見出し画像

スケッチ③

喫煙席のある店は絶対に予約しないと言っていたのに俺と神谷は煙たい店内で注文したビールの到着を待っていた。
「いやぁ悪い悪い。俺の知ってる店で煙草吸えない店、そういや無かったわ。」
苦笑して詫びながらも神谷は手早くポケットから取り出した煙草に火を付けた。悪びれないヤツだ。
「お前絶対そう思ってないだろ。まったく、今日は帰ったらすぐ着てるやつ洗濯しなきゃならないわ」
「あはは、すまんすまん。」
先日、神谷からの誘いを断っていた俺は、日を改める形で市内で一番活気のある飲食街である国分町へ来ていた。
恋人の江美が煙草が苦手だという話をしてこいつに店選びを頼んだのにこの有様だ。次からは俺が必ず店を選ぼうと心に決めた。
神谷にとっては恋人を想うという気持ちが不思議なのだろう。江美の話を半分に聴いている辺りがそのことを顕著に表している。
俺の冷たい視線を少しは気にしだしたのか神谷は肺に溜めた煙を自分の真上に吐き出した。他の煙と混じり合い小さな雲の様に頭上に漂っている。
「おまちどうさまです」
甲高い声の女性店員がグラスビールを俺達の前に置いた。真綿の様な帽子を乗せた琥珀色の液体は被写体にはもってこいの体を成している。
どんな場所であっても綺麗なものを観ると俺はすぐにシャッターを切りたくなる。グラスの下に敷かれたコースターもよく見ると素敵なデザインだった。
「とりあえず乾杯」
「おう、おつかれ」
グラス同士を合わせることなく宙で乾杯した俺達は、乾いていた喉にありったけのビールをひとまず流し込んだ。
普段家では全く酒を飲まない俺もやはりこの瞬間はたまらなく好きだ。砂漠でようやく水にありつけたような代え難い充実感がある。
先程の女性店員が順番を誤ったのか焦燥をのせた顔でお通しの和え物を運んできた。神谷がさり気なく彼女の顔をチェックしているのが分かる。
「それで、こんな煙たいところに俺を連れてきてどんな重大な話をするつもりなんだ」
季節野菜が盛られたお通しの和え物を箸で口に運びながら俺は神谷に話しかける。
「もういいだろ北多川ぁ、あんま俺をいじめんなって。普通にお前と飲みたいだけだよ。」
「この前の電話の時の女の子、ちゃんと家に帰してやったんだろうな。」
「あぁ、、まあな」
神谷は煙草を深く吸い込むと言葉と一緒に足元へ煙を吐いた。
「まあなってなんだよ。」
「んー、、すこし味見くらいはしたけど、それでもちゃんと帰したんだからセーフだろ」
鼻先へずれたサングラスを直しながら神谷は綺麗なパーマのかかった長髪を片手でもぞもぞいじった。
こいつは嘘をつく時に髪をいじる癖があることを俺は知っている。味見どころじゃない。察するに今回も黒だろう。
「味見って。お前いい加減ひとりの子に落ち着いたらどうだよ。この前の大学生の子はどうなったんだ。」
「あぁ、店に来てた子か。んー、あいつなんだか恋に恋してるみたいな子でさ。ウブ過ぎて俺だめなんだわ。」
お通しの野菜が苦手なのだろうか、神谷は箸で野菜達をもてあそんでいる。俺はビールにもう一度口をつけた。
「あなたを想ってるゥあたしって素敵ィ、こんなに想われてるあなたは罪な人ォ、みたいなさ。さむいんだよねそういう女。そこでもう興醒め。」
三流の舞台女優の様な下手くそな小芝居を挟みながら神谷は苦笑を交え話した。
「女性はロマンチストなところがあって普通だろ。江美だって時々花に話しかけてたりするから俺は気持ち分かるぞ。」
「うわ、マジかよ。おれそういうの駄目。苦手だわー。」
そういうと神谷は手元のグラスビールの残りを一気に飲み干しながら片手でいじくりまわした自分のお通しをこちらに追いやった。やる、の意だろう。
神谷にとって女性というのは自分を肯定してくれる存在でなければいけないのだろう。言い方は悪いが要は装飾品(アクセサリー)だ。
こいつの見た目にどうしようもなく惚れる女性もいれば、仕草や声に惚れる子もいるだろう。そうやって神谷は自分を褒めてくれる、認めてくれる対象を増やす。
浮き足立っても可笑しくないようにモテていても神谷はいつも不満そうだし寂しそうな顔をしている。儚い横顔も意図せず異性を惹き付けているのかもしれない。
あるとき、こいつの鞄から袋に入った無数の錠剤が見えたことがあった。バイト先の休憩室、その時に居たのは俺だけで神谷は煙草を吸いに出ていた。
憶測ではあるが俺はどことなく神谷が影で何か抱え込んでいる様な気がして、それからこうして定期的に飲みに付き合ってやっている。
女遊びは目に余るほどやってはいるが、見たところ同姓との付き合いが殆どなさそうなのも一因としてあった。
こいつが見ている世界はどんな世界なんだろう。女性に囲まれ周りから華々しく見えるようであってもそれが彼を苦しめているのかもしれない。
ガキだった頃は純粋に喜べたような事だろうが、でかくなってみると素直になれなかったり余計に考える事が嫌でも増えてしまう。
神谷も昔はきっとそうやって自分を保ってきたのかもしれない。でも、いつまでもそうやっていけないことを何処かできっと悟ったのだろう。
焦るように次々に女性を乗り換えるこいつは見たところ楽しそうに振舞ってはいるが何処か必死だ。常備している薬では足りない分をどうにか補おうとしている様に俺には見える。
俺には江美が居て、カメラがあって、夢がある。神谷を見ていると考えてしまう。俺自身の幸せが何かという事を。
「お客様、そろそろお時間ですが、延長されますか」
滔々とそんなことを考えながら会話をしていた俺は時間の早さを痛感する。もう9時だ。来店してから二時間が経過していた。
「あー大丈夫、俺らもう出ますわ。北多川、いいだろ。」
顔を赤らめた神谷が席から立ち上がりながらそう言った。
「お、おう、そうだな。」
急に立ち上がった神谷に急かされる様に俺も追って席を立つ。
「お姉ちゃん、可愛いね。彼氏いんの。今度また来るからまた注文とってよォ。」
「は、はぁ。。」
神谷はいつのまにか手にしていた二人分の料金が書かれた伝票を指先でぶら下げながら会計に向かった。千鳥足だ。
店を出た俺は神谷から急に肩を組まれた。枯れ枝の様に細い腕にはうるさい音のする数珠が巻かれている。
「北多川ぁー、今から俺んち来いよォ。」
「なんだよ急に、今からって。江美が家で待ってるんだよ。服も洗いたいし。」
そう言った後で鞄から携帯の着信音が鳴り響く。江美だ。俺は瞬時にそう感じた。神谷の手を振りほどいて距離をとると急いで電話にでる。
「もしもし、悠くん。いまどこかな」
酔っ払いやタクシーの喧騒の中では即座に掻き消されてしまいそうな江美の優しい声が耳に響く。
「あぁ江美、連絡できてなくてごめん。今店を出たとこなんだ。これから、、」
「北多川ぁー、なぁー、今夜はつきあってくれよー、おーい、おーい、悠ちゃーん。」
言葉の途中で神谷の大きな声が路上に響く。横を通り過ぎたカップルの笑っている顔が横目に見えた。
「今の声って、修平くん?」
「あぁ、そうなんだ。あいつ、今日ちょっと飲みすぎてるみたいで。」
「そっか、、ねぇ悠くん、今日は帰り遅くてもあたし大丈夫だよ。修平くん心配だし送っていってもいいんだよ?」
江美のいつもの癖がでる。俺に判断を仰ぐ言い方をした。今はこの言葉に甘えさせてもらう事にする。まずは騒いでいる神谷をなんとかしなければ。
「ありがとう。こいつ送ったらすぐに帰るから。江美も先に寝てて大丈夫だからな。」
「うん。わかった。じゃあ、気をつけてね。あ、お腹空いたら冷蔵庫にミネストローネあるから。」
「ありがとう、それじゃ。」
電話を切った俺は再び神谷の元へ戻る。騒ぐことに飽きたのか酔いが回ったのか神谷は煙草に火をつけたまま道路に座り込んでいた。
「おい、神谷大丈夫か。」
「悠ちゃん、おれっち寂しいでしゅ。」
神谷は甘える様な言葉を吐くとぼさぼさの髪の毛で隠れた顔を道路から俺へ向ける。ぶるぶると顔を振ったと思えば煙草を馬鹿みたいに深く吸った。
「江美がオッケーくれたから家まで送る。着いたらすぐ帰るからな。」
「かんにん、かんにん。さんくす。」
道路でタクシーを拾うと神谷を押し込み俺たちは国分町を後にした。道中唸りながら時々嗚咽を漏らす神谷が吐かないか心配だったがなんとかなった。
神谷のアパートはそこから15分ほどの青葉区のはずれにあった。「ひなげし荘」という文字がアパートの壁面にポップな書体で貼り付けられていた。
外壁がピンクに塗られたそのアパートは察するに築年数が相当に経っている様で、二階にあがる外階段のコンクリートは剥げ、錆びた鉄筋が所々顔を出していた。
タクシーを降りた頃には少し楽になったのか神谷は一人でよたよたとひなげし荘の階段を登り始めた。二人分の料金を支払った俺はゾンビの様な神谷の後を追う。
広告や新聞が雑然と郵便受けに突っ込まれた扉の前で神谷は立ち止まると、尻のポケットから玩具みたいな小さな鍵を取り出してドアを開けた。
「北多川ぁ、、ちょっとお茶でも飲んでけよ。」
両足に足枷をつけられた囚人の様に重い足取りで部屋にあがりながら神谷は俺にそう呟いた。
街灯の灯りが差し込む薄暗い部屋の中は物が少なく雑然としていた。生活感が無いとはいみじくもいったものだが正に神谷の部屋がそうだった。
神谷は羽織っていたサテンのジャケットを壁のハンガーにかけると、ファッション雑誌が散らばったベットに体を投げた。ギシシと軋む音がする。
お茶を飲んでいけと言いながらベッドに横たわるこいつの考え方はどうにも解せない。自分で勝手に淹れろというのか。
俺はそう思いつつも先程からずっと堪えていた感覚を急に思い出し、雨水を含んだ泥の様な神谷へ声を投げる。
「わるい。ちょっとトイレ借りるぞ。」
神谷は、むふぅ。とベッドに顔を埋め溜息を込めた妙な声を返した。
風呂と便所が一緒になった空間に俺は慣れない違和感を感じたが、黙って便座に腰を降ろそうとした。
換気扇はついていたが回っておらず抜け切れていない湿っぽい空気が俺の体を包み込んだ。
そこからはどうにもよく分からなかった。俺は誰かに頭を強く殴られたような感覚を最後に覚えている。
気付いたときには朝を迎えていた。俺は浴槽の緣に体を預け湿気の篭った密室で意識を取り戻した。
「、、わぁー、、たがわぁー、、おーい、、きたがわー。」
遠くで名前を呼ぶ声に反応し状況を急いで理解する。あぁ、俺は昨夜、神谷を送って、トイレ。朝だ。。
まずい、江美、江美に連絡をしていない。携帯だ。携帯は。玄関に置いた鞄の中だ。早く。
俺はずり落ちたジーンズを急いで履くとよろめきながらトイレを出る。玄関脇に投げたままの鞄から携帯を取り出す。着信履歴は、、ゼロだった。
安堵というよりも何も反応が無かった事が逆に俺の不安を煽り電話をかけようとしたが、液晶の時間を見て手を止める。もう江美が職場にいる時間だった。
勤務中は電話に出れない事を言伝されている。江美は気を使いすぎる所がある。不安を抱えながらも俺から連絡がくるのを黙って待っていたのかもしれない。
自責の念にかられながら謝罪の言葉を込めたメッセージを送った。遅れて体の節々の痛みを感じる。昨夜倒れた時に何箇所かぶつけたようだ。
「きたがわぁー、みずくれぇ」
救助を求める遭難者の様なか弱い声が聴こえて俺は神谷の存在を思い出す。ベッドの治安は昨晩よりもずっとひどい有様になっていた。
俺はカップラーメンの残骸で溢れたシンクへ向かい、空いていたグラスに水を入れる。
「神谷、俺昨日は寝ちまったらしい。よくわかんないけど、、今夜もバイトあるし着替えなきゃだから帰るぞ。」
ベッド脇に置かれたガラス製のロングテーブルにグラスを置いてから俺は横の神谷に声をかけた。
こいつは確か今日のシフトは休みだ。不幸中の幸いか、たぶん今日は一日酒の呪縛から抜け出せないだろう。
それじゃあな、と声をかけ俺はひなげし荘を後にした。眩しい日差しが昨夜の愚行を責めるように俺の体を照らす。
暗いうちは気付かなかったがひなげし荘からは割と近い距離に市営地下鉄の駅があり、俺は通勤ラッシュの過ぎた電車に乗り家に向かった。
電車に揺られながら俺は今週末の事を考える。江美との一日だ。きっと控えめに怒られながら昨夜の事を話すんだろうななんて考えていた。
江美はあまり怒ることが得意じゃない。怒る事に得意不得意があるのかと問われればそれはよくわからないが、揉める事を避けている様だった。
感情的になることよりも対話し、解決策を見つけ、繰り返さないようにしよう。互いに努力しよう。そういった会話を江美は求めていた。
目の前の席に老婆と小さな子供が座った。今日は平日だ。両親に預けられて二人でどこかに出かけるのだろう。子供は老婆に対して微笑みながら何か話している。
突然カメラを取り出して撮影しようものなら不審者扱いされてしまうだろうが、二人の間にある普遍的な何かを今すぐにでも被写体にしたいと思っていた。
ありふれた日常というのは向き合おうとしなければ当然そのままただ流れていってしまう。日々は少しずつ変化している事に気付かず新たな刺激を求める。
俺の目の前にいる二人の様に自分から向き合おうとすれば、求める事をせずともいくらでも煌びやかな瞬間なんて見つけることはできる。
そういえば俺は江美の写真を撮った事が無い事に気付く。あんなにも近い存在なのに。江美はそのことにも気付いているのだろうか。
改めて二人で過ごす週末の事を思案しながら、俺はいつも安らぎをくれる江美の笑顔を形として残さなければと強く感じた。

最寄駅に到着したアナウンスが聴こえる。俺は空調の利いた席から立ち上がると列車から降りる。
それが、記憶している最後の瞬間だった。

自費出版の経費などを考えています。