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経験を人生に繋ぎとめておきたい

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映画とか演劇とか展覧会とか、小説とか。
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オペラ『椿姫』 @新国立劇場 2019.12.5

オペラ『椿姫』 @新国立劇場 2019.12.5

 だいぶ時間が経ってしまったが、とりあえず、聞きに行ったのだという事実だけはメモしておきたい。

 ヴァンサン・ブサールの演出、物語を大きく変えることはせずに、舞台をより抽象的な空間に仕立てた。舞台が鏡ばり、背景のオペラ座はプロジェクションの一二幕。三幕のヴィオレッタ死にゆく部屋は、天井からベッドまで薄い幕=膜に覆われている。このオペラの一、二幕には合唱として、印象的な「大衆」が登場するので、役の

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異なる仕方で語りなおす  − カメル・ダーウドと『もうひとつの「異邦人」』

異なる仕方で語りなおす  − カメル・ダーウドと『もうひとつの「異邦人」』

ゼミでの発表資料。

 マリエル・マセ はNos cabanesにおいて、未来あるいは過去と「異なる仕方で」関係を結ぶことを、Cabaneのひとつの形に数える。今回の発表ではマセの思索と共鳴するであろうひとつの事例として、アルジェリア人ジャーナリスト・作家であるカメル・ダーウドが、いかに「異なる仕方で」(とくに過去と結ぶ関係について)思考しようとしているかを紹介したい。そのために、彼の小説『もうひ

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回帰の美術史 〜 1900年以降の「再評価」と「反動」

回帰の美術史 〜 1900年以降の「再評価」と「反動」

 授業での発表で使った資料を公開。『Art since 1900』をそれぞれのやり方で再編集してみるというもの。理論的にはこの本に寄っかかりつつ(なので議論の怪しさをも引き継ぎつつ)、制度解体が過剰に進んだ状況で再び美術史を可能にする方法を考えるという問題意識のもと、『Art since 1900』を逆から読んでいくという「回帰の美術史」を考えた。

◎ コンテンポラリーアートの窮状(座談会2)ベ

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何もかもおしまいなら、何もかもできる -フランスのアーティスト集団「カタストロフ」による宣言

何もかもおしまいなら、何もかもできる -フランスのアーティスト集団「カタストロフ」による宣言

 2016年9月22日、新聞Libérationに、フランスの若手アーティスト集団Catastropheが宣言文を寄稿した。以下はその邦訳である。カタストロフは音楽を中心とした活動で知られるが、彼らの関心は多岐にわたっている。
 このどうしようもない世界で(カタストロフとはもちろん破滅という意)、いかにして希望を捨てずにいるか、(日本にはあまり見られないような)彼らの「世代観」と「世界観」は注目に

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全てが「相変わらず」だった 〜新海誠『天気の子』

全てが「相変わらず」だった 〜新海誠『天気の子』

全てが「相変わらず」だった。
新海誠の絵も、RADWIMPSの歌も。
相変わらず感動はしちゃうけど。

自分の感覚としては、世界と女の子という天秤が釣り合ってない。東京と女の子、でも良いけど。主人公は女の子を選択したが、東京が水浸しになっただけで終わった。もちろん水浸しになって「江戸に戻った」だけで相当な被害があるはずだけどそんなもの描かないのが新海誠だし、家や街を浸す水が驚くほど透明なのも新海

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ドン・パスクワーレ 2019.11.16

ドン・パスクワーレ 2019.11.16

新国立劇場で、はじめてのドニゼッティ。

ベルカントオペラと、ヴェリズモとのあいだ。
ノリーナとマラテスタが素晴らしかった。声量と正確性と、チャーミングな演技。

パンフレットも読み物に充実しており満足。
ただ、執筆者の誰もがドン・パスクワーレを「喜劇なのだが、人生の儚さに起因するある種の悲しみを表しているために、奥深いものになっている」と評しており、オリジナリティが問われる。

わたしは今回の演

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置き去りにされて苦笑いすることの幸福感 〜タランティーノ『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』

置き去りにされて苦笑いすることの幸福感 〜タランティーノ『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』

ああ、タランティーノという人が好きなのだ。
もはや作品への愛ではないのかもしれないと、思うに至ったよ。

なんてったって、ポップで、男くさくて、なんだかよくわからない固有名詞ばかり出てきて、わたしに寄り添ってくれる要素なんて数えるほどしかない。
でもそれが逆にいいんだな。中原昌也に感じるものと似ている。置き去りにされて苦笑いすることの幸福感。

60年代後半、ヒッピーと落ち目の俳優に溢れるハリ

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おくゆかしさはどこへやら 〜映画『マチネの終わりに』

おくゆかしさはどこへやら 〜映画『マチネの終わりに』

もし原作の小説を読んだのなら、映画は見ない方が良い。
往々にして二次創作は原作とのズレからくる苛立ちが原因で残念な結果に終わるとしても、今回ばかりは心から、ダメだね、と断ずることができる。

平野啓一郎の小説、わたしにとっては手放しに感動できるものではなかったにせよ、彼が大切にしたいものが切実なかたちで伝わってきたことは確かだった。
登場人物で「三谷さんだけが人間だった」とか、「あそこで終わるの

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蔵出し映画評 〜シェイプ・オブ・ウォーター〜

蔵出し映画評 〜シェイプ・オブ・ウォーター〜

 今年の初めにフランスの映画館で見た後に書いたもの。英語のフランス語字幕で、固有名が正確なのかあまり自信がない。
 この文章を公開するにあたって、確かに映画評としては完全に時宜を逸しているのだが、最近イルカやクジラに人権を感じるか、あるいはセックスドールに人権を感じるかという話題を耳にして、無邪気にもこんなことを書いたな自分は、と思い出したのだった。生理的感覚に左右される問題であってシンプルな結論

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とれたて演劇評 〜修道女たち〜

とれたて演劇評 〜修道女たち〜

1、ケラリーノ・サンドロヴィッチ作『修道女たち』

11月9日19時開演の『修道女たち』、本多劇場にて観賞。
ケラリーノ・サンドロヴィッチの演劇は、今はなき青山円形劇場で見たナイロン100℃の岸田國士アンソロジーと、コクーンシアターでの『陥没』以来、3度目。そこまで熱心に演劇をフォローし続けているわけではない私にとっては、野田秀樹と藤田貴大、ノゾエ征爾に次ぐ回数観劇していることになる作家である。

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ルクーの展覧会へ行ってきた話 Lequeu, bâtisseur de fantasme

ルクーの展覧会へ行ってきた話 Lequeu, bâtisseur de fantasme

を見てきた。今回のパリ滞在はほとんどこのためなのだ。
東京よりもずっと寒い曇り空の下、プチ・パレに10時から並んだ。物好きなお年寄りが20人ほど。開館時間より少し遅れて入り口が開いても、そこはパリ、チケット売り場が整うまでまだ10分ほど要する。こちらのフラストレーションを溜めておいて、やっとの事でスタートラインに立つと仏頂面な係員が迎えてくれる。でも許せる。なんてったって、ルクーの作品を初めて生で

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イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』

イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』

あなたはイタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』の、誰が書いたのかもよくわからない書評を読み始める。カルヴィーノの名を知っているし、この人の小説をいくつか知っている、もちろん『冬の夜・・・』もずっと以前に読んだことのあるあなたは、おぼろげな記憶に訴えかけてくるこの如何にもな始まり方をする文章に、少し疲れさえ覚えて、このまま読み続けるかどうかを思案する。

なぜなら書評なのだとしたら、これからス

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男と女、身体と演劇 〜『ドキュメンタル シーズン6』から考える

笑いが好きだ。

笑いは、謎めいた存在だ。心的な感情でもあり身体的な作用でもある。
それは無防備な私たちにゼロ距離でぶつかってくる。防御を固めようとすることが、逆に笑いを導いてしまう。あまりに人間と人間性に密着している。だから笑いというそもそも生理的なものに対して、私たちの思考も生理的にしか反応できないことが多い。つまり笑いについて考えることはとても難しい。ベルクソンが一冊の本を書くに値する主題な

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