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自己紹介(前) - 20代最後の歳をパリで過ごした理由

(見出し画像はフランク・O・ゲーリー設計によるパリの “フォンダシオン ルイ・ヴィトン” の屋上で撮ったものです)

私は今年47歳になる。一般的にはかなり "いい" 大人で、それなりに経験も積んできた中年だが、これまでに人生の岐路となったポイントがいくつかある。その一つが、"パリで過ごした20代最後の歳(年)" だ。思えば “とりあえず登録” から始めたnoteで、自己紹介の投稿をしていない。それゆえ、この理由や背景を説明することで、私自身を理解していただける一助になるのではないかと思い、書いてみることにした。

私が育った家庭環境

私は北陸地方の出身で、どちらかといえば保守的な家庭に育った。両親は、進路や進学に関しては寛容だったが、服装や遊び、門限、倫理道徳に関する点では厳しい側面もあり、お小遣いもなく、洋服などは自由に自分の好きなものを買わせてもらえない環境だった。

フォンダシオン ルイ・ヴィトンで “蚊帳かや” が設置された空間。フランスでも “Japonisme” (ジャポニスム / 日本趣味の意)が人気である。

影響を受けた母と祖母

一方で母は趣味で油絵を描くということもありアート好きで、小さい頃からよく美術館に連れられていった。

祖母はセンスのいい人で、着物はもちろん、書道、お茶、手芸・工芸をたしなむ人だった。彼女の部屋には購読している高級カルチャー誌がいつも置いてあって、祖父母の家を訪ねるたびに私は祖母の部屋に入りびたり、その美しいマガジンを毎号隅から隅まで眺めていたものだった。彼女の部屋に置いてある小物も一つ一つ品のいいものばかりで、私は自然とその趣に惹かれて入り浸っていたのだと思う。そして母は祖母のことを、よく「おばあちゃんは ”衣装道楽” よ」と言っていた。ちなみに私は祖母似の顔立ちである。

衣装道楽(読み)いしょうどうらく
〘名〙 衣類を多く所持したり、着飾ったりするのを特に好むこと。また、その人。着道楽。

出典: コトバンク 精選版 日本国語大辞典

20代の頃は気付きもしなかったものの、今となっては私がファッション・アートに傾倒するのは、母、特に祖母の影響を多分に受けていたからではないかと感じることがある。

まるで空中に浮かぶ船のような建築のフォンダシオン ルイ・ヴィトン

ファッションとは無縁だった20代前半

そんなわけで、大学進学とともに初めて自分で選んで洋服を買うようになり、試行錯誤するうちに少しずつファッションの世界で “冒険” をするようになった。

けれど、ファッションの世界で働くことはその頃の自分には敷居が高すぎた。そこまで自分のセンスに自信があるわけでもなく、また自分独自のファッションの世界観も持っているわけではなかった。ゆえに、就職活動時にはファッション業界で働く選択肢など皆無で、考えたことさえなかった。

念願叶って3年前にようやく訪れることができたイヴ・サンローラン美術館

“何か” に気付き始めた20代半ば

ところが20代半ば、仕事にも慣れ始め、自分の好きなことを追い求めていく余裕ができ、次第にファッションやアートの世界にも足を踏み込んでいった。古着屋さんにも足繁く通ったものだった。そうしていくうちに私は、私の追い求める情報のほとんどがフランスにたどり着いていくことに気が付き始めた。

また、私はその頃 "20代のうちに海外で就業経験をする" ことを一つの目標として掲げており、英語を少々かじっていたこともあって北米方面、アメリカのファッションの聖地ニューヨークに行くことを漠然と考え始めていた。

イヴ・サンローランの有名な “モンドリアン・ルック”。1965年に発表された。(イヴ・サンローラン美術館)

岐路となった米同時多発テロ

しかし、ちょうど2000年、9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が起こり、世界の政治地図は一変するとともに、私たちの意識にも多大な影響を与えた。

それまで私はヨーロッパには全く興味がなく、"ヨーロッパには老後に行けばいい" と口にしていたほどだった。今思い返すと全く失礼な話だが、実際のところ、当時私はヨーロッパをひどく保守的だと感じていた。

けれどファッションを追い求めていくうちにたどり着くのはいつもフランス、そして前述のテロで安全面においては言及するまでもなく、実際アメリカという国自体に疑問符を持つようになった私は、次第にヨーロッパに興味を持ち始め、フランスに行くことを考えるようになった。そして同時にファッションの世界で働いてみたい、とも。

モンドリアン・ルックのミニドレスを着たモデル(イヴ・サンローラン美術館)

仏ワーキングホリデービザ

それまでフランス語を学んだことはなく、ヨーロッパに行こうと考えたこともなかったのでフランスは私にとっては非常に遠い国だったことは間違いない。そして英語圏にさえ長期滞在したこともない。あるのは何かしら引き寄せられる気持ちとパッション(情熱)、それだけである。先のことはぼんやりと "ファッションの世界で働ければいいけれど…" と考えていた程度であった。そして調べていくうちに日仏間で ”ワーキングホリデー” 制度があることを知り、倍率は数倍とも十数倍とも言われるビザに応募することを思い付き、トライすることを決めたのがちょうど28歳の頃だった。

日仏間のワーキングホリデー制度は2000年に始まり、人気のため毎年その定員枠は倍増されていたものの、当時その倍率は公表されていませんでした。私は第5期に当たる2004年の応募枠で運良くビザを取得し、その年に渡仏しました。

※ 現在(2022年6月)は受け付けていないようなので、ご興味のある方はご自身での確認をお勧めする。

注意:新型コロナウィルス感染症の影響により、ワーキングホリデービザの申請は現在、受け付けていません。

出典: 在日フランス大使館

私は基本的に石橋を叩いて渡るタイプである。しかし当時は直感なのか、パッションなのか - 突き動かされる何かがあり、そして "20代のうちに海外で就業経験をする" という目標も叶えられるという思いもあり応募に至った。その時点では渡仏経験はもちろん、渡欧(ヨーロッパ)経験もなかった。

サントギュスタン(Saint-Augustin)駅で見つけたメトロ広告。こういう広告もパリらしい。
世界三大アートギャラリーの一つ “ペロタン(PERROTIN)” の本拠地もパリ。

ワーホリビザ取得を経て渡仏

新卒で入社した会社はIT業界で、ファッション業界とも絡んでおらずほぼ無縁だった。その会社を退職したのち、フランスのワーキングホリデービザ応募に至り運良く取得、渡仏した。渡仏当初の "目標" は(何かしらの縁を得て)"パリコレに行くこと" であった。

人生とは分からないもので、30歳手前で、20代前半の頃には考えも及ばなかった方に転ぶとは自分でも驚きだった。思えば、20代前半は大人とはいえ自己形成の道半ばだったのだろう。米同時多発テロ後、ヨーロッパに心が向き始めたことは、今も私のベースであるからだ。

コンコルド広場の夕暮れ時は、パリジャンも認める美しさ。

こうして私は20代最後の歳(年)をフランス・パリで過ごした。それは現在の私の基礎を作り上げたと言っても決して過言ではない。同時に、長期滞在した初めての海外都市でもあった。一年間はあっという間だったが、貴重な経験も経て、40代になってからはイギリス滞在も経験した。しかし、今だにカルチャーとして私の琴線に触れるのはやはりフランスで、烏滸おこがましいことを承知で言うと、パリはやはり海外での私のホームなのである。

午後7時半でも夏時間で明るいパリ。横からの凱旋門も荘厳でハンサムだ。

私のパリ滞在は、もうまもなく18年も前のことになる。が、パリは本当に変わらない街で、それがパリの魅力でもある。少なくとも私にとってはそうだ。

帰国してからも何かとフランスとのご縁は続き、現在に至っている。そんなこんなもまたエピソードとして、少しずつここに書き留めていくことができればと思う。(後編に続く)

※ 挿入されている写真及び画像はすべて筆者により、2019年10月に撮影されたものです。

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