見出し画像

「でんでらりゅうば」 第13話

 村人たちが収穫を終えた深山は、一転しんと静まり返った。人間の姿が消えたと見るや、山リスやヤマネたちが、雪が降り始める前にひとつのどんぐりでも多く集めておこうと懸命に走り回った。
 郷の駅の仕事も一段落ついて、作業員たちもそれぞれ作業場を片付け、来年春の開業に向けての準備をしつつ、建物の冬囲いを済ませて施設を閉じた。そして本格的な冬に向けて、自らの家の冬越しの準備に取りかかるのだった。
 郷の駅の仕事がなくなると、安莉には更に時間ができた。朝八時から職場に出て行く必要がないので朝はゆっくり起き、優雅にコーヒーを入れて、小説の構想を練ったり思いついたアイデアを書き留めたりする充実した時間を過ごすことができた。
 時間に余裕ができた安莉は、毎朝建物の周りを散策するようになった。これまでは玄関を出ると真っ直ぐに坂道を下って郷の駅がある村のほうへ下りていっていたのだが、最近は建物の裏や周辺を危なくない範囲で、足の向くまま気軽に歩いてみるのが楽しみになっていた。
 秋の午前中の空気は、何にも増して素晴らしかった。空が近いため、頭のすぐ真上に広がる青空は吸い込まれそうなほど青く、風もないのに薄い筋雲がたなびいているその様は、まるで腕のいい画家が熟練した仕草でハケをさっと引いたかのようだった。

 その朝も、コーヒーだけの朝食を済ませると、安莉は階段を下りていって玄関を出、村へ下る坂道とは逆の方向へ歩き出した。建物を回り込んで村の反対側の山に分け入っていくと、踏み固められて草があまり生えていない細い歩道があった。その道を辿っていくと、杉林を抜けて大きな旧道に出た。
 その旧道は、現在ではまったく使われていないもののようで、両脇にはアスファルトを割って茫々ぼうぼうと丈の高い草が生え、林のあちらこちらから吹き寄せられてきたのであろう、細い枝や草などが一面に散らばっていて、いかにも打ち捨てられたような寂れた雰囲気に満ちていた。
 安莉は人気のないその道を、思索にふけりながらゆっくりと歩いた。散策を始めて以来、何度か歩く内にすっかり気に入った道だった。ここでは人の気も動物の気配も感じずに、心おきなく自由気ままに自分だけの考えごとに耽ることができるからだった。
 そのときも安莉は今書いているもののことを考えながら、前を見るとはなく歩を進めていた。
 不意に、道の向こうからひとりの男が歩いてくるのに気づいた。この道で人と会うのは初めてだった。……こんな道を、私以外にも歩く人がいるんだ……。
 そう思いながら立ち止まると、男は見る見るこちらへ近づいてきた。側へ寄るごとに、どうやら外国人であるらしいことがわかってきた。背が高く、ジーンズを履いた脚は驚くほど長い。赤いニットキャップで頭と耳をすっぽりと包み、黒いサングラスをかけ、紺白のチェック柄のマフラーに緑色の温かそうなフリース素材のジャケットを着込んでいる。大きめの尖った鼻と薄い唇が、彼が外国人であることを益々特徴づけていた。
「こんにちは」
 アクセントのない、意外に綺麗な日本語で、男は話しかけてきた。敵意のない柔らかな、感じのいい声だった。
「こんにちは」
 安莉もできるだけ感じのいい声を出して応えた。こんな人気のない道で知らない男と、しかも外国人と出くわしたのだから、内心おびえていないわけではなかったが、ここで恐れを表に出すのは得策でないと、本能的に感じていた。
 そんな安莉の心を読み取ったのかどうかわからないが、男はにこやかに両手を広げ、こちらを安心させようとするかのような友好的な態度で話しかけてきた。
「この村にお住まいですか?」
 安莉は面食らったが、男の日本語があまりにも自然で流暢りゅうちょうなので、なぜか段々と気を許してもいいような気がしてきた。
「はい、この少し下の村に」
 答えはしたが、まだ警戒の色を帯びた声の返事は言葉少なだった。
 男は安莉が話に応じたことに勢いを得たようで、更に微笑みを増しながら目の前で立ち止まって、自分がやって来たほうを振り返って話し続けた。
「僕はこの道を少し向こうに行ったところに住んでいます。住んでいる、と言っても、秋から冬の期間だけですけどね。ここへはお仕事か何かで?」
 自分についての紹介から、安莉に対しての質問まで、実に明瞭で鮮やかな話しぶりだった。彼のそんな言葉づかいや雰囲気に、この村の人間たちと異質なものを感じて、安莉は返って心安く感じた。
「ええ。九月から十一月の予定で、こちらのお仕事を手伝いながら滞在させてもらっているんです」
 安莉は目の前にいる男に、少しずつ心を開いてもいいといったような気持ちを感じながら言った。すると相手は嬉しそうに微笑んで、
「そうですか。では我々は似たような境遇ですね」
 と言った。互いのあいだに、穏やかな空気が流れた。

 ――男はアメリカ人で、旧道の南側の土地に別荘を所有していると言った。芸術関係の仕事をしていて、主に貿易で収入を得ているらしかった。数年前に不動産投資のアドバイスを受けてこの山中に土地を見つけ、立地見学をしに訪れた際に〝霊的な啓示〟を受けて、すっかりこの山を気に入ってしまったということだった。
「霊的な啓示……。随分難しい言葉をご存知なんですね」
 安莉は言った。アメリカ人にしては、男の物腰にはしっとりした温帯地方に育った人に特有の湿り気があるように感じられた。
「ええ、霊的な啓示。まったくこの言葉が当てはまるんです。そんな印象を、この土地に初めて来たときに受けました。美しい言葉だと思いませんか? 実は僕は元々日本文化が好きで、大学でも日本文学を研究していたんですよ」
 男は言った。
「なるほど、それでそんなに日本語がお上手なんですね。こちらはもう長いのですか?」
 安莉は楽しくなって聞いた。もっと長く、この男と話したいと思った。
「ええ。この土地とはずっとかかわっていますよ。……随分長くなりました」
 男も楽しそうに微笑みながら言った。
 
 安莉は男と、一時間以上に渡って話し込んだ。日本文学を研究していたと言ったとおり、彼は日本の新旧の作家とその作品に精通していた。彼は近現代の文学を明治、大正、戦前、戦後、また昭和、平成と区分けしてそれぞれの時代の作家たちについて熱く語った。それは日本人の感覚にはない、言わば外側から見た斬新な角度からの批評で、安莉にとっては非常に刺激されるものだった。
 実は自分も、文章を書く者のひとりだ、と、安莉が告白してしまったのは、それほど不自然な流れではなかった。
「へえ、そうなんですか」
 男は心から感心したといった顔をして、嬉しそうに目を輝かせた。
「まだ何ひとつ書き上げてはいないんですけど」
 安莉は恥ずかしそうに言ったが、男は頭を振って、
「〝書いている〟という時点で、もうすでに立派な物書きですよ。自分の頭で考え、自分の感覚で表現しているんでしょ? そういうことを、創作というんですから」
 安莉の目の奥をのぞき込むようにしながら言った。
「……ありがとうございます。何だか、感激してしまいました」
 安莉は心から言った。今男の言った言葉が、胸の真ん中に突き刺さるような気がした。今日ここでここの男に出会えてよかった、と強く思った。
「またお会いしましょう」
 男は言った。サングラスの奥の目が、名残惜しそうに閃いたような気がした。
「ええ。ぜひ。また」
 安莉も言った。そうだ、と、男は言って、
「実は明日から仕事の関係で、一時アメリカに戻らなければならないんです。二、三週間後には戻ってくる予定ですが、そのころにもう一度お会いできればと思います。もしよろしければ、連絡をいただけますか?」
 ポケットからスマートフォンを取り出すと、連絡先と電話番号を安莉に教えた。スマートフォンには男の名が、片仮名で「マイケル・サンズ」と表示されていた。
 そして別れ際のことだった。男は突然、謎めいた言葉を吐いた。
「ところで、よくまあ、あんな風に見られていて平気ですね」
「えっ……?」
「お気づきでない? 建物の周りを、いつも何人かが見張っていますよ」
「何ですかそれ……。なぜそんなことを?」
「僕は散策が趣味でしてね。お住まいの村のほうにも、あなたが来られる前からいつも足を運んでいましたから。そんな光景を、何度目にしたことか」
 サングラスの奥の目が、警告するように光ったような気がした。
「……悪いことは言いません。できるだけ早く、この集落から出ていくことをお勧めします。何かが起こってからではもう遅い。この村の人間にはくれぐれも気をつけることです。……今のところ僕に言えるのは、これだけですが」
 あとは自分の判断ですよ、と言うと、男は来た道のほうへ戻り始めた。
「見張られてるって……。この村の人たちが、なぜそんなことをする理由があるんです? いったいどうしてそんなことを……?」
 安莉の声が聞こえたのか聞こえなかったのか、男はきびすを返してくるりと反対側を向くと、そのまま立ち去ってしまった。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?