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放送の現場からの教育・コミュニケーション実践—LocalizationとLast One Mile
草谷さんとの出会い 草谷緑さんと出会った(対面ではまだ一度もお会いしたことがないが)のは、今年3月に横浜国立大学の石田喜美さんと開いたオンラインイベント「教育言説のファクトチェック<プレ入門編>」だった。参加いただいたあとFacebookで交流する中で、NHK Eテレの教育番組の制作を手がけている草谷さんと、いつか放送と教育をテーマとしたトークをしたいと密かに目論んでいた。それは僕自身がかつてラジ
もっとみる敗北を抱きしめて:SNS時代の公共コミュニケーションの矜持
PR会社に入ったときの面接で「『戦争広告代理店』(高木徹)でPR会社に興味を持ちました」と話したら、「PR会社に入る人はだいたいあれ読んでるよね」と言われたものだ。2021年の今であれば、『140字の戦争 SNSが戦場を変えた』(デイヴィッド・パトリカラコス著/江口泰子訳)が「だいたいあれ読んでる」本になっているかも知れない。広報研修の講師をすると「おすすめの本はありますか」とよく聞かれるんが、
もっとみるNPO法人「教育のためのコミュニケーション」できました
気付いたら1年以上も更新していなかったが、その間何もしていなかったわけでもなく、むしろ自分の人生の中では重大なことがいくつか起きていた。しかし、このnoteにとって重要なことはただひとつ、「教育のためのコミュニケーション」という名のNPO法人を設立したことだ。
https://comforedu.org/
放っておくと怠惰になるから NPO法人を作るぞ!と言うと、「どうしてNPO法人なの」と質
能力のナラティブからカリキュラムをつくる
前回に続いて「あらゆる「能力」はナラティブなものである」という話をしたい。
誰でも自分で能力を設定できる その人の中のどんな要素を括って「能力」と定義するかは恣意的なものであるということは、理屈としては誰でも自分で「能力」定義を設定し、それを対象化、道具化できるということだ。たとえば、社会(たとえば、学校)が求める能力指標に囚われて自己肯定感を低めている学習者には、カウンセリングなどを通じて新
あらゆる「能力」はナラティブなものである
「教育のためのコミュニケーション」という命題を考えるとき、僕は「あらゆる『能力』は基本的にナラティブなものである」という前提に立つ。
ナラティブとは ナラティブというのは、個人や社会の認識を形成する動的な語りの塊みたいなもの。物語の語りなおしによってその人の経験世界をずらし、精神疾患やトラブルへの対処を図る実践を「ナラティブ・アプローチ」という。ここには、人びとが本質や真実と認識しているものは単
カリキュラムのビジュアルデザインを考える
理屈の話が続いたので、自分が大学の広報として関わってきた仕事に言及してみる。今回のテーマは「カリキュラムのビジュアルデザインを考える」だ。
「カリキュラム」とは?まず「カリキュラム」という言葉の定義を押さえておきたい。日本では「教育課程」、あるいは教育のためのプログラムの束のようなイメージで使われる用語だが、もともとは学びの履歴を表す言葉だ。僕は大学生時代のカリキュラム論の授業で、いわゆる教育課
「アクティブなのとテンションが高いのとは違う」
数年前のことだ。NHKで『阿修羅のごとく』を再放送したときに、スタジオゲストでいしだあゆみが出演していた。そこで彼女が、かつて向田邦子に言われた言葉として、「元気なのとうるさいのは違う、暗いのと静かなのは違う」といったようなことを紹介していたのだが、それが今でも印象に残っている。
テンションが高い英語の授業 集英社から出ている『kotoba(コトバ)』という季刊誌の最新号(2019年春号)の特
「ある言葉をつくる」「ある言葉を使わない」という教師の専門性
わが家だけの「あおむし」 わが家には7年ほど前に購入したiPad miniがあるのだが、僕たち家族はそれを「あおむし」と呼んでいる。今は長男の遊び道具になっているのだが、彼も「あおむしどこにあるの?」「あおむしやっていい?」という様子だ。これは息子にiPad miniを初めて触れさせたときに、「はらぺこあおむし」のアプリをインストールしたことに由来する。
家族の中だけで通用しているこういう単語は
保守化する学校の記憶へのコミュニケーションアプローチ
廊下に立たされる 小学校に入学するにあたって不安だったことのひとつに、「廊下に立たされるかも知れない」というのがあった。子どもが重たいバケツをもって廊下に立たされているイメージは、少なくとも日本の文化で育ったある年代以上の人は共通してもっていると思うのだが、実際には自分が廊下に立たされることはなかったし、クラスメイトが廊下に立っているのも目にすることはなかった。そもそも僕の通った小学校は当時まだ新
もっとみる教育のためのコミュニケーション―このnoteでめざすこと
ところでこのnoteだが、facebookで書いた入試についての記事を見た友達から「noteで発信したほうがいいよ」と勧められてスタートしたので、記念すべき最初のポストが、「はじめました」宣言も特にないままいきなり個別具体的なテーマとなってしまった。第3回にして改めてこのnoteで自分が表現したいことについて記しておこう。
「教育のためのコミュニケーション」という看板 今回、自分のnoteに「
教育政策における「アクティブ・ラーニング」というタームの戦略と問題点
猫も杓子も、という慣用表現はこういうときに使うのだろう。「アクティブ・ラーニング」の席巻である。
「対話的で深い学び」というコンセプトは共感するし、各学校での素敵な実践に僕自身も触れる機会はあるが、ここでは政策コミュニケーションタームとしての「アクティブ・ラーニング」という言葉について考えてみたい。
アクティブ・ラーニング的な実践は歴史上いくつもあった 「learning by doing」と
入試改革のHowを考える前に考えること
大学入試の話をFacebookに書いたら思いのほか盛り上がり、特に「入試なんていらない」というコメントがいくつかあっておもしろかった。教育学を勉強していたときと大学職員になったときとでは眺める入試の風景も少し違ってくるものだが、ここ最近の自分の考えをまとめておきたい。それなりに大きな話である。
世の中の3つの重要な変化 企業の新卒採用活動において学歴がモノをいう状況はまだまだ普通に生き残ってい