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おくゆかしさはどこへやら 〜映画『マチネの終わりに』

もし原作の小説を読んだのなら、映画は見ない方が良い。
往々にして二次創作は原作とのズレからくる苛立ちが原因で残念な結果に終わるとしても、今回ばかりは心から、ダメだね、と断ずることができる。

平野啓一郎の小説、わたしにとっては手放しに感動できるものではなかったにせよ、彼が大切にしたいものが切実なかたちで伝わってきたことは確かだった。
登場人物で「三谷さんだけが人間だった」とか、「あそこで終わるのは逃げで、あの後必然的に登場人物たちが醜くなってしまうのを書かなきゃ」などと冗談めかして批判さえしていた。けれど彼が守りたかったのはふたりの男女の備える知性の誠実さ、ほんとうにこれに尽きるし、守ることにある程度成功してもいる。
だが平野自身の誠実な知性は、自由で下卑ていてご都合主義な解釈で映画化することを許してしまったらしい。それはまったくあなたの大事なもの、そしてもはや作品に触れたわたしたちにも共有されている大事なものを傷つけてしまう、見当違いの寛容さというものだ。

石田ゆり子の演技をはじめ悲しいところを挙げればキリがないが、いちばん非道い点を指摘しておけば、三谷早苗の扱いを大きく変えたことだろう。
映画での早苗は、自分の犯した罪を、自ら贖おうとする。大変殊勝な試みだ。しかしその結果彼女は自分の人生を手放すことになる。なぜなら彼女の「人生は、薪野」なのだから!早苗という人間臭い人間は、自分を最後まで守り通してしかるべきだ。彼女が生きる方法はそれしかないのだから。そしてここに、小説の与える一番のリアリティがあったはずなのだ。
そこにはもちろん子供の存在が大きく影響している。「薪野との子供を産んでしまうこと」、それが早苗のいちばんの成果だった。薪野は真実を知った後も、子供への否定しようのない愛情を通じて、早苗との生活を受け入れたのだった。反対に洋子にも子供がいて、その存在が最後まで彼女の分別を保たせる。映画では彼らと子供との関係の描き方があまりに希薄だ。
だから薪野があんまり好きじゃない嘘つきの女から、好みの女に鞍替えするだけのストーリーになってしまう。反対に早苗はあんなに自分に負担をかけてまで手に入れたものを、あっさり手放して倫理道徳に服することを決める。その過程で子供という人間の処遇はほとんど問題になることがない。

次にがっかりしたのは、伊勢谷友介演じるリチャードの人間像である。映画ではあまりに、「わかりやすい悪人」すぎる。終始軽薄にお金の話をしていて、最後には浮気して離れていく。そんな人物と、40をすぎた洋子が婚約するという設定ゆえに、洋子の知性さえ疑われる事態だ。傷つく。
小説での彼はもっと愛情の深い人物ではなかったか?しかし彼の家族の描写などから彼がある種の弱さを持っていることが明らかになるからこそ、浮気の条件が整うのではないのか?

まだある。
この映画では、薪野と洋子が恋に落ちる理由にほとんど注意が払われない。最初から当然のように恋してて、背後では戯画的な嫉妬をする早苗がちょこまかしてる。慎ましさと分別に縛られたなかでもなお少しずつ互いに惹かれていくというのが、40代の恋なんじゃないの?(まだ若いから知らないですけど。)
ここを軽視するから、薪野はただ話の面白いやつ、洋子はただ上品で頭よさそうなやつ、そしてふたりとも容姿端麗、それしか伝わらない。とんでもないね。(冒頭でコンサートに来た洋子が来てたブラウスは、変にルーズな感じで似合ってなかったけどね。あと伊勢谷以外英語も仏語も下手すぎだけどね。このへんは百歩譲って許すよ。)
ふたりの知性を描けないのは、小説では書き込むことのできるふたりの(メールの)文章の肌理が、映像では捨像されてしまうから。メールじゃなくてメッセージのやり取りになってて、まったく詩情も何もない。
だから、早苗が薪野のふりをして送ったメールに洋子が違和感を感じるのを撮れないし、洋子が早苗の言葉遣いに勘を刺激されて、告白される前に真実を察してしまうのも撮れない。
こういう微細な心情変化を撮れる日本人の監督他にいると思うんだけどね。

これくらいにしておこう。
登場人物をみな綺麗で良い人に仕立て上げたくて、悪い人はただ単に悪い人としか描かない(しかも今回は悪人がみな「外人」だからさらにたちの悪い)、しかもこんなのがある程度客を集めて評価されてしまう、メジャーな邦画の絶望的な状況を改めて認識しました。

「日本の心」、おくゆかしさはどこへやら。

お金も欲しいですがコメントも欲しいです。