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あらゆる「能力」はナラティブなものである

「教育のためのコミュニケーション」という命題を考えるとき、僕は「あらゆる『能力』は基本的にナラティブなものである」という前提に立つ。

ナラティブとは

 ナラティブというのは、個人や社会の認識を形成する動的な語りの塊みたいなもの。物語の語りなおしによってその人の経験世界をずらし、精神疾患やトラブルへの対処を図る実践を「ナラティブ・アプローチ」という。ここには、人びとが本質や真実と認識しているものは単にそのとき選ばれた支配的な物語によるものでしかなく、それとは異なるオルタナティブな物語に基づく「真実」も成立し得るはず、という思想がある。支配的な物語の中で生きづらさを感じている人たちと語りながら、つまりナラティブの実践によって、新しい物語を紡ぎ、生きやすい世界を獲得する手法というわけだ。

 したがって、「あらゆる『能力』は基本的にナラティブなものである」というのは、人間(あるいは他の動物でも構わないが)にとって、それ自体が単体で取り出せるような本質的・絶対的・完結的な「能力」というものは本来存在せず、その時代や社会にとって恣意的なものだということ。

「ペットボトルの蓋を開ける能力」は存在するか

 そもそも能力(ability)というのは、「AがBになる」という特定の現象を可能にする要素のことだ。たとえば僕がペットボトルの蓋を開けるとする。閉まっていた蓋が開けられたという状態の変化を可能にしたのは僕の行為だから、僕にはペットボトルの蓋を開ける能力がある、と定義づけることができる。でも、それはあくまで状況に対する恣意的な定義づけであって、ペットボトルの蓋を開ける僕を見て、「あの人はペットボトルの蓋を開ける能力をもっている人だ」と言う人は実際はほとんどいないだろう。そんなものは社会的には「能力」と認知されないのだ。ところが、2歳の子どもが人生で初めてペットボトルの蓋を開けるのに成功した場面に立ち会ったなら、誰もがその子の新しい能力の誕生を喜ぶだろう。しかしながら、そこで実際に作用している力は、実際にはその子の握力だったり、手指の柔軟性だったり、ペットボトルの蓋のメカニズムに関する知識だったりで、「ペットボトル蓋開封能力」という独立した能力はやはり設定しづらい。

 これは「コミュニケーション能力」みたいな概念についても同じなのである。コミュニケーションがうまくいった、いかなかったという状況があるとしても、それを可能とする本質的な「コミュニケーション能力」というものを定義することはできない(そもそもコミュニケーションの成功/失敗の評価自体が困難だ)。もちろん、コミュニケーションをうまくいかせるテクニックというものは種々あるが、それはあくまで技術に関する知識であって、その人の「能力」というのとは違う。技術に関する知識の有無であれば測定・評価がある程度可能だから、システマティックな教育(というより指導)もできる。でもそういうコミュニケーションの具体的な状況の観察や検証と無関係に、「コミュニケーション能力」という概念をある種普遍的なものとして取り出すことはできないのだ。

能力の支配的物語に関する覇権争い

 この見方に立つと、近代の公教育の歴史は、「能力」に関する支配的な物語に関する覇権争いのようにも見えてくる。政府も大企業も、根本的には自らの利益のためにその都度「◯◯能力」という概念を、「社会に必要なもの」として争って作り出し、その「◯◯能力」の周囲に新しい教育ビジネスがどんどん生まれていく。「コミュニケーション能力」もまさにそんな概念で、古くには民族主義や優生思想にもつながるような「〇〇民族だけがもつ能力」みたいな物語も存在した。

 そして近代の学校は、「能力」に関するこの支配的な物語を、ヒドゥン・カリキュラムとして人びとに植え付けてきた。近年いわれる「学力の三要素」なども、普遍的な雰囲気をまといながら、きわめて恣意的なものでしかない。それなのに教育委員会も学校も、あるいは一部の研究者さえ、国から下りてくる「能力」物語を所与のものとして受け止め、その物語の内部でカリキュラムや評価方法の探究や実践を進めているのだ。さらにその物語のもと大学入試や就職試験の課題がつくられ、そこに乗っかれる人と、乗っかれない「落ちこぼれ」の間の断絶が生まれる。

コミュニケーションのアプローチがめざすもの

 このとき、この「落ちこぼれ」を、支配的な能力物語の内部で救うのか、それとも新しい能力物語の構築によって救うのか、という点が重要だ。「教育のためのコミュニケーション」という命題を掲げる僕たちは、言うまでもなく後者のスタンス。つまり、「落ちこぼれ」とされた学習者との語りの中で、能力に関するメタ認識を意図的にずらすことで、その学習者のモチベーションを高めていく。あるいは報道へのアプローチによって、支配的な物語自体に揺さぶりをかけていく。無論、それは能力にかかわるコミュニケーションの覇権争いに参入することだが、重要なのはその際に政府や企業といった大人の理屈を前提にするのか、子どもの生活現実を前提にするかという点だろう。この領域についてはやれることがまだまだあるはずだ。僕たちは今後、実験的なワークショップを行いながら、そのためのアプローチ方法を開発していく。

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