放送の現場からの教育・コミュニケーション実践—LocalizationとLast One Mile
草谷さんとの出会い
草谷緑さんと出会った(対面ではまだ一度もお会いしたことがないが)のは、今年3月に横浜国立大学の石田喜美さんと開いたオンラインイベント「教育言説のファクトチェック<プレ入門編>」だった。参加いただいたあとFacebookで交流する中で、NHK Eテレの教育番組の制作を手がけている草谷さんと、いつか放送と教育をテーマとしたトークをしたいと密かに目論んでいた。それは僕自身がかつてラジオ局のディレクターの仕事をしていて、教師による「教材化」と放送における番組制作には大きく重なるものがあると感じていたからだ。ただ、その共通点については当初、森羅万象のテーマを限られた時間の中でわかりやすくまとめること、という程度でしか捉えていなかった。ところが放送人として僕よりも遥かに厚いキャリアをもつ草谷さんと話しているうちに、放送の現場と教育の現場とは、もっと深い次元で交わり合っているのかも知れないと思いなおした。
LocalizationとLast One Mile
「放送の現場からの教育・コミュニケーション実践」と題した今回のイベントで草谷さんにお話しいただいたのは、NHKエデュケーショナルのディレクターとして手がけた教育番組—たとえば『NHK高校講座』―についてではなく、数年間の異動先だった国際放送のNHKワールドJAPANでの「防災」と「家庭科」の番組の話だった。英語のみの放送をしているテレビではなく、17の言語で展開しているラジオでの実践だ。
防災の番組―BOSAI, Measures for Saving Your Life—は、災害のメカニズムとともに、被災者のケアや避難所運営、防災教育などを取り上げるもの。番組企画にあたって考えたのは、国・地域によって災害のリスクも異なり、日本のノウハウが使えない可能性がある中で、何に焦点を当てるか、ということだったという。そして思案の結果たどり着いたのは、防災にあたって唯一絶対の正解はないことと、判断を必ずしも専門家に委ねられるのではなく不完全な情報の中で素人が判断しなければいけないということ―それは日本社会が度重なる災害を通じて学んできたことであり、「世界のリスナーと共有すべきではないか」。それを草谷さんは「Localization」と「Last One Mile(情報や流通を確実に個人へ届けるための最後の「1マイル」の支援を示す言葉)」という2つの言葉で表した。国際放送としては基本的な考え方まで伝えつつ、各地域の災害リスクや生活実態に合わせたLocalizationと、市民一人ひとりが自ら考えて行動せざるを得ないLast One Mileをも見通す、という姿勢だ。
その実践のひとつが、放送だけに留めないWEBコンテンツ「BOSAI Website」。身近な用品を使った防災グッズのつくり方の動画や防災クイズが紹介されており、手順書や教材としてプリントアウトすることもできる。あわせて、NHKワールドJAPANのプロモーションも兼ねた防災イベントも展開したという。
ここでは、放送に対する市民の関わり方を、「視聴」から「参加」「行動」へと拡充することが企図されている。放送は、基本的に不特定多数を対象とした一方向的なメディアだ。国際放送となれば、さらに多様な視聴者が想定される。その「放送」を教育のメディアと捉えたとき、視聴者の望ましい知識や行動の変容を期待しつつ、押し付けの「教導」を避けるためにはどうすれば良いか。ひとつの答えが、放送する番組の内容において普遍性・一般性を担保した上で、同時にそれが必ずしも期待する知識・行動の変容にはつながらない―あるいは反対に望ましくない変容や強制をもたらす―という放送の限界を理解して、「Localization」と「Last One Mile」に関わろうとすること。それは、放送のコミュニケーションにおける複数の段階、複数のアクターを想定し、それぞれの段階での自律性と協力を見通してコンテンツ全体をデザインする実践といえるかも知れない。
多言語放送でLGBTを取り上げること
この考えは、もうひとつの「家庭科」の番組のつくり方でも意識された。『Japanese Life through Keywords』というこの番組は、日本の家庭科の教科書に載っているトピックを取り上げて解説するというもので、かつて『NHK高校講座』で家庭科の番組を担当していた草谷さんならではの企画だ。家庭科というと調理や被服を思い浮かべるが、実際に教科書を開くと、介護、ジェンダー、子育て、さらにはAIといった幅広いテーマにわたり、それらがわれわれの生活にどう関わるかが多角的に取り上げられている。日本の生活文化や社会課題を捉える視角としては確かにわかりやすい。
草谷さんはNHKワールドJAPANでさまざまなテーマの番組作りに果敢に挑戦する中で、LGBTについても取り上げたいと考えていた。ところが社内での相談の段階で、それは困難だという事実に直面する。17言語の放送が届く先には、宗教上の理由からジェンダーの多様性について語ることさえ憚られる地域もある。きわめて慎重な配慮が必要なのだ。
そこでこのテーマについて真正面から取り扱うのではなく、日本の家庭科で取り上げているトピックとして紹介することにした。その上で、各言語に翻訳されたその放送台本の内容のどこまでを実際に放送で扱うかは各言語の担当者の判断に任せ、さらにアナウンサーがフリートーク形式で自分の国・地域の現状を踏まえたコメントをするという構成にした。
この制作プロセスの中で、既にさまざまな議論、葛藤が起きる。ある言語の現場では、取り上げる範囲について意見が割れた。そういう場合は草谷さんも加わって放送の目的やリスクについて率直に議論し、それぞれが納得できる形で放送できるように進めたという。
まさにこの実践では、番組が視聴者へ届くまでの複数の段階における、コンテンツとしての普遍性・一般性の担保、Localization、Last One Mileが意識されていることがわかる。LGBTのような文化的葛藤を孕むテーマを放送で取り扱う際、「家庭科で取り上げられている」という形で、メタな視点の回路を経由させることによって一般性を確保する。このメタ迂回路は、各言語のスタッフが難しいテーマを相対化して議論することを可能にする。そして、「どこまでを取り上げるか」という議論と判断(Localization)や、マイクの前のアナウンサーの自律的な実践(Last One Mile)、という複数の段階における質の異なるコミュニケーションをひらいていくものになる。
学校教育実践のプロセスとの重なり合い
このレポートの冒頭で「放送の現場と教育の現場とは、もっと深い次元で交わり合っているのかも知れないと思いなおした」と書いたのは、まさにこのプロセスのことだ。
普遍性・一般性の確保、Localization、Last One Mile。それを学校教育の文脈にあてはめれば、学習指導要領のようなナショナルカリキュラムにおける一般性の確保、地域・学校・教室におけるLocalization、Last One Mileとして学習者の自律的な行動、という各段階に重ね合わせられないだろうか。たとえば領土問題のような国際的な対立のある内容の教育実践を考える際、草谷さんのNHKワールドJAPANでの実践からヒントが得られるかも知れない。
そもそも草谷さんのこの実践のルーツは、NHKエデュケーショナルでの、学校現場の教師や家庭の保護者の関わりを経由した教育コンテンツの活用—たとえば「NHK for School」のようなサブコンテンツも含めて―を意識した番組制作の経験にある。それをNHKワールドJAPANに応用した形だ。今回のイベントに参加いただいた現役教師の方々からは、「『一緒に悩み、考える』のスタンスはとても共感できました」「一人ひとり学び方はそれぞれなんだということを最近実感しています」といったコメントが寄せられた。また、本イベントを一旦中締めしたあとの「オフレコ編」では、僕と草谷さんとの出会いの場を一緒に企画した石田さんも加わり、多様なメディアコンテンツに対する総合的な視点を踏まえた教育実践の可能性などの話題をめぐってさらなる盛り上がりを見せた。
今後、より実践的なレベルでこの話題を掘り下げ、教育に関わるみなさんと議論をしていく機会を作りたい。次はぜひ対面で!
※この記事は特定非営利活動法人教育のためのコミュニケーション主催のイベントのレポートです。↓のページではイベント動画も掲載しています。
https://comforedu.org/news/news210928.html
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