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アダム・スミス『道徳感情論』第一部①

第一部 行為の適合性について
第一偏 適合性という感覚について


第一章 共感について


P30:いかに利己的であるように見えようと、人間本性のなかには、他人の運命に関心を持ち、他人の幸福をかけがえのないものにするいくつかのプリンシプルが含まれている
推進力 = プリンシプル、これは原動力のようなもので、この場合、他人と交わることによってもたらされる喜びのようなものだと解釈できる。

原動力は眺めることによって得られる喜びがあり、哀れみや同情といったエモーショナルな情動がこれに他ならない。

第一章ではこのエモーション、ここでは特に激動 = パッションについて語られる。激情は共感の素になるものであり、タイトルである道徳に我々を導いてくれる唯一のきざしに他ならないだろう。他人のあらゆる行為や状況が私たちを刺激するのは、その激情を呼び起こす私たちに備わった想像力に特有な現象である。
P39「自分が死ぬという予見がこれほどの恐怖になるのは、さらには我々が死んでしまえば苦痛など与えるはずがない周囲の事情に関する観念が、まだ生きている我々を惨めにするのは、まさしく想像力に特有なこの種の幻想に由来する」

→ そしてその想像力を素に、人間にとって最も大きなプリンシプルとなる「死の恐怖」が生まれる。この「死の恐怖」はフロイトのいう「死の本能」とそれに付随する「生の本能」、いわゆるタナトスとエロスの両方を含意したものと解釈して良いだろう。
その死の恐怖は、幸福にとっては強い毒であり、人間の不正義に対しては抑制力となるこで、社会を保護する。

第二章 相互の共感がもつ喜びについて

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第一章で論じた共感について、その共感の深い動きを具体的に論じていく。

P37では、「我々の心にあるあらゆる情動との一体感を他人のなかに見いだすことであり、もっとも驚かせるのは、我々が抱いている情動と真反対の態度である」

→ これは解釈が難しいところではあるが、共感を一体感と置き換え、さらにその一体感を同一性の問題だと置き換えてみると、アダム・スミスの言いたいことが見えてくる。死の恐怖にはフロイトのいう「死の本能」と「生の本能」が含意されている。どちらの本能も「死」と「生」に向かう、動的なプリンシプルを内在している。しかし、同一性に至る瞬間、またその過程で、我々は差異に気づき、自我が発生する。これがフロイトの第二局所でいわれていることである。
ここでいうアダム・スミスの「一体感」は、その差異を想像力という観念、すなわちある種の錯覚により、「他人のなかに見いだすこと」ができる。そして、それが我々をもっとも喜ばせる。

P39:しかし、アダム・スミスは、その同一性の快楽を「利己的な要件」だろうと一蹴する。その喜びはごく瞬間的なものであり、ささいな時しか感じられない。しかも同一性とは逆の事態に気づいたとき、彼らは受け入れられていないと確信し、悲嘆にあけ暮れる。

「自分自身がどのように思ったかではなく、彼にとってどのように思われたかという観点」から我々は判断しているのではないだろうか?
「喜びを活気づける彼の喜びに共感して、我々は愉快な気持ちになる」

P42「ある出来事に関心を抱いている人物が我々の共感に対して満足し、その不足に対して気分を損なうように、我々もまた、共感できる時には彼の態度に満足するし、共感できなければ悪くなるように思われる」


P53
観察者の情動は、苦しんでいる人物が感じる激しさには及ばない


共感(シンパシー)の力──人間の想像力がもたらす観念──を努力して遂行しても、観察者と関心の対象となっている人物の間に、自然に駆り立てているような強い激情を抱くことは決してない。想像上の立場の交換が共感の基礎にはなるが、瞬間的なものに終わってしまうだろう。
→ アダム・スミスは、他人の激情を同じように共感することは絶対的にありえないと断言している。実際に、観察者が感じることができるのは、関心の対象である当事者が感じることとは差異があり、同情(──観察者)はそもそも悲哀(──当事者)とはまったく同一であるとはいえないのである。

社会の調和


立場の転換は観察者に同情をもたらすが、同一の悲哀を受けることはできない。それが分かっているからこそ、我々は差異を意識していしまい、類似性の程度を低下させてしまう。
しかし、この二様の感情の間の類似性は、社会の調和をもたらすためなら十分である、とアダム・スミスは論じる。
P54:「両者の調和が同一のものになったりすることはないが、両者が協和音化する可能性は残っており、そしてこれが、求められ、必要とされることのすべて」
※『国富論』における「神の見えざる手」へのきざしが見える

「社会の調和」は、P55「かりに我々が自制心を持ち合わせるなら」と語られる。つまり、「共感」から得られる同一性は感情の類似性にすぎないが、その協和音化の深度は「想像力」をコントロールする理性により、音調の調整が可能なのではないだろうか、ということである。
続いて、「たんなる顔見知りの同席は、友人の同席よりも、実際には我々の心をいっそう和らげてくれるだろう。だから、見知らぬ人びとの同席は、顔見知りの同席よりも、さらに安心の程度が高くなる」
→ 交友 = society、親しい交わり = コンヴァセイションはが、自己満足に最も効果的な保存剤。

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