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映画『怪物』の感想・考察

 是枝裕和監督の映画『怪物』を観てきましたので、感想を書きたいと思います。クィア・パルム賞を受賞しているということで話題になっているのもあり、公開から2か月経とうとしているのに、映画館は満席でした。もちろん週末というのもあるでしょうが。
#映画感想文
#怪物

あらすじ

大きな湖のある郊外の町。息子を愛するシングルマザー・早織(安藤サクラ)、生徒思いの学校教師・保利(永山瑛太(瑛太))、そして無邪気な子供たち・湊(黒川想矢)と依里(柊木陽太)。それは、よくある子供同士のケンカに見えた。しかし、彼らの食い違う主張は次第に社会やメディアを巻き込み、大事になっていく。そしてある嵐の朝、子供たちは忽然と姿を消した……。

https://filmaga.filmarks.com/articles/246486/

登場人物

麦野早織(演:安藤サクラ):麦野家の母。夫を亡くしており、湊を一人で育ててきた。
麦野湊(演:黒川想矢):地元の小学校に通う男の子。
星川依里(演:柊木陽太):麦野湊のクラスメイト。
星川清高(演:中村獅童):依里の父親。母親はいない。
保利道敏(演:永山瑛太):湊と依里のクラスの先生。
伏見真木子(演:田中裕子):学校の校長先生。孫を亡くしている。

生と死の境界線

 是枝監督の作品に『三度目の殺人』という映画がある。
 主人公である弁護士(福山雅治)が、殺人容疑で拘束されている三隅(役所広司)の弁護を受け持つ。主人公は三隅の供述を聞いていると、本当に彼が殺人を犯したのかわからなくなっていく……。
 是枝監督の印象だが、どういった作品でも、批判的批評的な導線を描くのが巧みである。『三度目の殺人』は誰が殺人を犯したのか、本当に最後までわからない。『万引き家族』や『ベイビー・ブローカー』もそうだ。勧善懲悪ではなく、正と悪、オモテとウラの絶妙な中間地帯をいったりきたりして、結論は読者に委ねる。

https://www.youtube.com/watch?v=znX_FGhGBBo

 今作品『怪物』も、やはり中庸をいくように仕向けられていたと思う。冒頭から家事の現場で炎があがるシーンは、『三度目の殺人』の冒頭と全く同じシーンだ。火が上がるカットの後は街全体が映し出される。

 作中よく語られる言葉に「生まれ変わる」というのがある。主人公の湊は父親を亡くしており、父親が生まれ変わったかどうかを母親に確認する。
 冒頭の火のシーンは、これから物語が破滅に向かっていくことを暗示しているが、不死鳥であるフェニックスを思い起こさせる。古代エジプト神話のフェニックスは、命が尽きる際に自ら燃え上がる炎に飛び込む。しかし、そこから再び蘇るとされており、そのため伝承では「火の鳥」と言われている。父は火の鳥と置き換えられ、生まれ変わると繁栄がもたらされる。湊はそう信じたい。まあ、家にあったのは仏壇だったけど笑。

生まれ変わりの効能

 15年ほど前になるが、長崎県教育委員会が小中学生向けに「生と死のイメージ」に関する意識調査を実施したところ、小学校高学年では 15.4%、中学 2 年生では 18.5%が、人は死んでも生き返るという結果が出た。
 だいぶ昔の調査のため、今はもっと多くなっているかもしれない。逆に、なろう系アニメやラノベが増えすぎて、メタ認知が鍛えられ、減っている可能性もあるかもだが。

https://www.pref.nagasaki.jp/bunrui/kanko-kyoiku-bunka/shochuko/jigyou-chousa-shochuko/jigyounaiyou-doutoku/

子どもたちを取り巻く環境は、核家族化が進み、隣近所の交流が少なくなる中で、 相応して「命の誕生」や「死」にふれる経験も少なくなっているように思われる。特に「死」に関しては、親戚が亡くなってもその葬儀に参列しなかったり、たとえ参列しても、葬儀社での「お焼香」だけに終わってしまったりするなど 「死」を身近 、 なものとして感じる機会は生活様式の変化に伴って少なくなってしまったように感じる。

長崎県HP、道徳教育の推進
、5 児童生徒の「生と死」のイメージに関する意識調査を生かした指導[PDFファイル/618KB]
、https://www.pref.nagasaki.jp/bunrui/kanko-kyoiku-bunka/shochuko/jigyou-chousa-shochuko/jigyounaiyou-doutoku/

 しかし、調査をしたり結果を見なくても、日本人は大人になっても、「生まれ変わったら〇〇〇〇」というアンケートなどが大好きだ。生まれ変わったら〇〇〇〇になりたい、生まれ変わっても今のままでいたい、もし人生やり直せるなら中学生からやり直したい……。
 湊の発現は、小学校高学年としては幼く見える。でもそんなことどうでもよく、フェニックスは私たちの文化に根付いている。だから推しの子が流行る。神の不在がここにある。

※ここから以降はネタバレ含みます。お気をつけください。

メビウスの帯

 今作品は、クィア・パルム賞を受賞したことで一躍有名になったようだ。クィアとは、1990年にジェンダー闘争のなかで生まれたクィア理論のことである。1990年を皮切りにジュディス・バトラーや『男同士の絆』で有名なイヴ・セジウィック等が表舞台に出てくることになる。

 ぼくは大学時代に、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』を読み、うーんと唸っていたことがある。格言的な一文になった「セックスはつねにすでにジェンダーである」は、彼女自身をあらわす代名詞にもなった。
 ぼくが悩んでいたのが、どこからどう考えても、ぼくという個体が男性性だったからだ。他がこの固有性に存在するというのが考えにくかった。20代前半の男性といえば、常日頃から女性の身体に敏感に反応する。そうした強烈な男性性がジェンダーのように「揺れ動く」とは考えにくかった。

 しかし、その認識にもう一つメタ視点をくれたのが、当時読んだ『片想い』だ。読んだのはもう15年以上前になると思うので、かなりうろ覚えだが、この一言だけは覚えている。

男と女はコインの裏表の様なものではなく、メビウスの帯のように、どちらにもつながっている。人により、状況により、その位置は変わる。

東野圭吾『片想い』:ページ数はわかりません。すみません。。

ずっと揺れ動いている

 バトラーのいうように「ジェンダーはつねにトラブル」だ。ジェンダーは常に揺れ動いており、接する人により自分が男気のある性格に寄ったり、環境により妙に女らしい面が出たりする。
 東野圭吾の『片想い』では、それをメビウスの帯に例える。男と女の境界線は非常にあいまいであり、男性と中性性と女性とわかりやすく言葉で区切りをつけたとしても、帯の上はひと目では判別がつかないグラデーションになっている。

 『怪物』では、湊とその友人がクィアとして描かれる。
 しかし、二人の描かれた方もまた違う。

 湊は、性自認に悩んでいるが、依里は発達障害としても描かれ、彼の場合、知的レベルが高く、性自認に悩んでいない。

ドライブ・マイ・カー

 『怪物』の映画の感想や考察を読んでみると、「怪物」とは何だったのか、3つの視点(母、先生、湊と星川)の考察、最後のシーンの意味……などが多く見受けられた。

 ぼくの感想は、上記のような点にあまり関心を持てず、映画が終わり、映画館を出た後も、なんとなく腑に落ちないような感じだった。是枝監督の作品は、意外にわかりやすい。どの作品でも狙いは極めてわかりやすいが、しかし、その中で人間ドラマをきちんと描く……描いてくれる、というのが彼の今までの作品だった。

 こう感想を書いてみて、改めて思うのは、『怪物』に、あまり感動しなかったということかなと思う。賞をとって絶賛されている作品だが、脚本のせいか、時間尺の問題か、やはり映画に萌えることができなかった。『三度目の殺人』や『万引き家族』にあったモヤモヤもなかったし、『ベイビー・ブローカー』にあった涙せざるをえない感動もなかった。最後の二人が駆けていくシーンは……なんだこれ、と正直思ってしまった。

 比較してしまうのは、濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』だ。
 原作があるとはいえ、この作品の人物設定はすばらしかった。クィアとして描かれる高槻の暴力性はとても心揺り動かされた。高槻は亡くなった音のことも好きだったし、家福のことも好きだった。自身の性を自覚できない彼は、そのはけ口を強い暴力に訴えることになる。

舞台俳優であり、演出家の家福悠介。彼は、脚本家の妻・音と満ち足りた日々を送っていた。しかし、妻はある秘密を残したまま突然この世からいなくなってしまう――。2年後、演劇祭で演出を任されることになった家福は、愛車のサーブで広島へと向かう。そこで出会ったのは、寡黙な専属ドライバーみさきだった。喪失感を抱えたまま生きる家福は、みさきと過ごすなか、それまで目を背けていたあることに気づかされていく…

https://filmarks.com/movies/93709
https://www.fashion-press.net/news/66277

葛藤を描く

 ちなみに、映画のパンフレットには、「アイデンティティに葛藤させられる少年たちを、映画の物語として利用してはいけないということです」とコメントがありました。
 
 おいおい……それ映画でいうなや。。
 それアートやん。
 わかった。わざとバズるように、わざとなのか……。感情移入できないように、わざと設定してるなら、まあtiktok的で、ゴダール的で笑。

 さっき気づきましたが、坂元裕二って「世界の中心で、愛をさけぶ」の脚本の人なんですね。

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