「アクティブなのとテンションが高いのとは違う」
数年前のことだ。NHKで『阿修羅のごとく』を再放送したときに、スタジオゲストでいしだあゆみが出演していた。そこで彼女が、かつて向田邦子に言われた言葉として、「元気なのとうるさいのは違う、暗いのと静かなのは違う」といったようなことを紹介していたのだが、それが今でも印象に残っている。
テンションが高い英語の授業
集英社から出ている『kotoba(コトバ)』という季刊誌の最新号(2019年春号)の特集が、「日本人と英語」。やれ英語4技能を正しく評価せよとか、やれ民間の英語検定試験を入試に使えとか、やれ社内公用語を英語にしようとか、英語教育への圧力が急に高まる中、本来立ち止まって考えるべき大事なポイントがいろんな談話によって紹介されている。その巻頭で東京大学の斎藤兆史さんとテレビでもおなじみの鳥飼玖美子さんとが「英語革命は日本人を幸せにするか!?」という対談を繰り広げていて、これを読むだけでもいくつもの論点に触れることができておすすめなのだが、そこでのあるやりとりについ笑ってしまった。
鳥飼さんがある中学校で、「留学経験のあるカリスマ先生、がポップ・ミュージックをかけてノリノリで"Hi, everyone!"とやる」研究授業を見たという。それを一緒に見ていた教育関係者が「素晴らしい」と感心していた、という話を受けての二人の対談。
斎藤 派手な活動に騙されているという感じでしょうか。
鳥飼 英語の授業でいい授業とされるのは、なぜか、やたらテンションが高いのが不思議でなりません。
斎藤 英米の人が見ても不思議だと思うでしょうね。「もうちょっと落ち着こうよ」と。なぜ英語の授業だけそうなのか。
(「kotoba」2019年春号、p.18)
そう、確かになぜか英語の授業はテンションが高くなりがちだ。このこと自体が、テンションの高い明るいお気楽な「欧米人」と、おとなしく礼儀正しい「日本人」という、ステレオタイプな見方を子どもたちに内面化させるヒドゥン・カリキュラムの役割を果たしているように思うが、個人的にさらに危惧するのは、「アクティブ・ラーニング」と言ったときに、こういうテンションの高い授業を安直にイメージする雰囲気があるのではないか、ということだ。
アクティブ=テンションが高い?
逆方向から考えると、授業への子どもたちの積極的な参加(パフォーマンス)を求められたとき、特に日本の教室では、多少空回りしてでも教師がテンションを上げないと場がもたない、ということはある。その際、母語ではない英語を使っていれば、テンションの高さに伴う不自然さが中和されるという効果はあるだろう。中学校の教科の中でも、英語はもともと「アクティブ・ラーニング」的な授業が志向されていて、それが結果的にテンションの高さと結びついているのだ。
しかし、一番の問題は、ここで「アクティブ」であることと「テンションの高さ」が無邪気に結びついてしまっていることだ。本来「アクティブ・ラーニング」といったときは、学習という認知プロセスにおけるアクティブさが問われるべきであって、テンションの高い・低いは関係がないはず。向田邦子風にいえば、「アクティブなのとテンションが高いのとは違う、パッシブなのとテンションが低いのとは違う」のだ。
暗いのと静かなのは違う
その意味では、「テンションが低いアクティブ・ラーニング」という問題設定をすることは有効かも知れない。そういえば茨城大学教育学部の附属中学校が、少し前に「静かな学校」ということを学校目標のひとつに据えていたのだが、ありがちな「明るく」や「元気な」ではなく、「静かな」みたいな形容詞で教育のあるべき姿を捉えるのは、なかなかおもしろい。「暗いのと静かなのは違う」という向田邦子の言葉に、改めて耳を傾けたい。
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