スケッチ⑦

入り口から一番離れたバーカウンターの席に腰をかけ、グラスに注がれたジンジャーエールに口をつける。乾いた喉へ強烈な生姜の香りを纏った波が気泡と共にぶつかってきて俺は思わず瞼を閉じる。パチパチと弾ける泡が鼻先を湿らせた。本当なら美味さ故に込み上げてくる雄叫びをここで一声あげたいものだが、ダムを塞き止める様に俺はその思案を口に抑え込む。ここは美味い時に勢いで雄叫びをあげるような店じゃない。
黙ってグラスを握ったまま急所をやられたボクサーの様に項垂れていると鯨の様な低い声がカウンターの向こうから聴こえて来た。

「オツカレ、ユウ。キョウモ、チョウシヨカッタネ。」

「んー。あぁ、お疲れ。このジンジャーエールも最高だよ。ありがとな、テザ。」

俺は喉元の爽快感をもう一度味わおうと、下げていた顔を相手側に向けて返事をする。

「サッキノ アレ。カッコイイネ。エェト、、ソッコウ ?」

テザの声と一緒に規則的なリズムで繰り返される涼しげな音が聴こえてくる。

「あぁ、それはソッコウじゃなくてソッキョウな、即興。ちょっと盛り上がりに欠ける気がしたから遊んでみたのさ。よかったか?」

「Yeah マジデヨカッタ。マタ ヤルト エエデ。」

カウンターの向こうから聴こえる日本語は外国人特有の独特なイントネーションを伴ったものだが、聴く所によるとこいつはそれをわざとやっているらしい。店の従業員の一人、テザは日本に慣れない無垢なアメリカ人を演じる冗談好きの陽気なアメリカ人だ。初対面から臆面も無く俺の目の事を突っ込んできたり、渋い声と幼稚園児の様な言葉選びのギャップが可笑しかったり、時折驚いたり憤慨するような瞬間もあったが、いつも底抜けに明るいテザのお陰で不思議と不快感は少なく、俺とヤツの心の距離を詰めるまでの時間は自然と早かった。

仙台で一番の飲食街、国分町に佇むピアノバー VIVA OLA 。都内の外食経営企業が地方進出として五年程前に系列店としてオープンさせたらしい。企業としてはあらゆる面で既に潤沢ではあったが、流行に乗りたい経営陣がクラウドファンディングを採用した資金調達を得て開店した店内には、見慣れない絵画や写真が至るところに飾られていた。これは出資者の中にアートを生業とする人間がいた場合、出資のお返しとして当人の作品を公開する場所を提供するという考えのためだ。と、いっぱしに語ってみたが無論、これはテザや経営者の口から聴いた話で俺にはそれらを見ることは叶わない。写真は勿論構図などの参考になればと絵画は個人的に鑑賞することが好きだったのでライブラリーを観れない事は正直残念でもあるが、せめてそれらを見ることのできる客達の気分を少しでも盛り立てられるような演奏をしようと俺は考えるのみだ。
足を組み直し、再びジンジャーエールに口をつける。この場所に辿り着いてからの俺は、演奏を終えるとカウンター越しに腰掛けテザとくだらない話をするのが日課になっていた。
今夜は最後にやってみたアドリブの演奏がこいつの中でヒットしたらしく、普段からの渋いバリトンボイスが一層艶めいている様に聴こえた。

もう三年になるが、俺は盲目のピアニストとして定期的にこの店でライブ演奏を任されている。あんなに忌み嫌っていたピアノだったが、どういう訳か俺は自分から望む形で再び鍵盤を叩くことに没頭する日々を送っていた。五年前。あの大雨の日、江美が出て行った喪失感からか不安定な心持のまま電子ピアノを演奏していた俺は、頭の中のイメージを音で表現できることに微かな可能性みたいなものを感じていた。真っ暗な闇の中で指先の感覚と耳から聞こえる音色を手繰りながら繰り返し反復演奏している内に、俺は鳴らしたい音の場所へ自分の指が的確に動いている事に気付き驚いていた。頭の中でイメージとして浮かんだ音色のする場所、鍵盤の位置をこの目で捉える事はできないが、まるで小さな引力みたいなものが自分の指と鍵盤の間に作用している様に、俺の両手は自分の響かせたい鍵盤へ吸い寄せられるように着地し音を奏でていた。

停止ボタンの壊れたCDプレーヤー。そして、俺に向けられた言葉。自暴自棄だったあの頃、ピアノという新しい光へのキッカケをくれたと同時に、普遍的な物事を気付かせてくれた友人の神谷は、俺が弾くピアノの話を江美から伝え聞いてオープンに際し演者を募集していたこの場所を紹介してくれた。女垂らしで、酔っ払っては電話をかけてくる神谷の存在を蔑むように感じていた過去もあったが、あいつのお陰で俺は救われ、自分の居場所を見つけることが出来た今がある。
初めてのライブに駆けつけ、演奏を聴いてくれた時のあいつの高揚した声は、俺にとってずっと忘れられない思い出だ。あいつがいなければ今の俺はいないと断言できる。
そして、こういった環境に身を置く事を理解してくれた江美にはとてつもない感謝の気持ちを抱いている。誰よりも近い距離で俺のピアノを聴き、そして大袈裟なくらい褒めてくれた。
キャンバスに描かれたプロカメラマンを目指した過去の俺を、江美は新しい筆で上から色を塗るようにピアニストとして表現する新しい今の俺を描いて見せてくれた。晴れた日の午後なんかは窓から流れ込む風を感じながらその風景を頭の中で思い描き、その感覚を演奏に乗せた。それが美しい旋律を奏でていても自分でも可笑しいくらいデタラメな演奏でも、ピアノの音色が響くと江美はすぐに家事を中断させ、俺の隣で演奏を聴いてくれていた。あいつが駆け寄る時のルームシューズが床を擦る音。俺はそれを聴いて一層指先を弾ませていた。単純に江美が聴いてくれるのが嬉しかった。一体俺には江美がどんな顔をしながら聴いていたのかは確認する手段は無いが、きっと笑顔で聴いていてくれているのだろうと俺は記憶の中で輝いている江美の笑顔を思い、演奏を続けた。
俺は今新しい人生を活き活きと過ごせている。
目の前のジンジャーエールの泡の弾ける音を聴きながら、今頃自室で眠っているだろう江美の姿を俺はぼんやりと思い描いた。

「テザ、わるいんだけどいつものあれ、頼んでもいいか?」

カクテルに用いるブロックアイスを削っているのだろう。先程からアイスピックが奏でている小気味よい音のする方へ向けて俺は話しかけた。
「オッケー。デモ、ココハ BARダヨ。メシヤ チャウカラ。ユウはSpecial。トクベツ、OK?」

「わかってるって、テザ。スペシャルな。」

テザが作ってくれる料理を俺は自分が出番の日には密かな楽しみにしている。密か、といっても当のテザ自身も注文が来ることをしっかり理解しているようで、ナッツやチョコレート、生ハムの切り落としくらいしか提供できない店内では到底作れない料理を俺に用意する為に、自宅でわざわざ準備してタッパーに詰めてきてくれているのを俺は知っていた。
男同士のこんな話が出るとテザと俺の友達を越えた関係を一瞬疑ってしまいそうだが、こいつには日本に来てからずっと同棲している相手がいるらしい。
今日はたまたま鶏肉が余ったからとか、冷蔵庫にご飯があるなんて今日はラッキーだとか毎回小さい冗談を必ず挟んでは俺の無理を聴いてくれている。手間を惜しまないテザの様な人間の為にオモテナシという言葉がある気がしてくる。

「おや。北多川くん、またテザに無理強いですか?」

いつの間にか背後に歩み寄ってきた今夜のバンドメンバーが肩を叩いた。演奏も声質も流麗なのはベースの小泉さんだ。

「あーあ、、お前とテザみたいに俺もギャンブルとナカヨシになりてぇもんだわ」

脇から恨めしそうな声をかけてくるのは最近賭け事がうまくいってないギターの西野だ。楊枝でも口に咥えているのか話しにくそうにしている。

「いいからいいから。西野、俺らぁ新しく出来たばっかのキャバクラ行こう。あすこの女の子は全員どえれェ美人らしいぞ。小泉もどうだ?」

ドラムのムロ爺はこの中じゃ一番年長者だが、発言から年齢を感じさせないほど一番若々しい。今夜は東京から新たに系列店を出したキャバクラに行くとずっと息巻いていた。ムロ爺曰く若い子と顔を突き合わせて会話することがいつも元気でいる秘訣だとか話していたのを俺は思い出す。ムロ爺に誘われた西野は歓喜し、小泉さんは困ったように笑った。
おつかれ、と三者三様の今晩の労いの挨拶を聴いた俺は声のする方へ顔を向けると、ドアベルの音が鳴るのと同時に片手をあげて挨拶を返した。

後を追うように背後から男女の声がゆっくりと入り口のあるこちらに近づいてくるのが気配で分かる。帰り道に花を添えるような細く優しい従業員の挨拶が微かに聞こえた。この店はピアノバーという名前の通り店内にグランドピアノが設置されていて、定期的に簡素なライブ演奏がある。さっきの三人も一度に揃う事は無くても時々顔を合わせる面々だ。
ライブについてはネットでもその事を大きく告知していて客足が集中するのは主にライブが催される日の演奏が始まる前の時間帯だ。その時間が過ぎると演奏を一区切りとするように他の店へ移動するキッカケに使う客が殆どで、残りはライブは二の次の常連の客や余韻に浸ったりする人が疎らに席を埋めているのが常だった。俺の背後を通り過ぎかけた先程の男性がカウンターの俺に気付いたのか肩に手を乗せると呂律が怪しくなった口調で今晩の演奏を褒めてくれた。隣の女性が男の突然の行動を気にかけ、急にごめんなさいね。と後付するように話しかける。改めて男性はじゃあまた。と告げると店を後にした。彼らが最後の客だったのだろう、静まり返った店内では空調の音が先程よりも際立って聴こえてきた。

「ハイ、オマタセ。」
テザの声とほぼ同時に目の前に差し出された物の湯気に俺の食欲は一気に沸き立つ。
この料理は少し大きめのボウルに盛られたご飯の上に葉野菜と鶏肉が敷かれたシンプルなものだ。丼の様ではあるが親子丼でもカツ丼でもない。だがしかし、丼物に親しい日本人の俺からすると、この形容しがたい目の前の食べ物も家族の様にその一種に思えたのだった。ボウルを両手で包むと心地よい温かさが伝わってきた。なんらかの香草を加えて炊いた米は間違いなく国産のそれなのだが湯気に乗って鼻に届く香りは国産米を異国情緒溢れるものへと変えていた。俺は口に運ぶ前にそれらを一度眺めてから頬張る。うまい。上に盛られた鶏肉はグリルされてはいるがしっとりと柔らかくケチャップやマスタードその他スパイスの味が利いていて俺の食欲を底抜けなものにしている。冷蔵庫にレタスが残っていたのは今回は本当らしい、米と鶏肉の合間に感じられる野菜の触感は新鮮で瑞々しく信じられないくらい箸が止まらなかった。実際に料理に添えられたものは箸ではなくスプーンなのだがそんなことはもはや二の次だ。合間に口にするジンジャーエールの喉越しは運命の相手が再会するかのような一体感があり、俺は口の中の鳥の旨みと米の甘さをそれらを使って一気に胃に流し込む。完璧なアンサンブルが口の中で鳴り響いていた。テザ。お前もなかなかやるぜ。そんなことを考え俺は口の中の贅沢を味わうと目の前の男に微笑みかけた。

「テザ、今日も最高に美味しいよ。ありがとう。」

「マタ イイエンソウ キカセロヤ」

言葉だけで見れば少々荒っぽいがテザは少し笑みを交えたような丸い声で話すと再び製氷作業に向き直った。
スプーンを置いたタイミングでポケットの携帯が鳴る。

「はい、もしもし。」

「うーすお疲れ 北多川ァ、今夜はどうだった?」

酒で上ずった声の主は神谷だった。
どうやらこの近くで飲んでいたらしく、仕事が終わったのなら少し話さないかという内容の電話だった。
神谷や江美の助けがあってからのこの数年間、俺は我武者羅に鍵盤に向かい続けていた。考えてみればこうして神谷から誘いが来たのも久しい気がする。俺はテザに挨拶をするとVIVA OLAを後にした。



「なんだかもうだいぶ久しぶりな気がするな。」

俺は目の前に座っている神谷がどんな表情でどんな格好をしているのか想像しながら話しかけた。見知っていた顔なのに正直年数が経ってくると顔の形や目の大きさなど細かいところがあやふやになってくる。こいつの特徴と言えば長髪に強くかけられたパーマ、無数のピアス。そして幾つか種類があったビール瓶の蓋みたいなサングラスだ。俺はジョンレノンの顔をベースにそれらを組み合わせ神谷の顔を形成する。頭のなかで出来上がった顔は、ちょっと日本人離れしてハンサム過ぎるが、神谷には世話になっている手前少しくらい外人風にしてやってもいいだろう。
俺は指先に触れたままのグラスを再び持ち上げる。重みから察するに3分の1程にまで減ったビールをちびりとやった。そろそろ代えでも注文するか。

「俺ら別に遠くに離れたわけじゃねえけどさ。なぁーんか、北多川の一生懸命な姿みてるとさぁ、やりづれぇっつーか。お前ピアノピアノピアノーってさ。ボッサボサの頭しやがってぇ。」
そう言うと伸びっぱなしだった俺の髪の毛をわしっと掴む感覚が襲ってくる。小さい頃に風呂場で両親に髪の毛を洗われているような、強引だがどこか愛情のあるような触り方だった。
「いっそ髪の毛切って丸坊主にでもしたらどうだよ。二人で呑んでるとキャラ被るしさぁ。なんか、いただろほら、目の見えないピアノ弾くおじさんさぁ。あいつみたくすりゃいいじゃん。」
神谷はくしゃくしゃにした俺の頭をハエを叩くような横暴な手で一度軽く叩くとそう言った。瞬間。神谷の煙草の香りがこちらに流れてくる。こいつの煙草はもうすぐ消えるだろう。俺は神谷が煙草に火をつけてからの時間経過で予想を巡らせる。目が見えていた頃には考えもしなかったことだが、こうしたくだらない事でも相手に悟られまいと密かにやってみると意外とタイミングやコツが掴めてきたりもする。こいつは酒を飲み始めると煙草のペースが早まる。既に三本目に突入しそうな具合から俺は飲み始めから思案していた自分の感覚を試す。案の定煙草を灰皿に擦り付ける音が聴こえ、新たな煙草に火を点ける音が続けて聴こえてきた。くだらないことだが目が見えなくなってからは、勝手にこういった自分なりの楽しみを見つけることができた。生きていて役に立つことではないが、実際に見えない物の経過を予想したり想像する作業は中々に神経を使うし、相手に知られていないぶん何処か悪戯めいていて面白かった。俺はそんな事を考えながらあいつから言われた言葉を反復する。目の見えないピアノ奏者。。おじさん。。

「レイチャールズの事か?あの人の演奏は何度か音源で聴いたけど、とても近づけるようなもんじゃないよ。俺もこうして有難くやらせてもらってるけど彼のように小さい頃から目が見えなかった訳じゃないからな。なにより生まれ持ったセンスとかリズム感とかも伴ってくるだろ。俺にはそんな大層なもんは備わってないよ。」

「んーああ、まあよくわかんないけどさ、とりあえずその髪、なんとかしろ!ブロッコリーみたいで見てて鬱陶しいんだわ」

神谷は真面目に答えてほしかったわけではないとでも言うように煙たげに濁すと、飲み物のお代わりをオーダーしようと声を上げた。声質から20代くらいの女性ウェイターがすぐに駆けつけてくる。嫌な予感がした俺はボリュームを急にしぼった神谷の声から目の前の二人のやり取りを耳で観察する。やっぱりだ。神谷のやつ、また従業員を口説いているらしい、俺は薄めのウーロンハイを頼みたかったのに目の前のウェイターにアプローチついでに、ファジーネーブル、同じヤツ二つで。と言ってさっさと追加注文を済ませてしまった。目の前の俺に少しの確認もとらないなんてどういうことだ。固まった表情筋をそのままに俺は、煙草が預けられた灰皿にこっそり残っていたビールを注いだ。



数時間後、俺は再びひなげし荘の神谷の部屋にいた。
信じられない話だが、神谷はまたしても店で酔いつぶれ俺と共に店長らしき人物に強制的に退店を命ぜられていた。神谷に口説かれていたであろう女性従業員が席に突っ伏している神谷の体を起こそうと積極的に手伝ってくれたのが思い出される。彼女は俺が全盲だということに距離をつめて初めて気付いたらしく、自身の携帯を使って店前までタクシーを呼んでくれた。俺はといえば白杖を片手に周辺の客がいるであろう席に丁寧に謝りながら神谷を肩で支えながら店を出るという自分でもとんでもない偉業を成し遂げていた。きっと江美に話したら手放しで褒めてくれるだろう。全盲の人間が泥酔した健常者を運ぶなんて本当に冗談みたいな話だ。現代にタクシーという救済処置があった事を俺は心から感謝した。
ひなげし荘の前に横付けしたタクシーの運転手は、関係性が滑稽な俺達を気の毒に思ってか呻き声を上げて眠る神谷を部屋まで移動させるのを手伝ってくれた。俺は白杖の先に付けられた紐を肩に廻しかけ、運転手と共に神谷を担ぐと1、2、1、2、という彼の合図を頼りに一歩づつ階段を上がりながら部屋まで辿り着くことができた。部屋の前まで到着すると、運転手は自分の車を心配してか俺からの謝辞を中途に流し聴くと、そそくさと車に戻っていった。

ひなげし荘の周りは住宅地ではあったが、時間的にどの家も灯りはとうに消えてしんとした闇が俺達を包んでいた。街灯に群がった羽虫の弾ける音が時折際立って聴こえてくる。前回(といってももう五年近く前だが)俺はこいつの部屋に来た時の事を思いだし、手探りで肌にぴったり張り付いた神谷のスキニーデニムの尻ポケットから部屋の鍵(らしきもの)を取り出し錠を開けると、迷宮に踏み込むような慎重な足取りで俺は部屋に踏み入った。当たり前だが目の前は真っ暗闇だ。実際にはありえない話だがここから踏み出す一歩を誤れば奈落の底に真っ逆さまというような恐怖感がある。俺にとって健常者のサポート無しでの久しい空間への一歩は結構な負担だった。家具や間取りなどを朧気に思い浮かべゆっくりと前に踏み出そうと歩きだした瞬間、床に転がっていた空き缶を踏みつけて転んでしまった。反射的にウッという声の様なものをこぼして俺は大きな音を立て部屋の床に腰を叩きつけてしまう。中身が少し残っていたであろう空き缶の中身が足先を濡らす感覚が後からやってくる。先程から怪獣のイビキみたいな声を絶えず呟いていた神谷が俺がたてた大きな音で目を覚ました。無意識に酔って眠ってしまうと何かの拍子にはっと我に返る瞬間があるがそれが起こったらしく、姿こそ確認できないが転んだ俺の背後で飛び起きた神谷があたふたと動いているのがなんとなく分かった。
「あっ、、北多川、、わりぃ、おれ、確か、、お前と、、呑んでて、、寝ちまったのか?」
床に叩きつけられた尻を労る俺に神谷が申し訳なさそうに声をかける。
「ってぇ、、、おまえ今頃気付いたのかよ。。」
俺はここまでの道のりの苦労を全て集約するかの様に重い声色で神谷に返事をする。
「わりぃ。。今タクシー呼ぶからそれで帰ってくれ。ほんと、申し訳ない。」
神谷はここまでの失態を迅速に詫びて姿勢を正すような言葉使いで話しながら腰を曲げて床に座る俺に手をかけた。頼りない細い腕が震えながら俺の体を抱きかかえる。やっと誰かに支えられた安堵感からか俺は神谷の細い体に身を預ける。

「お前は本当にいつも酔いつぶれるよな」
神谷の頼りない肩にもたれながら俺は言葉をこぼす。
もつれた指先が転がった空き缶を弾いた。
「すまん。。お前と飲めるのも久々で、、ちょっと浮かれてた。」

酒の残った神谷の声はなんだか少し憂いを帯びていた。

「神谷、、もうそろそろ自分のことも大事にしてやれよ。いい加減年だろ。」
いつかの神谷が俺に投げかけた言葉を反照するように肩を担ぐ横の神谷へ言葉を投げる。

「北多川。」

「ん?」

「お前さぁ、頑張れよ。その命をさ、投げ出してもいいくらいの覚悟で、ピアノに全部懸けてみろ。思いっきり。」

神谷は部屋のしんとした空気に自分の声を溶かすようなトーンでそう呟いた。
「あ、あぁ。。ありがとな。」
俺は急に真面目な声色になった神谷に少し困惑しつつも返事をする。
まだ酒が残っているんだろう。明日には何食わぬ顔で冗談混じりに謝罪のメッセージを送るこいつの絵が浮かぶ。
立ち上がった俺を壁際に寄せると、神谷は携帯の音声認識機能を使って呂律も危ぶまれる声でタクシーの手配をしようと試みだした。と、突然ドアを叩く音がした。携帯電話の呼び出し音を鳴らしたままに神谷がドアを開けると外に立っていたのは先ほどのタクシーの運転手らしかった。思いがけない久々の重労働をしたが故に、すぐに業務に戻るのも腰が重かった彼は夜風の中で煙草をふかしていたらしい。先ほど客人を送り届けた部屋の辺りから響いた大きな音を聴いて不安になりわざわざ尋ねてきた旨を玄関先の神谷に滔々と述べていた。俺はその場で事情を説明し、帰りも有難く乗車させてもらうと、ひなげし荘を後にした。
酒を飲んでから体を動かしたこともあってか酔いが回った俺は、運転手に夜風に当たりたい旨を伝えると、お客さんも大変だねえと笑いながら窓を開けてくれた。神谷は良くも悪くも五年前となにも変わっていない。恋人を作ろうとしないし仮に運良く相手ができても一月も経たずに別れてしまう。最悪なのは付き合っている間にも複数の女性を口説いたりしていることだ。神谷の見た目ならこれから先も沢山の女性との出逢いの機会は巡ってくるだろうが、俺としては早く身を落ち着けてほしいと常々思っていた。そうやってあいつを律したりすることが今の俺にできる神谷への恩返しの様なつもりもあった。
冷えた夜風に当たりながらそんなことを考えていた俺は、もし次に神谷に相手ができた時は店に招待して演奏を聴かせてみようと思い立つ。今の俺があるのは紛れもなく神谷のおかげだ。それがたぶん一番の恩返しにもなる。二人の出会い話なんかを聴いてから、情景を思い浮かべられるような音色を即興で演奏してみるのも面白いだろう。
あいつに新しい相手ができるまでの期間、もっともっと腕も感性も磨かなければ。俺は静かにそう胸に言い聞かせた。


ありふれた日々の、すこし疲労の残る懐かしい夜だった。
だから、信じられなかった。



それから三日後。

俺は神谷が自殺した事を知った。

自費出版の経費などを考えています。