見出し画像

「君が僕を知っている」―幸せでストレスフルな評価の話

 RCサクセションの「君が僕を知っている」という曲があるのだが、その歌詞について、「『僕は君を知っている』ではなく、『君が僕を知っている』と断言できる、『僕』と『君』の信頼関係は素敵だ」みたいなことをラジオで誰かが言っているのを聞いて、妙に納得した記憶がある。
 一方で、今の教育現場における「評価」の場面では、「君が僕を知っている」という信頼関係が失われている、というのが今日の話だ。

お師匠さんは僕を知っている

 そんなことをふと考えたのは、昨日、武道の指導を教育学の立場で研究しているS先生の話を聞いたからだ。
 昔ながらの武道やお稽古事における昇段や免許皆伝は、お師匠さんの主観的な評価に負うところが大きい。S先生のメインフィールドは弓道だそうだが、弓道の昇段試験でそれを評価するベテランは、「息を見ている」とのこと。弓を射るときの所作における、胸や肩のわずかな動きで呼吸の流れを見取るというのだ。
 こうした主観的な評価を可能とするのが、まさに「君(=お師匠さん)は僕を知っている」という信頼関係なのだと思う。評価者である相手は自分のことを正しく評価できる目をもっている、ということへの確信。もっといえば、正しい目をもった相手に見てもらい、評価してもらうことの喜び。自分のように武道やお稽古事とほとんど縁がないまま生きてきた者にとっては、そういうことに憧れさえ感じる。

 しかし、武道における昇段試験をめぐっては、昨年合気道における汚職が問題になったように、その「闇」が批判の対象となることも多い。S先生の「明るい闇」という表現も印象的だったのだが、そこに「明るさ」を見出す猫のような視力は社会から徐々に失われつつあるのだろう。スポーツ界の一連の不祥事への反省を伴う「近代化」「現代化」の波に押されて、武道にも客観的で明確な評価基準が設けられるようになるかも知れない。

科学が僕を知っている

 一方で、こうした変化が学校などの教育現場の「評価」の世界に訪れたのは、ずっと前の話だ。
 学校の教師が信頼と権威を集めていた昔、評価者である教師は、生徒からすれば「君が僕を知っている」といえる相手であるべきだった。もちろんそこにはパワハラに近い関係が潜んでいた可能性もあるけれど、たとえば「就職」でさえコネによる紹介が前提で、そこでも「君が僕を知っている」関係ネットワークがものを言った。
 ところがそういう世界はきわめて保守的なものになる。旧来の権威と、それを背景にした交友関係が社会資本を規定して、階層間の移動が起こりづらくなる。そうした事態への批判から、権威やコネではなく、より科学的に評価・測定された能力や業績が求められるようになり、社会学用語でいう「メリトクラシー」(業績主義)が誕生した。「君が僕を知っている」のではなく、「科学が僕を知っている」世界だ。
 かくして高校入試でも大学入試でも、公平で客観的な評価が重視されるようになったのだが、それらの入試が「科学的」で「公平」であるということへの信仰は、結局のところそれによって獲得される「学歴」への信仰を生むことになる。そしてここに、入試による客観的評価の担保(という思い込み)を隠れ蓑とした、新たな権威が復活する。残念ながらこの新たな権威を支えるのは、「君は僕を知っている」という徒弟の信頼関係の復活ではない。もはや「僕」さえいなくなり、「学歴は君を知っている」という歪んだ関係が主流になってしまった。

AIが僕を知っている

 しかし今は、「学歴」の権威さえさほど通用しなくなった。それは、評価における人間と人間の間の信頼関係が再び深まったからではない。「科学」、あるいは「データ」の信頼性が向上して、「AIが僕を知っている」という時代に突入したのだ。この世界では、自己評価だけでなく、他者評価さえAIによってバイアスを除去させ、最適化される。

 こうして僕たちは、かつて教育における「評価」をワークさせていた「君が僕を知っている」という信頼関係の存在を、遠い昔のファンタジーとして忘れ去りつつある。ましてこの動きは、公教育の世界に留まらず、武道のようなトラディショナルな世界でも起こっていることなのだ。今や所作や振る舞いも精密にデータベース化され、息遣いによる細かな身体の動作もセンサーで正確に測定し、評価できるようになっている。

信頼構築のための日々の評価

 僕は、「評価する」「評価される」という営みは、他者との関係をアップデートするためのコミュニケーション・トレーニングの機会になるものだと思う。多かれ少なかれ、人は他人の評価を気にするものであるが、その分、その評価を内面化しながら自己の人格を形成していくところがある。だから評価する人間は、その大きな影響に対する責任を引き受けなくてはならない。この点で「評価」は評価者にとっても被評価者にとってもストレスフルな活動であるのだが、だからこそ普段からの信頼関係や、「評価する」「評価される」という手続きをどうスムーズに乗り切るかというコミュニケーションの工夫が強く求められる。そしてそのプロセスが、人間関係に確実に厚みを加えてくれるはずなのだ。

 テスト、進級、入試、選抜、就職、人事査定。思えば僕たちは人生で評価されつづける主体なのだ。本来ストレスに満ちた「評価」という営みのステージがたくさんある。しかし能力を可視化する技術を発展させる中で、僕たちは人を評価し、評価されることへのストレスの軽減に成功した。しかし、それと引き換えに、「君が僕を知っている」という豊かな信頼関係を鍛える機会も減ってしまったのかも知れない。それを社会のリスクと捉える議論は、もっとあって良いだろう。

 ではどうするか。
僕たちは、評価技術の発達の恩恵はうまく享受しながら、同時に「君が僕を知っている」関係を育てる機会を意識的につくっていく必要があるかも知れない。とりあえず小学校の教育課程における評価とコミュニケーションのあり方から見直してみることは価値があるだろう。たとえば、AIによる能力・スキルの量的な評価を受け取りつつ、それと同じかもっとウェイトの大きなものとして、教師や友達からの主観的で質的な評価を「手紙」として受け取る仕掛けとか。

 他者への信頼に満ちた社会の構築に向けて、日々訪れる「評価」という営みを意識的に活かし、豊かなものにしていくこと。僕もこれからいろんな実践を検討して、試行してみたくなった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?