間の頭による諸々の産物が独自の生命を与えられ相互に関係を結びまた人間とも関係を結ぶ自立した姿で現れてくる。」

ユダヤ教キリスト教イスラームの伝統では、偶像崇拝は、偶像禁止されている。これは他でもない fetishism からの脱却を表していることになります。つまり宗教にも色々な形がありますがその少なからぬものが次のような考え方を脱却しているわけです。すなわちあらゆる現象の背後に隠されている崇拝すべき超対象について、私たちは何らかのイメージを持つことができるという考え方です。 このような考え方からの脱却は、そのような対象など存在しないという洞察への第一歩に他なりません。

宗教の意味に哲学的な考察はこのような意味での神の存在については問われても単に相手にしません。厳密に受け取ればもちろん神は存在します。問題はいかなる意味のまに存在しているかのように神が現象しているのかということだけです。
宗教の意味は理解されうる意味に対峙することから生じるのです。2回され得る意味と私たちとの第一の出会いこそが人間の精神に他なりません。ある時人間の精神が自らを問い、その瞬間に精神の歴史が始まった。

→ いずれにせよ科学と啓蒙と宗教は考えられている以上に近い関係にあるのです。

私たちはすべてを知ることができません。なんといってもすべてを取りまとめて組織化している原理が存在しないからつまり世界が存在しないのです。したがってそのような原理として神を考えるのであればそのような意味での神も存在しません。私たちは決して自らが何者なのかを知っておらず、むしろいつでもそれを探求している状態にあります。キルケゴールとハイデガーが認識していたように、私たちはそのような自己探求の最中にいる存在に他なりません。この自己探求を単純な答えで打ち切ってしまおうとすれば何らかの形態の迷信と自己欺瞞になるほかありません。


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