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スケッチ④

排他的なデザインの真っ白な空間で、私は目の前の先生の喉元を呆然と見つめていた。
隣には二枚のレントゲン写真が貼られており、全てを曝け出した肉体を青いライトが煌々と照らしている。
先生は呼吸する様な自然な口調で、悠くんの、彼の目が見えなくなったことを私に伝えた。
地下鉄の駅で突然意識を失った彼は、乗客のお婆さんの咄嗟の連絡で近隣の病院へ運び込まれた。
職場の電話でその事を知った私はタクシーに飛び乗ると彼が運ばれた病院へ向かった。なにも考えられなかった。
普段は運転手の人と道中くだらないお喋りをするものだが、次々に噴き上がってくる濁った感情に蓋をする事で私は精一杯だった。
病院に到着し、ベッドで眠る彼を目にした時には、生きている。と安堵したが、私は今再び絶望の中にいる。どす黒いものが頭の中に溢れる。
えぇ、それでね、こちらが北多川さんの脳のレントゲンでですね。と、私の存在を置き去りにする様に先生は淡々と説明を続けている。
空調が利き過ぎている所為か、それとも私がおかしくなったのか、先生のその話は私から暖かいものを徐々に奪っていく様に感じた。
全ての話を聴き終え、私は形だけの挨拶をし部屋を出る。朝から何も口にしていないからだろうか、靄がかかったような感覚が頭から抜けない。
私は再び彼の眠る病室へと戻る。寝台の置かれた窓際からはオレンジの夕日が差し込み、彼はベッドから体を半分起こしながらそれを見つめていた。
「目、覚ましたんだね。」
私は入口からゆっくりと彼に近づき、必要以上に優しい声色で話しかけた。
他の患者のベッドは全て間仕切りの青いカーテンが閉じられており、閉鎖的な空間はまるで私達しかいないようだった。
口にした声が小さ過ぎたのだろうか。彼は窓の方へ体を向けたままじっと黙っている。
寝台の横に置かれていた椅子を持ち出すと私は彼の側に置いて腰かけた。夕日に包まれた彼は失明した事を疑う程真っすぐな視線を向けていた。
柔らかいシーツの上に投げられた彼の片手に私は自分の片手を乗せる。温かい。私はかける言葉を探そうと充分にワックスがかけられた床を見る。
「なぁ。。」
「うん。」
数時間ぶりに聴く彼の声に私は安らぎを覚えながらも、憔悴しきった声色に不安を感じ彼の顔をすがるように見つめた。
「江美はさ、今、何処を見てるんだ。」
「今は、悠くんの顔だよ。」
駅で倒れた拍子にコンクリートに打ちつけた彼の額には大きなガーゼがしっかりとテープで固定されている。乾いた血が滲んでいるのが見えた。
彼は私の言葉を聴くと窓の方へ向けていた顔をこちらに向けた。江美。と力なく彼は唇を動かす。
見つめ合っているのに心が落ち着かないのは彼の視線が私ではなく、空を捉えている為だった。
こんなにも近い距離に居て、この手で触れているのにどうしようもなく彼を遠くに感じた私は、なだれ込むように彼に強く抱きついた。
「俺、これからどうなるんだろう。」
私の耳もとで彼の声が弱々しく響く。私はありったけの力を込めて彼を抱きしめた。
「大丈夫。大丈夫だから。」
自分自身からとめどなく溢れてくる感情に言い聞かせるように私は彼へ繰り返し同じ言葉をかける。
そうでもしないと一気に心が粉々になってしまいそうだった。私は必死にそれを振り切るように彼の体へ身を預けた。
どれくらいの間そうしていたのか覚えていない。見回りに来た看護師に声をかけられるまで私は彼の隣で呆然としたままの体に寄り添い続けた。

退院してからの彼は絵に描いた様な無気力だった。伸び放題の髭と髪の毛のまま部屋で呆然とする姿はゴミ箱に日常を投げる様だった。
変わってしまった日々に適応できるような努力をしようとせず、食事やトイレも目が見えていた頃をなぞるように彼はそのままであり続けようとしていた。
今までは特別だった二人で過ごす週末の時間も、彼がバイトを辞めて家に篭る様になって急に息苦しく感じるようになった。
カレンダーを見て今日が土曜日だということを確認する。たった数週間でこんなにも私たちは変わってしまった。コンクリートみたいな冷たい空が窓の外に広がっている。
お互いに向き合ってテーブルに腰掛けた私たちは特に会話をするという事もせず遅めの朝食をとっていた。私は、彼に対して自分に何ができるのかを延々と日々問い続けていた。
苦しみに寄り添う事はできても共有する事はできない。真面目だった彼が堕落していくような日々に焦りはあったけど、どうすればいいのかが分からなかった。
口に運ぼうと彼が悪びれず床にこぼしたサラダのクルトンを私は気付いて席を立つと屈んで拾い集めた。
「江美ぃ、お茶くれ」
テーブルの上から老人の様な彼の声が聴こえた。私は拾い上げたクルトンをエプロンのポケットに入れるとキッチンへ向かった。
彼は味わうというよりもただ物を咀嚼する事に集中するようにサラダを無表情で食べている。ゆるんだ口元からまた何かがこぼれ落ちたのが見えた。「うん、ちょっと待ってて。昨日ね、SNSで有名なお店でルイボスティーとジャスミンティー買ったんだけど、どっちにする。」
私は息がつまりそうな空気をどうにか変えたくて精いっぱいの高揚した声で話しかけた。
「あぁ、どっちでもいい。」
噛み終えたガムを紙に吐き出すように私の話は無関心という感情に包まれ部屋の隅に落ちた。
「ていうか江美、このサラダ味濃いな。いつもの手作りのドレッシングはどうしたんだよ。」
「あぁ、、えっとね、いつもの材料切らしてて、今日違うもの使ったから味濃くなっちゃったのかな、、ごめんね。」
私はいつも使っているフルーツビネガーの瓶を横目に見ながら当然の様に嘘を吐いた。
彼の発言をなるべく肯定し、私は二人の関係をこれ以上険悪なものにしないようにしている。罪悪感は感じなかった。
「ったく。頼むよマジで。俺今までと体違うんだから。」
原因不明という名の病は日常の害であろう全ての可能性を否定する。先生は退院してからも彼に食事について制限を課していた。
半分も手をつけていない朝食をテーブルに残し、壁伝いに拳をつけながら彼は一歩ずつ踏みしめるようにリビングを去っていった。
私は手元に用意していた二つのティーバッグを再び箱にしまうとテーブルのサラダを片付けるために動き出そうとした。携帯が鳴る。
修平くんだった。後ろめたいことなど何もないのに私は彼の部屋に背を向ける形でキッチンの隅で電話に出た。
「あ、もしもーし、江美ちゃん。おつおつ。」
「修平くん。お疲れ様、あの、どうしたの。」
「いやぁ、どうしたもこうしたもないよ。昨日ナンパした可愛い子に逃げられちゃってさぁ。寂しくなっちゃって。江美ちゃん慰めてよ」
修平くんは彼が失明してから時々電話をくれる。話し始めはいつも女に逃げられて寂しいというのが常だった。
「もう、そんな事言われても私は悠くんで手一杯だよ。」
冗談ぽく自嘲しながら私は言った。ポケットの中のふやけたクルトンを指先で押しつぶす。
あの日の後、すっかり魂を抜かれた様になった彼の代わりに、私は彼が勤めていたバイト先に電話をかけ事情を説明した。
店長だという男性は私に気を強く持つように声をかけ、事務室に置いたままだった荷物を修平くんに届けるように手配してくれた。
退院するまでの病院と家の間の往復や、部屋の模様替えなど新しい環境への準備であくせくしていた私にとって在り難い事だった。
修平くんは彼の荷物と一緒に大量の栄養ドリンクを抱えて持ってきてくれた。まだ台所の隅にその残りが置いてある。
正直わたしは定期的に鳴るこの電話に助けられている。冗談ばかりで態度にこそ出していないが修平くんは私達の生活を未だに気にかけてくれていた。
「あはは、そうだよな。うん。あー、あのさ。北多川の、あいつの調子どうよ。ずっと俺の電話に出てくれないからさ。」
変わってしまった今の自分を見られたくないのか彼は修平くんと会う事をずっと避けていた。
目が見えなくなる前までは定期的に飲みに出ていた事がまるで嘘の様で、修平くんはそんな彼の変化に少し寂しげだった。
「うん。相変わらずかな。今も部屋に篭ってる。」
「そっか。でもあいつ、ずっとそうやってるつもりなのかな。」
粉々にしたクルトンをポケットから取り出すと私はシンクに置かれた三角コーナーへ投げ入れた。
行動や言葉を上手に選べずにちゃんと彼と向き合いきれてない自分も一緒にそこに捨ててしまいたかった。
自分ひとりじゃどうしようもなくて、こうして時々修平くんと話さないと不安定な心を落ち着かせることが出来ない癖に、私は未だに玄関先の花を定期的に入れ替えている。
変わってしまった毎日を受け入れられていないのは私も一緒だ。すがるように花を入れ替えてみてもあの頃みたいな意味はもう何処にも無い。
私たちの時間はあの日から止まってしまっている。嘘みたいに変わらない毎日の中で、変えられない現実を前にして駄々をこねている。
「もしもし、江美ちゃん?」
しばらく黙ってしまった私を心配そうに電話越しの修平くんが呼びかけてきた。あ、ごめん。と気の抜けた声で返事をする。
「実はさ、今家の近くあたりに来てるんだ。北多川の荷物で渡し忘れたやつがあって店長から預かってさ、これから渡せる?」
歩きながら通話している為か修平くんの呼吸は少し息があがっているように感じられた。
「あぁ、そうなんだ。ありがとう。わたし、今日は仕事休みだから受け取れるよ。もう着くの?」
「そうだなあ。2、3分もあれば。」
私からの確認を取れたからか修平くんが歩みを速めたのが息遣いで分かった。
「わかった。じゃあ待ってるね。」
修平くんはまっすぐな人だ。急に荷物を届けに来たり、ありったけの栄養ドリンクを渡してきたり。
すごく不器用で露骨な優しさが、考えすぎる癖のある私には理解しやすくて嬉しかった。
比べる訳じゃないが、悠くんと、私には、今は見えない大きな壁みたいなものがあって、お互いに近くても遠い。
一つずつ壊れ物を扱うみたいに言葉を選んでみても、それらは相手に届く前にその壁に当たり簡単に砕けてしまう。
誤魔化しきれないストレスを抱え無理に笑ったり楽しい声を出してみても自分自身が窮屈で虚しくなるだけだ。
私は自分がひどく疲れているのを自覚していた。だからこそ、修平くんの純朴な優しさに癒されていた。
電話を切るとそこにあるのは私たちの生活する薄暗い空間だ。ポケットに携帯をしまうと肺に穴が開いた様に急に息苦しくなる。
後ろに気配を感じた私は振り返った。焦点の合わない目を見開きながらそこには彼が立っていた。
「今の誰?」
怒っている様な呆れている様な、彼は猜疑心を込めた低い声を投げた。
「あぁ、修平くん。悠くんの荷物でこの前渡し忘れがあったからこれから届けに来てくれるって。よかったね。」
まただ。私は彼の低い温度と反するように微笑みを交えながら高い声を出す。
「お前さ、最近神谷と電話しまくってるだろ。なんかあんの。」
私の声を鬱陶しそうに払うと彼は語気を強めて言った。お前、なんて呼ばれたことなかった。
「なにか、って。。なにもないよ。修平くんは私たちの事を心配して、、」
「私たちって。。お前だけだろ?」
言葉を遮る形で彼は言う。縛られて石でも投げつけられている様な気分だった。
「あいつは女にしか興味ねぇんだよ。今だってなんだかんだこじつけてお前に会いたいだけなんじゃないの。」
すり足でこちらに歩み寄りながら彼は言葉を吐き出し続けた。部屋の中がどんどん暗くなっていく。
「大体さ、俺が出ていった後に電話するとか怪しくね?隠し事かよ。あぁ神谷も最低だな人の女に手を出すとか。お前もお前で相手してんじゃねえよ。」
「、、じゃない。。」
私は動く事の出来ない体から言葉を搾り出すように声を出す。
「は?なんだよ。」
彼の体はもう私に触れられる程近くまで来ていた。体温を感じた彼が歩みを止める。
「、、じゃない、、、そんなんじゃないよ。修平くんは、そんな人じゃない。」
「は?」
「悠くんはどうして分からないの。退院してからもこんなに私たちの事気にしてくれてるの修平くんだけだよ。」
私は目の前に立つ彼の心臓に向けてありったけの感情を投げつける。両手で彼の腕を強く掴んでいた。
「うるせぇな。あんなやつ知るかよ。」
彼は私の腕を振りほどくと背を向けた。私は電源を切られたオモチャのようにその場に倒れこんだ。
「勝手にしろよ。」
舌打ちをすると彼は再びすり足で自分の部屋へと戻っていった。床に置かれた栄養ドリンクの箱を彼は意図せず蹴飛ばした。
私はまるで神経を抜かれたみたいに足に力が入らなかった。うつむいたままで真っ黒になった床を見つめる。
外から音が聴こえた。朝からの曇天はまるで頃合を見計らったかのようにしとしとと雨を降らせていた。
どうしてこうなってしまったんだろう。わたしの何がいけなかったんだろう。責める言葉が頭の中をぐるぐる周る。
ポケットの中の振動に気付く。ショートメッセージを受信していた。修平くんからだ。
「やっほー。今着いたよ☆雨降ってきた!」
私はゆっくりと立ち上がり玄関を開けエレベーターでエントランスへ向かう。
修平くんはアパートの入り口の煉瓦作りの壁にもたれかかり、湿ったモップみたいな髪の毛の水気を切っていた。
私の存在に気がつくと入り口のガラス越しに手を降る。今日も彼はビール瓶の蓋みたいなサングラスをしている。
自動ドアが開き私は修平くんを出迎える。彼は笑顔を見せたが急に困った顔になる。
「江美ちゃん。なにかあった?」
えっ。と、私は入り口のガラスに映った自分の顔を見る。涙が流れていた。
コンクリートに弾かれた雨の湿った冷たい空気がエントランス内に入ってくる。
雨脚は強くなり打ち付ける様な激しい音に変わる。
「大丈夫?」
修平くん。わたし、だめかも。
雨に濡れた彼の薄いシャツに私は抱きついていた。
濡れた手で彼が私の頭を撫でている感覚が伝わる。
「ごめん、しばらく、このままでいさせて。」
激しい雨音に掻き消されそうな小さな声で私は彼につぶやいた。
「わかった。」
彼は擦れた声でそう言うと再び私の頭をそっと撫でた。

自費出版の経費などを考えています。