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敗北を抱きしめて:SNS時代の公共コミュニケーションの矜持

 PR会社に入ったときの面接で「『戦争広告代理店』(高木徹)でPR会社に興味を持ちました」と話したら、「PR会社に入る人はだいたいあれ読んでるよね」と言われたものだ。2021年の今であれば、『140字の戦争 SNSが戦場を変えた』(デイヴィッド・パトリカラコス著/江口泰子訳)が「だいたいあれ読んでる」本になっているかも知れない。広報研修の講師をすると「おすすめの本はありますか」とよく聞かれるんが、今後はこの本を薦めることにしよう。

ナラティブの争いとしての戦争

 イスラエルとハマスの戦い、ウクライナの「内戦」(実際にはロシアが介入)、アメリカとISの戦い。それらの現場やそこでコミュニケーションに携わった組織や個人(これが重要)を取材した著者の結論は、戦争におけるナラティブの争いは、今や実戦を支える補完する情報戦術ではなく、むしろその反対であるということ。つまり、国際的な支持につながるナラティブの獲得争いがメインであって、実戦がそれを補完するというのだ。武器をたくさん持っていて実戦で明らかに勝てたとしても、ナラティブで負ければ、それは負けなのである。
 国家vs国家という構図はもはや成立せず、それゆえに宣戦布告もないから、「平和」と「戦争」のボーダーも、「戦争」と「政治」のボーダーも、そして個人と国家のボーダーも、全て曖昧になる。そこに、今のSNSやメディアはどう関係したのか、ということを戦争の現場から読み解いていくスリリングな一冊だ。

個人のナラティブと官僚のナラティブ

 たとえば、イスラエルとパレスチナの過激派集団ハマスとの間の闘いでは、ガザ地区に住む10代の少女が目の前で起きていることをつぶやくTwitterが、イスラエルに対するネガティブな国際世論形成につながった。ではそれに対し、官僚的なイスラエル軍のコミュニケーション部隊はどう対応したか。取材で詳らかになる、「SNSの力を訴える若手」vs「全然ピンと来ていない組織」のやりとりとその後の経緯は、公共機関の広報を務める僕たちにとっては「あるある」すぎて目が眩む。

 それからウクライナ情勢。ここでまず取材されるのは、政府の腐敗で全然機能しないウクライナ軍を、Facebookとクラウドファンディングを駆使して支える市民活動だ。一方、ロシアはというと、「トロール(荒らし)工場」的なところで、ウクライナにかかわるニュースやミームを作り続けてはいろんな人のSNSに貼り付けることをしている。恐ろしいのは、それらのニュースがあからさまなフェイクやプロパガンダではないこと。ロシア側の狙いは、別のナラティブを投入することではなく、むしろ無数のナラティブを世に放つことによって、混乱を生じさせることだ。ウクライナの人や国際世論が、もはや何を信じたら良いのかわからない状態にし、思考停止させることで、虎視眈々と目標を果たすのである。
 一方、ウクライナの親ロシア派がオランダの旅客機を誤ってミサイルで撃ち落としたとき、「うちは関係ない」というロシアの主張における嘘を、GoogleストリートビューやSNSにアップされた兵士や市民の投稿をもとに暴いていったのは、ソーシャルゲームにハマっていた若者たちのボランタリーな活動のネットワークだった。その中心人物(僕と同年代だ)へのインタビューもかなり興味深い。

 そして、IS。フランスの女性がISに誘われてシリアへ行ってしまい、命からがら帰国するドキュメントは、シリアで彼女が見た光景を含め、胸をえぐられる。SNSを巧みに使うISに対し、アメリカ国務省の動きは、前述のイスラエル同様、官僚的だ。

敗北を抱きしめる公共機関広報の矜持

 SNSを駆使したナラティブの争いに勝つためには、結局のところ、スピードと量と、そして下世話なミームやインパクトあるタイトルが物を言う。これらを個人ベースで拡散させていくテロ組織などに対して、民主的な国家は、スピードも(いちいち決裁が必要かも知れない)、量も(広報チームの職員が仕事としてできる量には限りがある)、下世話なミームやインパクトあるタイトルも(「これはアメリカという国家が今まで大事にしてきた価値とは違う」という矜持がある)、勝ち目はないのだ。これは大学の広報の仕事をしていても、痛いほど実感していることだ。
 そこで公共機関の広報が問われることは、それでも(勝ち目のない)土俵に上がってコストをかけて勝とうとするのか、それともあえてその土俵からは下りて価値とファクトにこだわった活動をするか、ということだろう。必ずしも二者択一ではないが、僕は明らかに後者の立場だ。それは保守的な態度に見えるかも知れないし、そうして悠長にしている間に事態は猛スピードで悪化するかも知れない。しかし、そもそもその解決をコミュニケーションだけでどうにかしようという発想が、結局のところこのしんどい状況を加速化させているのではないか。

 SNSで展開されるナラティブ戦争において、敗北を抱きしめて、公共機関広報としての矜持を全うすること。そんな自分自身の生業のリスクと可能性の両方を、きわめて実際的な形で突きつけてくる一冊だった。

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