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スケッチ

テーブルに優しくカップを置くと俺に微笑みかけた江美は昨日の洗い物の残りを片付けに台所へ戻った。
淹れてくれた暖かなコーヒーをゆっくりと飲みながら、昨夜買ってきたばかりの大判の写真集を眺める。
表紙には断崖からの海原がパノラマの様に撮影された白黒写真があり、下の方に SHUN TODO と鋭角な書体で綴られていた。
東堂瞬。もうずっとこの人の事を俺は追いかけている。今国内外を問わず様々な媒体で話題の都内在住のカメラマンだ。
改めて重厚な表紙に手を翳し、石膏で出来ているかのように俺はゆっくりとページを捲る。彼の映した世界を目に焼き付ける。
次々に現れる世界は表紙の海原と呼応するかの様に色彩という概念が欠落していた。あえて削ぎ落としたという方がしっくりくるかもしれない。
「ねぇ、ゆうくん、今日の夕飯何か食べたいものある?」
擦りガラスの扉の向こうで、蜃気楼みたいにボヤけた江美の背中のシルエットが話しかけてくる。
江美は高校時代から付き合っている俺の彼女だ。仙台で同棲を始めて二年、江美とは仕事の関係上すれ違う日々だが、土日だけは二人だけの時間がある。
旅行日和の週末なのにも関わらず、江美は何処へも行こうとせずに俺と過ごす部屋での一日を大切にしてくれていた。
俺はそんな江美との週末が嫌いじゃないし、なによりも一週間溜めてきたかのように笑う彼女の顔が好きだった。
改めて考えることをしながら俺は隔てた扉越しの小さな背中を見つめている。
「ゆうくん?」
少しでも会話の返事が途切れると心配そうに顔を伺ってくるのは江美の癖だ。ガラス越しにだがこちらを振り向いたのが分かった。
「んー、久々にあれ食べたいな。ベトナムのラーメン」
「フォーのこと?」
スライド式の扉を少し開けた江美が微笑みながらこちらを覗いている
「ごめん。ラーメンじゃなくて、なんか焼きそばみたいなやつだったかな。ニーハオみたいな、、」
「あぁ、ミンサオのこと!」
ミンサオとはベトナムで出される家庭料理で日本でいう焼きそばの様なものだ。
「んーそうそれ、それがいい。パクチーまだ冷蔵庫にあったろ。香りが落ちてなきゃそれも乗せよう」
写真集のページを丁寧にめくりながら、俺は江美の顔をちらと見て答えた。
友人から譲ってもらった黒塗りのテレビ台の横は自分だけのパーソナルスペースになっている。
お世辞にも広くはない二人住まいだ。パーソナルスペースなんていったって実際はそんな大層なもんじゃない。
大判の雑誌一冊分程度の空間。そこに置かれたドライボックスの中には俺が撮影に使用するカメラが保管してある。
梅雨の時期は湿気が心配なので乾燥剤を少し多めに入れ、温度計も設置して出来る限り気を配っている。
扱いを知らなかった昔、レンズにカビが生えて、お釈迦になったカメラを泣く泣く処分したのが教訓だった。
出来上がった写真ばかりに気をとられていた俺は、世界をこの手に落とし込んでくれる唯一の相棒にそれからはもっと気を使うようになった。
自由の女神がプリントされた自分用のマグカップを持った江美が、コーヒーの香りを漂わせ俺の隣にそっと腰を下ろした。
「ねえ、それ東堂さんの新作?」
カップにゆっくり口をつけながら江美が俺の顔を見つめた。猫舌な彼女はアチッと声を漏らす。
「都内で誰も住んでないような空家とか、箱庭みたいに囲われた野草とか。この人の写真はどこか無機質なんだけど、なんか引き込まれるんだよ」
東堂瞬の撮影する被写体は動物や人では無く、物言わぬビルや街灯などをモノクロで撮影してあるものが多かった。
排他的な作風が俺は好きだったし、色の無い世界を残し続ける姿勢は挑戦的にも感じていた。
といっても正直、俺はそんなご立派に意見できる立場でもないし、たぶん、いや、本当は何もわかってないのかもしれない。
だけど、東堂瞬の写真を眺めている間は、日々のストレスを忘れられることは不鮮明な理由を探すより確かで紛れも無い事実だった。
「東堂さんの写真か。確かにどれも白黒だね。面白いとは思うけど、わたしは、ゆうくんの撮った写真の方がすごい魅力的だと思うよ」
車か何かが突っ込んで根本がぐにゃりと歪んだ道路標識の写真を訝しげに見た後で江美は俺に微笑んだ。
部屋の壁にかけられた幾つかの写真達に目をやる。江美と付き合い始めた頃からの物や最近近所で何気なく撮影したもの。
江美は俺と違って手先が器用だ。部屋の額縁はほとんどが彼女の手作りで、俺の写真をそれに入れて必要以上に大きくして魅せてくれる。
ほとんど何を撮ったのか理解に苦しむような写真も、江美は我が子を見るような愛おしい顔をしながら部屋に飾ってくれた。
この部屋は、俺と江美、二人の生活空間では勿論あるが、彼女が今日まで俺を支えてくれた毎日を優しく思い出させてくれる場所でもある。
いつの間にかテレビをつけた江美は最近勢いにのっているお笑い芸人の天気予報を笑いながら見ていた。もう東堂の作品を観ることには飽きたらしい。江美、ありがとう。俺は傍らで笑う彼女を見つめて思う。紛れもなく幸せはここにある。




自費出版の経費などを考えています。