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能力のナラティブからカリキュラムをつくる

 前回に続いて「あらゆる「能力」はナラティブなものである」という話をしたい。

誰でも自分で能力を設定できる

 その人の中のどんな要素を括って「能力」と定義するかは恣意的なものであるということは、理屈としては誰でも自分で「能力」定義を設定し、それを対象化、道具化できるということだ。たとえば、社会(たとえば、学校)が求める能力指標に囚われて自己肯定感を低めている学習者には、カウンセリングなどを通じて新しい「能力」定義を作らせることで、自身の潜在的なポテンシャルに気づかせ、それを意識して使えるようになれば自信が高まるかも知れない。俗に言う「自己啓発」というのは、要はそういうことなのではないか。

試しにやってみた

 僕も先日、今の自分の仕事や生活で成功したと思えるシチュエーションを振り返りながら、その要因となっているような自分の「能力」を考えることを試してみて、Facebookで投稿した。
 そのひとつが、「スケッチ能力」。これは観察やコミュニケーションを通じて他人の特徴をスケッチするように表現する能力のことだ。自分は人名やその人の古いエピソードを割とよく憶えていて(もっとも年齢とともに思い出しづらくなってはきたが)、それによって身を救われたことが多々ある。しかしこれは「記憶力」という能力として括るより、そのこと自体を可能としている「スケッチ能力」を対象化したほうが自分としてはしっくり来た。

 こういうことがまさに、能力に関する自分だけのナラティブを獲得するということと言えそうだ。もし「記憶力」を対象化してトレーニングしようと思うなら、脳トレとかフラッシュカードみたいなことしか思い浮かばない。一方で自分が鍛えるものを「スケッチ能力」と捉えるならば、それは鉛筆やペンをもって言葉どおりの「スケッチ」を繰り返すことが近道だろう。そう、能力の新しい定義は、学習の目標を変え、したがって新しい学習プログラムの開発を喚起するのだ。

個人の定義の能力を社会化する

 個人向けのエンパワーメント施策としてはこれだけでもう充分だと思うが、コミュニケーションのアプローチを志す以上、ここはさらにもう一歩展開したい。それは、個人の定義による「能力」を社会化することによって、それをさらに広く活かすアイデアだ。

 僕自身がいかに自分の「スケッチ能力」をアピールしたとしても、それに賛同してくれる友人や同僚、上司、家族がいなければ、きっと自己満足で終わってしまう。いや、もっとも個人の領域だけでいえば、自己満足でもまったく問題ない。しかしながら、それが他人も認めてくれる能力なのであれば、やはり大きな自信につながるだろう(ちなみに僕の妻は僕の能力に関する認知が低いために、僕は自信を喪失しがちだ)。

 その目的で僕自身が今考えているのは、自分の仕事や生活を振り返りながら「能力」を定義する実践を、ひとりではなく複数人で一緒に行うワークショップだ。まずは個人で書き出してみて、その後発表しあう。意見交換をしながら、「私のこの能力と、あなたが書いたこの能力は実は同じものかもね」などと対話をしながら、能力定義を重ねたり修正したりしていく。そうするとひとりよがりかも知れなかった「能力」が複数人で共有され、社会化していく。

カリキュラム構築の新しいアプローチ

 さらに、「教育のためのコミュニケーション」としては、そうして社会化した能力を育むためのカリキュラムも構想したい。自分のその能力はいつどうやって身についたのかということも想起し、そのエピソードをシェアする中で、もしかしたら共通の教育体験も浮かび上がってくるだろうか。仮に学校での教育体験だったとすれば、それはきっと顕在的な教育課程よりもヒドゥン・カリキュラムに属するものに違いない。

<社会的な能力定義→その能力の習得という教育目標→適切な教育方法の組織化→実践→教育評価>というのが従来の学校教育のスタンダードな工程だとすれば、ここで提案しているのは、<実践→個人のナラティブによる「能力」定義の構築(=これ自体を「教育評価」と位置づけても良いかもしれない)→「能力」ナラティブの社会化→その能力の習得に関する教育経験の想起→適切な教育方法の組織化>という感じか。ポートフォリオ評価のような手法は、実は後者のような工程のほうが相性がいいような気もする。今後実験も重ねながら、探究していきたい。

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