是枝裕和『ベイビー・ブローカー』
#映画感想文
登場人物
サンヒョン、ドンス、ソヨン、
ウソン、ヘジン
アン・スジン刑事、イ刑事
各パート
雨の中、ソヨンがウソンを捨てるところから始まる。雨のメタファー①
ベイビー・ブローカーのBOXには入れない
BOXは教会に続いている。中に子どもを入れておけば死ぬことはない。その後は教会直属の保育園、施設で育てられる。
アン・スジン刑事がウソンをBOXに入れる。
ソヨンがベイビー・ブローカーに戻ってくる
イ刑事がソヨンを見失った後、ソヨンは教会に昨日ウソンを捨てたことを告白しにいく。しかし、BOXに入れなかったためか履歴がなく、ソヨンが電話番号も住所も残していかなかったため証明ができない。
ドンスがサンヒョンのところにソヨンを連れていく。
養子立候補夫婦①→失敗
ドンスが育った施設にいく
施設に入る子どもが少なくなり、年間450万円ずつ補助金が減らされている
子どもを売って商売をしているブローカーが増えているということ
雨のメタファー②
ソヨンは腕を窓の外に伸ばしながらひとり言のようにいう「自分の過去を洗い流してくれる」
養子立候補②→失敗
洗車のシーン 雨のメタファー③
アン刑事とイ刑事はソヨンと取引をする。サンヒョンとドンスを売春の現行犯で逮捕するため、協力を要請する。従えば減刑されると促す。
アン刑事の「どうしてBOXの中にいれなかったのか?あのままではウソンは死んでいた」という質問に対して、ソヨンは「戻るつもりはなかった」と答える。
罪を償って釈放されたとしても、「親の資格はない。自分には戻る資格はない」
新幹線の中、刑事たちから逃げて、プサンに向かう
サンヒョンがソヨンにコーヒーを渡す
ソヨンはサンヒョンに「どうしてだかわからない」という
ここでの会話はモノローグ的に語られる。トンネルに入ったことでソヨンの顔が影になる。サンヒョンは「将来、本当にウソンに会いに来るつもりだったのか?」と尋ねる
ソヨンの顔が影になる。「最初はそう思っていた。でも、本当はわからない」。影になった時間は、心の中の自分を見据えている。
ソヨンが自首する
サンヒョンはソヨンが部屋を出ていこうとするのに雨が降るかもしれない
ソヨンはそれに対して「雨が降ったら迎えにくればいい」
雨のメタファー④ここでのメタファーは解釈が難しい。たんに「洗い流されれば迎えにくればいい」と解釈して良いのだろうか。その場合、「迎えにくる」は「ウソンを連れてきて」を意味する。
上記の解釈をそのまま当てはめるとこうなる。「もし雨が降ったら」、それはソヨンが罪を償うために「洗い流される」ことであるから、その時間が終わったら「ウソンと一緒に迎えにきてくれればいい」。そして、そのためにもウソンはあなたたちに育ててほしい。
しかし、この最後の部分は結局裏切られる。ソヨンは自首し、ウソンを刑事に託すからだ。だから、この最後の「迎えに来て」にはもう一つの意味がこめられていると考えられる。それは「あなたたちも一緒に罪を償うことになるけれど」という意味だ。その場合、二つの選択肢がドンスに委ねられる。一つめはウソンを売りにいけば、間違いなく現行犯で刑事に逮捕されるが、サンヒョン、ドンス、ソヨンはともに罪を洗い流し、改めてウソンを迎えにいける。その場合、最も早く刑務所を出ることになるのはドンスだろう。
そして、二つめは、逮捕されたくなかったら、ウソンを売りに行かず別の方法を探してくれということだ。しかし、それはソヨンを見捨てることになる…。
ソヨンはどうしてBOXにウソンを入れなかったのか?
この問いは映画の中では語られなかった「ソヨンはどうしてベイビー・ブローカーに戻ってきたのか?」に置き換えることでその応答になるのではないだろうか。
イ刑事がソヨンを付けていくが、途中で見失い、ソヨンはそのまま昨日ウソンを捨てた教会に向かう。しかし、昨日のBOXの履歴はドンスがすでに削除しており、ウソンは教会保護園にはいない。ソヨンは住所も電話番号も残しておかなかったため、証明する術もない。教会保護園にはドンスが勤めていて、ソヨンをサンヒョンのところへ連れていく。
ここから彼らの疑似家族の物語が始まることになるが、物語のキーポイントとなるのはソヨンがどうしてベイビー・ブローカーに戻ってきたのか、その理由だろう。
まず『ベイビー・ブローカー』のタイトルについてだが、ソヨンが教会に戻る直前に入るようになっている。シーンとしては、アン刑事がサンヒョンを車についていきクリーニング屋に着いたところだ。画面は空からクリーニング屋を見降ろした場面に切り替わり、そこに『ベイビー・ブローカー』のタイトルが入る。実質的に、映画がここから始まったわけである。
ベイビー・ブローカーの中で「雨のメタファー」は「自分の過去を洗い流してくれる」だ。この雨のメタファーは、もしくはウソンの沐浴や最後のシーンの海など、映画のなかでたびたび隠喩として用いられる。洗車のシーンはひときわ印象的だが、とにかく「水がとりついたものを落としてくれる」というイメージでつかわれているのだとわかる。
ここで、冒頭の「ソヨンはどうしてBOXのなかにウソンを入れなかったのか?」に戻る。冒頭のシーンはソヨンが教会の階段をのぼるところから始まるが、どしゃぶりの雨が降っている。雨合羽を着ていて胸がふくらんでいるのは、その中にウソンを包んでいるからだ。ここではウソンを濡れないようにしながら、自分はびしょ濡れになるソヨンの横顔が描かれる。横顔から唇と鼻筋だけが確認でき、目までは映されないため、どんな表情なのかまではわからない。ソヨンは映画の冒頭から、「何を考えているのかよくわからない女性」として描かれているのだ。
重要なのは、このときすでにソヨンが人を殺していることである。売春か不倫かしていたウソンの父親をソヨンは殺した。その理由も本当かどうかはわからないが、「ウソンのことを生まれてこなければ良かった」と言ったということからだ。ソヨンがそれに反応したのなら、ソヨン自身はウソンに対して「生まれてこなければ良かった」とは「思っていない」ということだろう。しかし、人を殺して自分は罪を犯してしまったため、ウソンとは一緒にいられない。一時は逃げることができるかもしれないが、それも時間の問題で、やがて捕まるだろう。その時ウソンはどうなるのだろうか。頼れる人はいない。殺した父親の妻から連絡がくる。その妻はウソンを育てるといっているが、そんなことは信用できない。たぶん外国に売り飛ばすかもしれないし、とにかくウソンを正しく育てないことはたしかだろう。自分は一緒にいてあげられない。だとしたら頼るところは・・・。という思考は納得できるものだ。しかし、これではどうして「BOXに入れなかったのか」の回答が導かれない。
ここで、ソヨンの過去が参考になる。映画の前半ではソヨンは自分のことは全く語らない。しかし、洗車のシーンのあと、名前を語る。これを皮切りに彼女の過去も多少わかってくるようになる。アン刑事とのシーンで、ソヨンはこんなことをいう。「売春はウソンの父親と接触前からしていた」。ここから類推するに、彼女もサンヒョンやドンス同様に孤児なのだろう。親の顔も知らない。もしかして養子として育ったのかもしれないが、あまり良くない環境で育ったに違いない。ソヨン自身、自分の過去は辛いことだったと認識している。
遠くまで家出すること
ソヨンの頭の中には、たとえ教会で育ったとしても、自分と同じような人生を歩んでしまうのではないだろうか、そんなふうな思いがよぎっていたのではないだろうか。現に、施設に寄った際に、孤児たちにとって「遠くまで家出(施設出?)すること」がいかに重要なのかが語られる。見ている側として、なるほどそういうものなのかと納得してしまいがちだが、なぜこのシーンが必要だったのかを考えてみると、自然とソヨンがどうしてBOXを利用しなかったのかが見えてくるような気がする。
孤児たちにとって、自分たちはここにいても将来は難しいことをなんとなくわかっている。だからこそ、サッカーやバスケットボールで盛り上がる。将来を考えるのは苦しい。その苦しみをどこかで発散しなければならない。そんななか、「家出」する勇者がときどきいる。彼らにはどこまで遠くへ行けるかがとても重要だ。自分たちがどうしようもない環境にいるからこそ、遠くまで行くというイニシエーションは日常からの逸脱になる。孤児から出たサッカー選手は孤児院にまったく連絡してこない。おそらく過去を忘れたいし、もう忘れているのかもしれない。ドンスも同様に、教会の保護園ではあるが、そこから抜け出した一人だ。少なくとも子供たちにはそう見える。
しかし、「家出」は結局は戻ってくることになる。遠くまで行くことは難しいことも、子どもたちにはよくわかっている。
ソヨンの過去は詳細には語られない。しかし、ソヨンの人生も、ここにいる孤児院、ドンスと似通っているもの、もしくはもっと困難なものだったことは容易に想像できる。私たちのような人間は「遠くへ行くことはできない」、それを無意識的にわかっている。
ソヨンは逮捕され、ウソンと一緒に過ごすことはできない。近い将来、確実にそうなる。ウソンは父親の妻に引き取られるか、もしくは教会の保護園で孤児になるか、二つに一つ・・・。もう一つの手、それはウソンの将来を閉ざしてしまうことだ。ウソンが生きることが本当に良いのかわからない。ソヨンがそう思ってしまうのはなにも不思議なことではない。なぜなら自身も壮絶な人生を歩んできたし、実際にドンスも孤児で育ったなかでは最も遠くへ行った人間、子どもたちに憧れられる存在だが、それでも教会保護下の保育士なのだ。そんな人生で何が楽しいのだろうか、幸せといえるのだろうか。そんなふうになるのなら・・・。ソヨンがそう考えてもなにもおかしくはないだろう。
雨には流されなかった
ソヨンはBOXの中にウソンを入れることも、そのまま放置することも、どちらもウソンを幸せにしないと考えた。考えたかどうかはわからないが、そんなふうなことを思ったのはたしかだ。自分では判断できなかった。無責任かもしれないが、外に放置しておくことで、ウソンに決めさせよう、つまり運命に任せようと思った。
雨はソヨンを流したのか?
雨、水のメタファーは過去や遺恨を洗い流す。タイトル前のそれもソヨンを洗い流したのだろうか。
まず、タイトル前だから雨には流されなかったことを考えてみる。ソヨンはウソンを運命に任せた。そのおかげでもしかしたらウソンは死ぬことになるかもしれないことがわかっていながら。しかし、雨はソヨンの思いを流しはしなかった。トイレの水は流れていない。流してはいない。自分の思いも流れてはいなかった。だから、ウソンを迎えに行こうとした。
次に、タイトル前だとしても、実は雨に流されていたと考えてみる。ソヨンは人を殺してしまった。いずれ逮捕されるだろう。そのためにもウソンをなんとかしなくてはいけない。ウソンは孤児になって幸せになるのだろうか。それはわからない。だとしたらもう運命に任せるしかない。しかし、雨はソヨンの思いを流した。遺恨まで含めて流してしまった。トイレの水は流れた後だ。流れるシーンは意図的に撮られていない。それはもう流れた後だからだ。自分の思いは流れていた。だから最後に残ったのは母性だけだった。だから、ウソンを迎えに行った。
どちらの解釈にも正当性があるし、つじつまが合っているように見える。この二つの差異は、遺恨の洗い流しだ。人を殺してしまったからという遺恨。後者のパターンはたとえ錯覚だったとしても、その遺恨が雨で流れたのだ、心が軽くなったということをソヨンに指し示してくれる。だから最後に残ったのはウソンを大事に思う心だけだった。こう解釈することもできる。
タイトル前は雨が降っていた。
タイトル前の雨はカウントされない?
タイトル前の雨では、ソヨンの過去は流されなかった。