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スケッチ⑤

冷たいフローリングに腰を降ろし、神谷に渡された雑巾の様に皺くちゃなリュックの中身を漁る。俺は指先に感じるなだらかな感触から、それが何なのかを理解した。
中学時代、いや、それより少し前に母親に与えられたポータブルCDプレイヤーだ。
黒一色で光沢のある見た目は異世界から転送されてきた未知の乗り物みたいな印象だった事を覚えている。
もう自分の目では見ることが叶わないそれを、俺は指先で触りながら物体の形状を数年越しに頭に思い描いていく。
あぁ、そうだ。俺はプレイヤーの周辺を指で撫でる。イヤホンジャックの横にはコンクリートに擦った所為でついた傷がある。ここだ。不規則な凹凸に爪の先を当てて思い出した。
それで、隣のここは。あぁ、うん、やっぱり。あの日、部屋で落とした拍子に取れてしまった停止ボタン。それが抜け落ちた場所に出来た空洞。懐かしい。

牢獄の様な独りの部屋で、俺は外からの音に耳を澄ませる。雨粒が窓を叩く音が大きくなっている。降り続く雨がどんどんと強くなっているのが分かった。プレイヤーから縮れてだらしなく伸びたイヤホンをおぼつかない手で耳に入れると、俺は指先で再生ボタンと思われる箇所を押した。不安の所為か二度押しした為、音が一瞬途切れる。流れてきたのは遥か昔に繰り返し聴いていた音色だ。確かこれは、、シューマンのトロイメライ。
全身の力を預け、壁にぐったりともたれると俺は部屋の隅へ顔を向ける。知らない間に江美が触ったりしていなければその場所にあるのは、かつて俺が苦行を共にした古い電子ピアノだ。
この部屋は江美と俺がお互いに生活する中で不要と判断した私物を一時的に収納する物置だった。目がダメになってから俺は薄っぺらなブランケットを敷き、よく独りでこの部屋で眠っていた。やるせない気持ちが拭いきれない俺は壊れた時計の様に、二人の過去が詰まったこの部屋に篭り戻らない日々を想い続けていた。窓は閉めているはずだが、雨音のせいか湿った空気がどんよりと部屋の中に満ちているように感じる。


中学時代、俺は町のピアノ教室に通っていた。当時を思えば通わされていたというのが正しいだろう。
分かりやすく言えば俺の両親は超が付く程の過保護で、勉強熱心で、多感な時期になんでも習い事をさせたがるような。そんな親だ。
周りの友達と体育でシャトルランの記録を競い合ったり、放課後は発売されたばかりのサッカーゲームに熱中し、憧れのバンドの流行の歌をいち早く覚えてカラオケで謳歌する。俺が求めたありふれた中学での日常は、嘲笑され、否定され、矯正され、親が敷いたレールの上を、真面目に、ひたすらに純朴に歩くことが俺に許された唯一の事だった。高校を出た俺があの日自転車で家を飛び出した理由は、抑圧された日常の反動に他ならなかった。奇しくもその出来事が忘れられない夕日に巡りあうキッカケであり、俺がカメラマンとして夢を描く事に繋がった。でもまあ、今じゃその夢も、もう叶わない。

このプレイヤーから流れるピアノの音色。好奇心を押し潰された当時の苦悶の日々を今でもありありと思い出させる。神谷、、こんなもの何処から見つけてきたのだろう。もうずっと前に無くしたと思っていたのに。追憶にふける俺は闇の中でピアノの演奏が既に終わっている事に気付く。子供の情景という20分にも亘るシューマンのこの曲で、俺はこのトロイメライという楽章の表現がとかく苦手だった。この部分だけを先生が弾いた2分弱の音源データを繰り返し聴きながら寝る前に指を動かしていた事を思い出す。
ふと、今でも弾けるだろうかと自分でも意外な考えが頭に浮かぶ。絡まったままのイヤホンを外すと、俺は両手両足をつき、まるで赤ん坊の様に電子ピアノがある部屋の隅へ向かった。

久々に触る鍵盤の感触は忌み嫌っていた過去さえ何処か懐かしく感じさせてくれる様な不思議なものだった。おぼろげな記憶を頼りに電源を入れ瞼の奥、頭の中心の辺りで俺は目の前の鍵盤をイメージでぼうっと描き出す。ふざけて目を瞑って演奏をしてみたことはあるが、実際に見ようとしても見えない状況は当然初めてだ。小さく息をする動物に触れる様な弱々しい手つきで黒鍵と白鍵に指を置く。ゆっくりと1音ずつ踏みしめる様に演奏したのはショパンのノクターンだった。初めて弾けた曲で譜面も暗記していたほど俺にとっては指慣らしの様な楽曲だ。元々かなりスローテンポな曲ではあるが、深淵から音色を探り当てる様な奏法はメトロノームが笑ってしまう程不規則な速度の演奏をしていた。ぽっかりと大口を開けた大地の裂け目。そこに架けられた脆弱な橋の上を渡るような感覚だ。押し間違えた鍵盤が鳴らす音色はその鍵盤が奈落の底に落ちて行く悲鳴の様に感じる。全身の神経を指先に集中させる。次に指を置くべき鍵盤の位置をイメージし正確にその音を鳴らしてゆく。ミスを減らそうとすると次は速度が伴わなくなる。規則的なスピードを保とうとした指が鳴らした音が再び悲鳴を上げて落ちてゆく。時計の長針と短針の様な二つの衝動が俺の中で競り合っているのが分かった。

「お前、ピアノ弾けたんだな。すげぇ。」

背後から神谷の声が聴こえた。開け放していた部屋からは悪戯に音が零れていた。帰ったと思っていたが我慢できなかった煙草でも吸っていたのだろう。俺は鍵盤に向けた姿勢を保ったまま指を止める。

「江美はどこ行ったんだ。」

「さっきも言っただろ。知り合いの家だ。」

雨の匂いを沁み込ませて部屋に上がり込んできたこいつのシャツからは、微かだが江美の使う柔軟剤の香りがした。知り合いって一体誰の事を言っているんだ。こいつは、何を考えてるんだ。

「神谷、お前、江美になにか余計な事言ったんじゃないよな。俺らの関係に口を挟む権利はお前には無いぞ。」

背後の男への言葉を俺は目の前の鍵盤の上に吐き捨てる。

「なんも言ってねぇよ。けど」

床の上をこちらに向かって素早く歩く足音が聴こえる。
急に左腕を掴まれ強く引き寄せられた俺は、強制的に神谷と向き合う格好になる。

「江美ちゃんが辛い状況になっている事、お前は気付いてたか。」

「うるせぇな。」

俺は熱量の籠った神谷の腕を振り払う。

「北多川、お前の目の事は、本当に残念だったと思う。俺にできることならなにかしてやりたいとも思う。でも、、お前は目が見えなくなっちまった以上にもっと大事な何かを見失ってる気がする。」

隠そうとしても隠しきれない煙草の匂い。江美が苦手な香りと江美が愛用していた香りが混じった澱んだ臭気は俺には耐えがたかった。神谷を今すぐに部屋から出て行かせたい気持ちが溢れて止まらなかった。

「お前に何が分かんだよ」

言葉尻を踏みつける様に俺は体ごと神谷に向かっていく。
咄嗟の動きに足がもつれた俺はドンっという音と共に神谷をはじき飛ばして床に倒れた。吹き飛ばされた神谷が部屋の壁に体を打ちつけた鈍い音が聴こえる。
部屋の中には未だ降りやまない雨の音が窓越しに響いている。
背後からシャツの襟首を強く引き寄せられ、うずくまっていた俺は力なく体を起こされる。

「江美ちゃんはしばらく帰らない。北多川、お前も少し頭を冷やした方がいい」

闇の中で息の荒い神谷の声が響く。引き寄せられていた手を急に離された俺は再び冷たいフローリングの上に転がった。

「玄関の花、あの日からずっと同じだったんだぞ」
荒々しい息遣いと共にそう聴こえた後、部屋のドアが閉まる音がした。

神谷が居なくなり、再び静寂と深い闇が俺の体を徐々に包み込む。
しばらく耳を澄ませていると停止ボタンが壊れたせいで鳴りやまないトロイメライが床に転がったプレイヤーのイヤホンから零れている事に気づく。

あの日、世界から光が消えた日、それから俺は自分自身の存在価値が分からなくなっていた。乾燥材の匂いがする物置部屋に横になり独りで寝て過ごす事が繰り返しの毎日の新しい習慣になった。江美は時々手作りのパンケーキやクッキーなどを部屋に持ってくる事があったが俺は全てドア越しに断っていた。いらない、とか、うるさい、とか。そんな様な言葉が口をついて出ていた様な気がする。江美が外から運んでくる存在全てがこの閉ざされた空間に侵食してくるようで俺は振り払うようにそれらを拒絶していた。俺は過去ばかりを寄せ集めたこの部屋がどうしようもなく心地よかったのだ。

神谷が言った玄関の花、花。そういえばそんなものあったな。
いつだったろう、部屋の外から聴こえてきた話し声をおぼろげに思い出す。
江美が品切れになっている花を探している様な内容の話しだったと思う。
花の名前までは思い出せないが少し高ぶった声で話していた様な事を覚えている。今もそれは飾ってあるのだろうか。俺は軽い興味本位から体を持ち上げると、さっきの衝撃を引きずるような足取りで玄関に向かった。


自費出版の経費などを考えています。