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スケッチ⑥

修平くんに渡されたお金をタクシーの運転手に支払うと、降り止まない雨の中市内に佇む某アパートの前に私は降り立った。
自分の住む中心地から少し外れた場所にある目の前のアパートは、近隣の木造の民家と並ぶと幾分か近代的に見えるデザインだった。たぶん持ち主が捗々しくない入居状況を改善する為に、外装部分のみリフォームをしたのだろう。少し浮ついた印象が私には際立って見えた。
改めて修平君に渡されたメモを見る。女性に見られては困る類の蛍光色のフライヤーの裏に走り書きでこの場所の住所と名前と部屋番号が書かれている。メモ用紙代わりにこんな如何わしい物が咄嗟に出てくるなんて、悠くんだったら考えられない事だ。私はビニール傘を叩き続ける雨から滲みかかった住所を守るように体を丸めると、アパートの該当する部屋の前へ向かった。雨粒は次第に大きくなっているようだった。

咄嗟に、とか、勢いで、なんて事は正直自分は絶対無いと思っていた。修平くんに寄り掛かった時、ああ、私はなんて軽い女なんだと自分を蔑んだ。だけど、目の前の温もりを肌に感じた途端、何もかもがよくわからなくなった。頭の中が真っ白になり滲んだ景色が広がったまま消えなかった。どれくらいの時間そうしていたのか。止まらない涙を細い指で拭って、この場所を指示した修平くんは悠くんと少し距離を置いてみなと言った。優しい言葉を選んでいたが篭った熱を微かに感じた。マニュアルの様に慣れた段取りと修平くんの言葉達に導かれ滔々とこの場所まで来てみたが、到着し改めて考えてみると身勝手な自分の弱さと子供みたいに突飛な行動に嫌気がさした。雨脚に対抗できない軽装とビニールのサンダルが陰湿に私の体を責め立てている様に感じる。
降りしきる雨音を聴きながら考える事をしていた私はいつの間にかその部屋のすぐ目の前まで来てしまっていた。くしゃくしゃになったメモをもう一度見る。107号室。一番端の部屋。名前は、小峰。ここだ。
カレーの様な香辛料の匂いと聴いた事の無い楽器の音色がドアの向こう換気扇越しに私の方へ流れて来た。

呼び鈴に手を伸ばしたとき、背後が一瞬光ったかと思うと遠くで雷鳴が低く響いた。私は伸ばしかけた手を引っ込めて後ろを振り返った。合図でもしたかの様に強い風が吹いて私の濡れた髪を揺らすと、滝の様な雨が大きな音をたてて地面を叩き出した。雲の向こう、遠くの方で誰かの声が聴こえたような気がした。
ポケットに入れていた携帯が重ねる様にメールの着信音を鳴らし、反射的に画面を開いた私は見慣れているはずの待ち受け画面を見て息を飲んだ。設定していたのは高校時代悠くんが撮影した燃えるような夕日の写真。眩しいくらい熱をもった画像が冷えて薄曇った私の顔をぱっと照らしだした。オレンジに染まった大河原の豊かな田園風景を横に、日に焼けた彼がこの写真の魅力を熱心に語る顔が走馬灯の様に浮かぶ。突然家を飛び出した彼はちょっとした行方不明騒ぎになった事など気にしていない様で、心配していたことすら忘れさせるような屈託の無い笑顔をこちらに向け、写真を握りしめながら将来の夢を私に話してくれた。液晶画面越しになんだか温かい物を一瞬感じた気がして思い出す。悠くんが大好きなこの写真、夢を語ってくれた写真、私もこの夕日が大好きだった。

なにやってんだろわたし。

あの日、悠くんを抱きしめて大丈夫だって言ったのに。
待ち受けの夕日はいつだって私を照らしていたのに。


気付くと私は駆け出していた。冷たい風に吹かれたビニール傘は頼りなく壊れてしまい私は道路脇のゴミ置き場に投げ捨てる。途端に雨粒は私の視界を容赦なく遮る。顔に当たる雨粒を両手で拭いながら濡れて真っ黒に色を変えたアスファルトを走った。路上の砂利がビニールサンダルの隙間から入り込み無防備な私の素足を傷つけた。雨水と砂が混じったサンダルは前に進もうとする私にとってはもう邪魔でしかなかった。東北本線が走る陸橋のガード下に潜り込んだ私は速度を落とすと一度足をとめ、両手を膝にいて乱れた息を整える。すっかり雨水を含んだモップの様な髪の毛から額を伝って乾いた道路にぽたぽたと雫が落ちる。転んだわけでもないのにいつのまにか擦り傷ができているのが視界に入った。こんなにも長い時間雨風に晒された事の無い私の白い足元は飛び散った砂や泥水のせいで汚れて真っ黒になっていた。息を整えようと呼吸していると急に胸の辺りがぎゅっと苦しくなる。喉の奥に綿みたいなものがつまったような感覚が込み上げてきて、視界がどんどんと歪んで目の周りが熱くなった。涙が止まらなかった。
横を通り過ぎた子供が母親に向かって私を心配するような声をあげているのが聴こえる。目の前にぽたぽたと落ちる雫が雨水なのか涙なのかもう解らなかった。堪え切れない嗚咽が口から漏れていた。

悠くん、ごめんね。

私は声に出さずに零すと再び雨が打ちつける道路へ飛び出した。


あの日、私は見えない目で窓越しに夕日を見つめる悠くんを強く抱きしめていた。カメラマンになって色々な景色を撮るって話してた悠くん。近所で小さな子供を見かけるとデート中でもカメラを構えて夢中にシャッターを切ってた悠くん。きらきらした笑顔を見ていると私も自然と笑顔になってた。

あなたが大好きだった、キッカケだった夕日の写真。もう見ることが叶わないと知った時、感じた時、どれほど辛く苦しかっただろう。意地を張って前に進もうとしてなかったのは悠くんだけじゃない。平気な顔して、嘘をついて、無理して笑って。私だって一緒だ。
これからの毎日に、未来に踏み出せてなかった。
あんなに沢山の笑顔をくれた悠くんに私はまだなにも返せていない。怒られたっていい。ひどい言葉を言われても構わない。私はもう一度自分が納得できる姿勢で、気持ちで、言葉で、しっかりと彼と向き合いたい。
降り続く雨のシャワーを浴びながら私は悠くんへ向けて走り続けた。




「悠くん、本当におめでとう。プロデビューももう間近じゃない?」

「大袈裟だよ、雑誌の隅っこにちょっと載ったくらいだろ。」

「そうかなあ、私にはすっごく大きな写真に見えるよ。白黒なのが残念だったけど」

「確かにな、まあ、あの写真は残念だったけど、これからもっといい写真を撮って、あの時は白黒で載せてすいませんでしたーってそいつらに言わせてやるよ。」

「さぁすがぁ~、懐のデケぇ男は違いますねェ~」

「なんだよその言い方、あ、また流行ってる芸人の真似か?」

「ねぇねぇ悠くん、今日の花見てよ」

「ん。おぉ、今日もまた綺麗だなあ。これなんて名前だよ」

「胡蝶蘭。かわいいでしょ。悠くんの写真もうまくいくようにって思って」

「どういう意味?」

「花にはね、花言葉ってあるの。胡蝶蘭にもあって幸福が舞い込んでくるっていうような意味があるんだよ。」

「へぇ、知らなかった。幸福かあ。。うーし、頼むぞォー、今日もいっぱい写真撮ってくるから福を持ち込んでくれー」

「ねぇ悠くん」

「うん?」

「私にできることってこんなことくらいだけど、、応援してる。だから、頑張ってね。」

「あぁ、いつもありがとうな。江美とこいつのおかげで今日もいい写真撮れそう。じゃあいってくる。」

「うん、いってらっしゃい、遅くなるとき連絡してね」




玄関を開けると眼前には真っ暗な闇が広がっていて、雨音以外聴こえないしんとした空間は自分の家か疑わしい程少し不気味に感じた。部屋に明かりがついていようがいまいが目が見えない彼には関係がない事だと言う事を私は目の前の光景から改めて実感する。
「悠くん?」
闇の中、何処とも知れぬ彼に向け、か弱い声で呼びかけたが返事が無い。
雨水のせいで足にぴたりと張り付いたサンダルを乱暴に脱ぎ捨てると、泥のついたままの足で今朝掃除したばかりのフローリングに足を踏み入れた。床と足裏の砂利との擦れる音が一歩ごとに静かな空間に響く。
照明のスイッチは至る所にあるが、その時の私は彼を見つける事で頭がいっぱいだった。暗い廊下の上を初めて歩くような頼りない足取りで前に進みながら、再び彼の名前を呼んでみたが反応は無かった。廊下の先、リビングの手前に位置する物置として使っている部屋のドアが、私を手招いている様に少しだけ開いているのが目に入った。そこに彼はいるのだろうか。私はゆっくりと部屋の前まで進むとドアの隙間から一様に闇が広がる世界を覗きこんだ。
ノートパソコンで文字を打つ時に聴こえる様な軽快だがハッキリとした音が最初に耳に入ってきた。先程まで外の世界で雨音を聴いていたせいか気付けなかった音だ。闇の中でうごめく後ろ姿を見つける。彼はボサボサに伸びた髪を揺らしながら部屋の隅で体を上下に動かしている。闇に目が慣れて散らかった部屋を凝視すると、くたびれたリュックと縮れたイヤホンが付けられたポータブルCDプレイヤーが床に置かれているのが見える。私は部屋の中に入ると体を揺らしながら規則的なリズム音を刻み続ける彼の傍へ歩み寄った。何処から見つけて来たのか分からない塗装が剥げたヘッドホンをつけた彼は、長く長く部屋の隅に片付けられていた電子ピアノを前に瞼を閉じ、別の生き物みたいに躍動する指で鍵盤を叩いていた。
彼がピアノを習っていた事は私も知っていた。同時に、彼にとってそれは出来れば思い出したくない出来事であることも知っていた。この電子ピアノは二人で住む部屋を見つけた私が彼に内緒で持ち込んだもので、一度でいいから演奏を聴いてみたかったという当時の単純な好奇心からの行動だった。時間が過去の出来事を過去として払拭してくれたとき、私のわがままを彼に話してみようと密かに考えていたのだ。彼の辛い思い出を連れて来てしまった事は申し訳ないとは感じていたが結果的に私はこのピアノをこっそりこの部屋にしまいこんでいた。私しか知らないと思っていたこのピアノの存在を彼が知っていた事と、一心不乱に鍵盤を叩き続ける初めて見る彼の姿を前に、私は言葉をかけられずに立ちすくんでいた。距離を詰めてよく見てみると彼の額にはじっとりと汗が滲んでいる。白いTシャツは湿って体に張り付いている様だった。熱の籠った締め切られた道場で、一人虚無へ拳を向け続ける寡黙な格闘家の姿を目の前の奏者にダブらせる。流麗に音を奏でているというより打楽器としてのピアノを謳歌するような猛々しさを感じた為だ。
しばらくして私の存在に気付いたのか彼は突然動かしていた指を止めた。
「、、、 江美か?」
耳にかかったヘッドホンを素早く外した彼は息の切れた声を発すると私へと体を向けた。目の前に私は立っているのに彼の視線は彷徨うように空を捉えている。暗闇の中で知らぬ間に傍に人が立っていたとしたら、私ならば飛び跳ねて驚いてしまいそうなものだが、彼は私という存在を視界以外の全てを使って確実に手繰り寄せた様にどっしりと落ちついた声だった。鷹揚とした声のトーンに私はかえってはっとさせられてしまう。
「悠くん、それ、ピアノ、、」
私は自分から何を話せばいいのか整理がつかず、断片的な言葉を並べると濡れたままの服の裾を握りながら彼からの次の言葉を待った。
「あ、あぁ、、」
彼は見られて恥ずかしい物を見つかってしまった様な後ろめたい声を出すとぼさぼさの長髪を恥ずかしそうに片手でいじった。
「椎名林檎。弾けるかなって思ってさ、、やってみたんだ。」
彼は刺さったままのイヤホンジャックからヘッドホンを引き抜くと鍵盤に乗せたままだった片手でメロディを軽く奏でた。
「正しい街って曲。江美は知らないよな。」
そう言って彼は再び歯がゆそうな顔をすると額の汗をもう片方の腕で拭った。二つの湿っぽい空気が近い距離で混ざり合っている。
「もう一度弾いてみてくれない?」
口から出た言葉がそれだった。さっきまで夢中で鍵盤を叩いていた彼の姿が網膜から離れなくてどうしてもその体から紡ぎだされた音色を受け止めてみたかった。今この瞬間じゃなきゃだめだと強く思った。
え?と、彼は一瞬なにを言われたのか分からないような顔をしたが、沈黙から目の前の私の表情を理解したかのように表情を正すと、端子を垂らしたヘッドホンを首にかけたまま再び鍵盤へ向き直った。
私はさっき彼がしていたように目を閉じると、頭からつま先までの意識を全て耳へ向ける様に集中した。今わたしと彼の間に壁は無い。窓から聴こえてくる雨音。汗と雨で濡れた衣類の貼りつく感触。二人しかいない闇だけの空間。数秒の間をおいて耳から聴こえてくる音を感じた時、私の目の前には初めての世界が広がっていた。
切なくて、力強くて、綺麗。
その音には温度があって、時間と風景があった。
一つ一つの音色が生きていて暗闇の中で自由に踊っている様だった。
雨音すら演奏の一部にでもなっているように完璧な空間が形成されていた。
ずっと蓋をされて、せき止められていた感情が一気に放出された様な感覚が襲う。私は目を閉じたまま、頬を伝う熱いものを感じていた。



自費出版の経費などを考えています。