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異なる仕方で語りなおす − カメル・ダーウドと『もうひとつの「異邦人」』
ゼミでの発表資料。
マリエル・マセ はNos cabanesにおいて、未来あるいは過去と「異なる仕方で」関係を結ぶことを、Cabaneのひとつの形に数える。今回の発表ではマセの思索と共鳴するであろうひとつの事例として、アルジェリア人ジャーナリスト・作家であるカメル・ダーウドが、いかに「異なる仕方で」(とくに過去と結ぶ関係について)思考しようとしているかを紹介したい。そのために、彼の小説『もうひ
回帰の美術史 〜 1900年以降の「再評価」と「反動」
授業での発表で使った資料を公開。『Art since 1900』をそれぞれのやり方で再編集してみるというもの。理論的にはこの本に寄っかかりつつ(なので議論の怪しさをも引き継ぎつつ)、制度解体が過剰に進んだ状況で再び美術史を可能にする方法を考えるという問題意識のもと、『Art since 1900』を逆から読んでいくという「回帰の美術史」を考えた。
◎ コンテンポラリーアートの窮状(座談会2)ベ
何もかもおしまいなら、何もかもできる -フランスのアーティスト集団「カタストロフ」による宣言
2016年9月22日、新聞Libérationに、フランスの若手アーティスト集団Catastropheが宣言文を寄稿した。以下はその邦訳である。カタストロフは音楽を中心とした活動で知られるが、彼らの関心は多岐にわたっている。
このどうしようもない世界で(カタストロフとはもちろん破滅という意)、いかにして希望を捨てずにいるか、(日本にはあまり見られないような)彼らの「世代観」と「世界観」は注目に
なぜドナルド・トランプは「ジョーカー」ではないのか? 〜スラヴォイ・ジジェクによる『ジョーカー』分析
適当に訳してまとめてみた。原文は下記の通り。
Pourquoi Donald Trump n’est pas le « Joker », par Slavoj Zizek
https://www.nouvelobs.com/idees/20191125.OBS21551/pourquoi-donald-trump-n-est-pas-le-joker-par-slavoj-zizek.amp
ドン・パスクワーレ 2019.11.16
新国立劇場で、はじめてのドニゼッティ。
ベルカントオペラと、ヴェリズモとのあいだ。
ノリーナとマラテスタが素晴らしかった。声量と正確性と、チャーミングな演技。
パンフレットも読み物に充実しており満足。
ただ、執筆者の誰もがドン・パスクワーレを「喜劇なのだが、人生の儚さに起因するある種の悲しみを表しているために、奥深いものになっている」と評しており、オリジナリティが問われる。
わたしは今回の演
置き去りにされて苦笑いすることの幸福感 〜タランティーノ『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』
ああ、タランティーノという人が好きなのだ。
もはや作品への愛ではないのかもしれないと、思うに至ったよ。
なんてったって、ポップで、男くさくて、なんだかよくわからない固有名詞ばかり出てきて、わたしに寄り添ってくれる要素なんて数えるほどしかない。
でもそれが逆にいいんだな。中原昌也に感じるものと似ている。置き去りにされて苦笑いすることの幸福感。
60年代後半、ヒッピーと落ち目の俳優に溢れるハリ
蔵出し映画評 〜シェイプ・オブ・ウォーター〜
今年の初めにフランスの映画館で見た後に書いたもの。英語のフランス語字幕で、固有名が正確なのかあまり自信がない。
この文章を公開するにあたって、確かに映画評としては完全に時宜を逸しているのだが、最近イルカやクジラに人権を感じるか、あるいはセックスドールに人権を感じるかという話題を耳にして、無邪気にもこんなことを書いたな自分は、と思い出したのだった。生理的感覚に左右される問題であってシンプルな結論
とれたて演劇評 〜修道女たち〜
1、ケラリーノ・サンドロヴィッチ作『修道女たち』
11月9日19時開演の『修道女たち』、本多劇場にて観賞。
ケラリーノ・サンドロヴィッチの演劇は、今はなき青山円形劇場で見たナイロン100℃の岸田國士アンソロジーと、コクーンシアターでの『陥没』以来、3度目。そこまで熱心に演劇をフォローし続けているわけではない私にとっては、野田秀樹と藤田貴大、ノゾエ征爾に次ぐ回数観劇していることになる作家である。