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井創灯
2021年4月11日 18:09
薬剤師の試験勉強をしていた頃から使っている古びたラップトップの画面に、薄暗い夜光に照らされた修平君の顔が映し出されている。久々に観た彼の顔は痩せていて、顔全体に野暮ったい空気が巻きついているみたいだった。時間が経った事も影響しているのだろうけど、自分の記憶の中の修平くんの顔がどれだけ美化されていたのか驚かされた程だ。USBに入っていた動画データの記録されていた日付は、修平くんが亡くなる数日前に
2020年9月23日 09:20
真っ白な空間。均一な距離をとりながら複数の直線を縦に描く。次に、それらを横線で結びつけ長方形を作り上げる。幾つかの大きな箱が出来上がると、その中に小さな四角形を加える。その作業を繰り返す。何度も。先程まで白紙だった世界には幾つもの建築物が出来上がっている。これらは(ビル)というイメージだ。満員電車の様な狭い空間に窮屈そうに立ち並ぶビル。ビル。ビル。その箱の中では毎日大小の起伏を伴っ
2020年9月17日 20:47
神谷の葬式は親と一部の関係者だけの小さな物で済まされた。家族構成なんてまじまじと聴いた事が無かったが、神谷の父は既に亡くなっており、唯一の肉親は母親だけだった。他界した父親は都内で有名な食肉関係の会社経営者だったらしい。歌舞伎町の飲食街へ太いパイプがあった神谷の父は、若手事業者と手を組んだり、古くからその地で商いをする小料理屋へと肉を卸したりするなど手広い取引を展開しており、神谷自身もそんな父
2020年9月4日 23:37
入り口から一番離れたバーカウンターの席に腰をかけ、グラスに注がれたジンジャーエールに口をつける。乾いた喉へ強烈な生姜の香りを纏った波が気泡と共にぶつかってきて俺は思わず瞼を閉じる。パチパチと弾ける泡が鼻先を湿らせた。本当なら美味さ故に込み上げてくる雄叫びをここで一声あげたいものだが、ダムを塞き止める様に俺はその思案を口に抑え込む。ここは美味い時に勢いで雄叫びをあげるような店じゃない。黙ってグラス
2020年8月26日 21:19
修平くんに渡されたお金をタクシーの運転手に支払うと、降り止まない雨の中市内に佇む某アパートの前に私は降り立った。自分の住む中心地から少し外れた場所にある目の前のアパートは、近隣の木造の民家と並ぶと幾分か近代的に見えるデザインだった。たぶん持ち主が捗々しくない入居状況を改善する為に、外装部分のみリフォームをしたのだろう。少し浮ついた印象が私には際立って見えた。改めて修平君に渡されたメモを見る。女
2020年8月22日 16:36
冷たいフローリングに腰を降ろし、神谷に渡された雑巾の様に皺くちゃなリュックの中身を漁る。俺は指先に感じるなだらかな感触から、それが何なのかを理解した。中学時代、いや、それより少し前に母親に与えられたポータブルCDプレイヤーだ。黒一色で光沢のある見た目は異世界から転送されてきた未知の乗り物みたいな印象だった事を覚えている。もう自分の目では見ることが叶わないそれを、俺は指先で触りながら物体の形状
2020年8月12日 19:46
排他的なデザインの真っ白な空間で、私は目の前の先生の喉元を呆然と見つめていた。隣には二枚のレントゲン写真が貼られており、全てを曝け出した肉体を青いライトが煌々と照らしている。先生は呼吸する様な自然な口調で、悠くんの、彼の目が見えなくなったことを私に伝えた。地下鉄の駅で突然意識を失った彼は、乗客のお婆さんの咄嗟の連絡で近隣の病院へ運び込まれた。職場の電話でその事を知った私はタクシーに飛び乗る
2020年8月8日 20:48
喫煙席のある店は絶対に予約しないと言っていたのに俺と神谷は煙たい店内で注文したビールの到着を待っていた。「いやぁ悪い悪い。俺の知ってる店で煙草吸えない店、そういや無かったわ。」苦笑して詫びながらも神谷は手早くポケットから取り出した煙草に火を付けた。悪びれないヤツだ。「お前絶対そう思ってないだろ。まったく、今日は帰ったらすぐ着てるやつ洗濯しなきゃならないわ」「あはは、すまんすまん。」先日、
2020年7月31日 09:16
玄関脇に置かれた青空を凝縮した様な薄い花瓶には定期的に入れ替えられた花が活けられている。この花には一日の中で感じた瑣末なストレスを、玄関で一度リセットする目的の為だと江美がいつか話していた。市内で薬剤師として働いている江美はそんな習慣のせいか仕事先での愚痴を家の中でこぼすことは無かった。不安を抱え重苦しい息遣いの客もいるだろう。何かの拍子に心無い言葉が自分に向けられることだってきっとあったは
2020年7月26日 22:14
テーブルに優しくカップを置くと俺に微笑みかけた江美は昨日の洗い物の残りを片付けに台所へ戻った。淹れてくれた暖かなコーヒーをゆっくりと飲みながら、昨夜買ってきたばかりの大判の写真集を眺める。表紙には断崖からの海原がパノラマの様に撮影された白黒写真があり、下の方に SHUN TODO と鋭角な書体で綴られていた。東堂瞬。もうずっとこの人の事を俺は追いかけている。今国内外を問わず様々な媒体で話題の