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スケッチ⑪

薬剤師の試験勉強をしていた頃から使っている古びたラップトップの画面に、薄暗い夜光に照らされた修平君の顔が映し出されている。
久々に観た彼の顔は痩せていて、顔全体に野暮ったい空気が巻きついているみたいだった。時間が経った事も影響しているのだろうけど、自分の記憶の中の修平くんの顔がどれだけ美化されていたのか驚かされた程だ。
USBに入っていた動画データの記録されていた日付は、修平くんが亡くなる数日前になっていた。
動画を見終えた悠くんに促されるまま私はデータの詳細を数回クリックし、この動画が録画された時刻に辿りついた。
私は求められた日付と時刻を悠くんに伝え、おもむろに動画を閉じた。
広々とした星空の写真が壁紙に設定されたラップトップの液晶画面に、未知の天体みたいな動画ファイルのアイコンがぽつんと表示されている。
アイコンには暗号の様な数字が羅列されたタイトルと、指の腹ほどに縮小された修平君が小窓の中に納まっている。
学生旅行の記念動画の編集をしていた時は、よくこの小窓に映された映像の一部を頼りにどんな動画内容かを判断して編集をしていた事を思い出す。
要領の悪い私は友人に教えてもらうまで、膨大な動画データをひとつひとつ再生し確認してから編集作業をしていた。
動画を撮影するのは一人だけと決めていたけど、映像に残したい思い出の基準はやはり皆異なっていて結果的に余計な物も含め撮影者不明の動画は多くなっていた。
鑑定士みたいに動画をチェックするというただでさえ遅い編集作業に加え、確認の度に旅行動画に見入ってしまう私は、余計に時間をかけて怒られたものだ。(それでも頑張って編集したんだから褒めてほしい)
ふつふつと当時の記憶をなんともなしに思い浮かべている私をよそに、悠くんは腰掛けていた椅子から立ち上がると窓際の電子ピアノの前まで迷い無く歩いていった。
時々、私は悠くんの目が見えているのではないかと錯覚を起こす事がある。それは今みたいに彼が躊躇なく歩く姿を見たり、ふとした拍子に目線が合ったりした時だ。薬剤師という職に就くまで人体にまつわる様々な事象を勉強したけれど、悠くんの姿を観ていると私はまだ見ぬ人間の可能性や底知れぬパワーを肌で感じているし、それはきっと机上の科学論では解明できないことのように思える。
ラップトップを机に残し、私も悠くんの後を追う。
慣れた手つきで電源を入れ、指先を鍵盤に乗せる。簡単なコードを鳴らしながら音色、ボリューム、ゆらぎなどを調整する。
この時、悠くんは癖の様にいつも下唇を噛む。眉間に少しだけ皺を寄せ、繊細な音の粒を取り逃さないように神経を研ぎ澄ませている姿はその仕事で生計を立てている職人みたいだ。
自分の中で納得のいくバランスがとれたのか、悠くんはおもむろに曲を弾き出した。
目を閉じると柔らかな旋律が部屋の中の私たちを包み込む。
何も無い漆黒の暗闇の中で潤いに満ちた緑を宿した新芽が顔を出す。
それは悠くんの音の雨水を受けて、まるで時間を早回しにしたみたいに、ぐんぐん成長していく。あっという間に大きな大樹へと姿を変えると、豊かな枝葉の隙間から栗色の小鳥たちが顔を出す。
ひとつの命の中にまた別の命が同居している。
体の大きな親鳥が何処からともなく飛んできて、囀る小鳥のもとへ近寄り餌をやる。
何か冷ややかな感触を足先に感じ気が付くと、私の足元には小さな水源が現れていた。噴出しているというよりは地面から染み出ている様な遅さだったが、澄んだ水は大樹の周りを取り囲むように流れ、そこに一つの世界が構築された。
木が、鳥が、水が、はっきりと意識の中に広がるが、それらは全て幻想の様に何処かぼんやりとした柔らかな光を纏っていた。
と、突然、鮮やかだった世界は再び完全なる闇に支配される。
悠くんが演奏を辞めると部屋の電気を消したみたいに穏やかなイメージ達は一瞬で消えてしまう。
私はやさしく閉じていた目を開けた。

「違う。こうじゃない。」
鍵盤に指先を乗せたままそう呟く悠くんの姿があった。
小さく息を吸い込むと彼はすぐにまた簡単なコードを弾きはじめる。
自分の体の中に湧き上がったエネルギーの集合体。
それを電子ピアノの音色に乗せて、悠くんはこの世界に生み出そうとしている。
これまで幾度も作曲作業を見てきた私にとって、彼が今何をしようとしているのかなんとなく分かるようになっていた。
悠くんにとってコードを断片的に弾く行為は瞑想に近いものがある。
精神の世界に集中し、頭の中に描いた豊かな情景を如何にして音に投影するかに没頭する。
彼は数多の音が広がる闇の中を10本の指先と二つの耳の力だけを使って歩き、抱いた感覚に一番近い音色を必死に掴もうともがいている。
私にとってこの作業は、じっと見守る事しかできないのが辛い。
今日のように悠くんが苦悶に似た表情を浮かべている時は特にだ。
思い通りに作業が進む日は悠くんは微かな微笑を浮かべながら音を紡いでいく。それは子供が広い原っぱを駆け抜けていくみたいに爽やかで、楽しそうで、横にいる私も笑顔になれる。
だけど、とてつもなく繊細な表現が必要になる世界にぶつかると、悠くんはピアノを弾く指先から生きる力を吸い取られるみたいにどんどん顔から覇気が無くなっていく。
そうなると私は軽い一言を添え、悠くんを残して部屋を出るようにしている。
私が出来る見守る以上の事は彼を自分の世界に集中させてあげることくらいだからだ。私という存在が空気の中に混じる事。その事が作業の中で些細だけれど大きな悪影響になっているかもしれない。
私は悠くんを応援する気持ち以上に彼の演奏の負担にはなりたくなかった。
今夜はたぶん納得がいくまで彼は鍵盤に向き合い続けるだろう。
「先に、寝るね。」
私は鳴り響くコードの隙間に言葉を挟み、返事をしない悠くんを残して寝室へと向った。

その夜、私は久しぶりに夢を見た。
私と、悠くんと、修平くん。いつもの三人。
そして、彼ら二人が勤務していたバイト先の同僚の人達。
雲ひとつない青空の下、私達は何処かの山の川沿いで和気あいあいとバーベキューをしている。季節は、、たぶん春だ。
悠くんは目が見えていて、網の上に置かれた肉や野菜を料理人の様に時折返しながら、目の前の山々の緑を眩しそうに眺めていた。
修平くんは携帯の電波が繋がらないことに文句を言いながら長い頭髪をいじくりまわしていて、同僚の人達は皆片手に缶ビールや瓶のカクテルを持ち何かしらを話して互いに笑い合っている。遠くの方から鳥や虫の鳴き声、そして絶えず水の流れる音がこちらに聴こえていた。
私は、何故か分からないけど、その様子をすこしだけ離れた場所から眺めている。本当はもっと近くで皆といたいのだけれど、透明な膜の様な物が体の前にあるみたいで私のそうした気持ちを押さえつけていた。
しばらくみんなの様子を眺めていると、茂みの奥から老いた男女が笑顔でそちらに歩いてくるのが見えた。男性の方は60代くらいだろうか。真っ白な頭髪が日の光を受けてきらきらと光っていた。
傍らの女性はたぶん妻なのだろう。足元の木々から彼女を守るように、男性はしきりに下を見つめながら彼女の手をとってゆっくりと歩いていた。
女性の方はなんだか見覚えのある暖かな笑みを携えた人だった。
見つめている私も自然と顔がほころぶ。
と、ビールを飲んでいた男性の一人が二人に気付いたのか、大きな声で老夫婦に呼びかけた。
旅に出ていた古い友人の帰りを喜ぶみたいに大仰に手を振って笑っている。
男性の叫びに他の人たちも老夫婦に気付き顔を向ける。
一人が彼らに向っておもむろに走り出し、後を追うように皆が老夫婦の元へと駆けだした。
労うように皆は夫婦の肩に手をやったりしながら悠くんと修平くんの立っている場所まで連れ立って歩く。年齢こそ離れているが皆の間には一体感が満ちていて血の繋がった大きな家族みたいだった。
家族。家族。。
言葉を思い浮かべて、ぼぅっと目の前の光景を眺めていた私は、急にはっとして気付く。老夫婦が修平君の両親だということに。
どうしてかは分からないけれど、強い確信があって私はそう思った。
男性の方は見覚えはなかったが、女性の方は一度だけ会った修平くんのお母さんに似ているように見えた。
眼鏡を掛けかえる様に改めて見てみると確かにそんな風に見えてくるし、修平くんはそんな老夫婦に向けかってへんてこな顔をしていた。
喜んでいるようにも見えるし、少し不機嫌にも見える。
微笑みかけている老夫婦に向けて、修平くんは居心地悪そうに片手で「よぅ」と挨拶をした。
悠くんはそんな修平君の肩を強引に抱き寄せながら茶化す様に大きく笑っている。老夫婦も二人を見て楽しそうに笑っている。
それじゃあ、改めて、乾杯しますか。
何処からか声が聴こえて、皆は老夫婦を招きいれてバーベキューの続きを楽しんでいた。

**

目が覚めると、私は泣いていた。
泣いていた?何故だろう。
とても素敵な、幸せな夢だった。
皆が生き生きとしていて、修平君もいて。
私はベッドから体を起こし、まだ少し濡れた瞼を手の甲で拭った。
閉めていたはずの扉の隙間から光が差し込んでいる。
時刻を確認する前に私はなんとなく朝を迎えている事を感じる。

悠くんは、悠くんはどうしたんだろう。
ベッドには彼の姿はない。一度寝て起きたのだろうか。
それとも。

ベッド脇のルームシューズを忙しなく履いて部屋を出る。
廊下を抜けてリビングに入ると、悠くんは試合後のサッカー選手のようにぐったりとソファーに体を預けてこんこんと眠っていた。
ただ眠っているだけなのに、私には彼の体に溜まった疲労感がこちらにまで伝わってくるような感覚があった。ほとんど倒れるように眠ったのだろう。
窓際の電子ピアノへ目をやると、乱雑に置かれたヘッドフォンがまるで岸壁にしがみつくように妙な形でぶら下がっていた。確認してみなければ分からないけれど、もしかしたら電源は付けっぱなしかもしれない。
肌寒そうな悠くんの格好が心配になる反面、今、眠っているという事は、ピアノ演奏において自分なりに一つ区切りをつけることができたのだということの証明でもあり、私は安堵していた。
お疲れ様。と、口から言葉がこぼれる。
私は急いで寝室から柔らかなタオルを持ってきて彼の体にかけてあげた。
額に張り付いた無造作な前髪、伸びかけた顎髭、汗が滲んだシャツ。正直、色々な事が気にならないことはなかったけれど、何かを言うのは起きてからにしようと私は気持ちを落ち着けた。
ふと、テーブルの上に置かれたボイスレコーダーを見つける。
こんなものいつの間に買ったんだろう。私には全く見覚えの無いモノだった。銀色に鈍く光るそれを手にとってみる。
様々なボタンが一箇所に密集していて、私は操作が苦手なテレビのリモコンを思い出す。間違っていたら、なんて事も一瞬考えながら再生ボタンらしい箇所をそっと押してみた。
そこから聴こえてきたのは悠くんのピアノ。
そして、私が夢で見ていた光景そのものだった。



自費出版の経費などを考えています。