スケッチ②

玄関脇に置かれた青空を凝縮した様な薄い花瓶には定期的に入れ替えられた花が活けられている。
この花には一日の中で感じた瑣末なストレスを、玄関で一度リセットする目的の為だと江美がいつか話していた。
市内で薬剤師として働いている江美はそんな習慣のせいか仕事先での愚痴を家の中でこぼすことは無かった。
不安を抱え重苦しい息遣いの客もいるだろう。何かの拍子に心無い言葉が自分に向けられることだってきっとあったはずだ。
だけど俺はそんな江美を見たことが無い。こうして改めて考えることなどしなければ気に留めることもしないほどだ。
自分で活けた花を観て自分で自己を浄化する、家の中に澱んだ空気を持ち込まない様に江美は文字通りの自己管理を行っていた。
正直最初は花に興味が無かった俺も、日々変化する花瓶の花を見る内に時折心を救われた様に感じる事もあった。
スピードを上げた車がはじいた水が体に掛かり腹が立った日、活けられた白い花を見ていると江美の笑顔が思い出され落ち着くことが出来た。
外に出ればそういった小さな事で腹を立てたり気分を害する事が実は頻繁に起きている。俺自身の気が少し短い事もさり気無く思い知らされていた。
そんな江美の花瓶の横に小さな写真立てに納められた一枚の写真がある。焼けたオレンジや黄色、そして赤が一体となった一枚だ。
玄関先で江美が花瓶を観る様に俺にとってこの一枚の写真は特別な意味を持っている。あの日の、あの時の出来事を忘れないように。
鼈甲色の木枠の中に収められたのは、一つの感情が産声をあげた瞬間だ。
高校を卒業した夏。日本一周をしようと考えていた。実際には勢いのまま行動した手前、福島の手前辺りで俺は挫折をした。
行く先々での思い出になにかを撮影しようとカバンにつめたのも、部屋に雑然と投げられていたインスタントカメラだった。
一つの国を周るには心もとない自転車で旅を始めた数日後、パンクした車体を焼けたフェンスに立て掛け、県境の国道沿いで俺は呆然としていた。
通り過ぎていく車の排気ガスと照り付ける日差しの相乗効果で、俺の体は嵩増しされた疲労の餌食となっていた。
せめてものという形で俺の刈り上げられた頭の上には、すっかり湿り気を無くしたタオルが申し訳なさそうに陽に焼かれていた。
傍らに人が立っている事にすぐに気付けなかった俺は、その人に声をかけられて我に返り汗で滲むうなだれた頭を声のする方へ向けた。
男は俺を心配しているのか面白がっているのかゲラゲラ笑いながら案ずる言葉をかけてきた。当時は熱波で頭が回らず交わした言葉の記憶は曖昧だ。
ともかく数分後、俺は廃車同然の自転車を荷台に乗せたトラックの助手席に座っていた。運転手の名は後藤という歯の無い男だった。
社用車なのだろう普段は座ることのない助手席は干ばつで網の目の様になった地面を髣髴とさせた。ざらざらした手触りを覚えている。
カビくさい空調に体が慣れ始め、ようやっと現状に安堵した頃合から俺は隣の後藤に意識を向けることが出来ていた。
「あんちゃん。大丈夫か。あんなとこで座り込んでよぉ。最初おらぁ道路で野垂れ死んでるんでねぇかと思ったでなぁ」
後藤はそう言って俺の顔をちらと見ながらゲラゲラとまた笑った。歯が抜けている為に時折喋りにくそうにしている。
そこから数時間は後藤のよくわからない話を聴かされていた。前述の通りの具合なので最初の一言くらいしか今はもう覚えていない。
どうやら俺は朦朧とする意識の中で地元の名前を口にし、後藤は偶然にも道中そこを通る経緯だった事は最後に知った事実だ。
市街地と田園地帯を幾度か繰り返した後にいつの間にかトラックは俺の知っている風景をゆるいスピードで流していた。
後藤の話を半分聞き流しながら転寝をしてしまっていた俺は、突然眼前から容赦なく浴びせられた光が鬱陶しくて目を背けた。
「なあ、みてみぃ」
後藤の声に俺は再び眼前の光に目を細めた。夕日だった。
当たり前にいつも見ていた様な、それはどこにでもある光景だったがその時に俺は何かに取り憑かれたようにカメラのシャッターを切っていた。
理由や根拠なんて小難しい事はなにもない。衝動というどうしようもなく図れない力があの日、俺の体を動かしていた。
きっと奇妙に思えていたに違いない。初めてそれを目にした赤ん坊の様な俺に顔こそ見てはいなかったが運転しながら嘲笑する後藤の表情が今は浮かんで見える。
地球上で起こる一瞬の刹那を切り取る行為に、俺は自分自身が躍動している事を肌で実感していた。目の前で悠然と燃える夕日に只、ひたすらに向き合い続けた。
インスタントカメラのフィルムが限界を知らせたのとほぼ同時にトラックのエンジン音が止んでいる事に気付く。俺の地元、大川原町のそばだった。
トラックから大海を流浪した流木の様な自転車を降ろし、後藤に丁寧に礼を言って別れた。去り際に何か言われたが聴き取ることはできなかった。
死んだように眠った翌日一番に昨日の写真を現像しに近所の写真店へ向かった。近所といえども徒歩で30分はかかっただろうか。
現像した時、何枚も同じ写真が手元に溢れたが、実際は同じな様でいても仔細に眺める事で明確な違いがあった。そのことが堪らなく俺の興味を駆り立てた。
爬虫類が脱皮をするように皮膚がめくれた俺を心配した江美をよそに、俺は撮影した写真の魅力を彼女へ幾度も語った。
前述した写真立てに収められているのは、その時に撮影した夕日の内の一枚だ。実家の玄関には選考に悩んだもう一枚が飾られている。
あの日目にした夕日の雄大さを言葉にして語ることはできないが、写真は言葉の壁を越えて人々の魂へ直接訴えかける力を持っている。
何気ない陽の光に激しく心を奮わせた経験が現在の俺自身へ繋がった。そんな写真を俺は花瓶の花と共に眺めては日々を繰り返していた。
「わたしちょっと買い物いってくるね。」
隣に座っていた江美の言葉で、俺は過去から現在へ連れ戻される。
目の前のテレビでは天気予報を読み終えたお笑い芸人が妙な動きをしながらコーナーの終了を告げていた。
「ゆうくんも一緒にいかない?」
質問こそしてはいるが江美の口調からは俺と一緒に行きたくて仕方ないという意思が汲んでとれた。
「いや、俺はもう少し東堂さんの写真を観てるよ。気をつけてな。」
「えー。わたし一人だと余計なものとか買っちゃうからなあ。いつものとこに居るから後で来てくれてもいいんだよ。」
いつもそうだ。無意識なのか江美は自分の気持ちを口にする時に、我侭にならない言い回しで俺に判断を委ねる。
「考えとくよ。」
江美は俺の顔を少し眺めてから、わかったと呟くとルームシューズを床に擦りつけながら玄関へ向かっていった。
俺は点けられたままのテレビを消し、再び東堂の写真へ目を向けた。しかし、次の瞬間、テーブルに置かれたスマートフォンが呼び出し音を鳴らした。
写真集を閉じた俺は液晶に表示された「神谷」の名前を一瞥してから電話に出た。
「もしもーし、おつかれ。北多川 今なにしてんの」
神谷修平は俺がバイトをしている駅前の飲食店の同僚だ。ジョン・レノンの様な長い髪の毛と痛々しい程の数のピアスを付けている。
「おつかれ、今は家。」

「今さ、駅前で呑んでんだけどお前も来ないか?アーケードで捕まえた可愛い子も一緒だぞ」

飲食店の中の騒々しいBGMが耳障りだった。神谷のそばで高い声が響いている。

「あー、わるい。今日はちょっと行けないわ。また今度な。つーかお前彼女いるんじゃないのかよ。大丈夫なのか」

「なんだよ、つれねぇなあ。北多川、お前もまだ若いんだからもう少し道草してもいいんじゃないの。人生は楽しんだもん勝ちだぞ。じゃあな。」

神谷は最後の言葉を言うか言わないかのタイミングで通話を切った。悪いヤツではないが女関係のだらしなさは折り紙つきだ。
数ヶ月前、客の大学生を営業中にも関わらず堂々と口説き落とし手中に収めたと思いきや、休む間もなくまた新しい獲物を掴まえたようだ。
俺はこいつの様に器用じゃないし、躍起になって若さを謳歌する理由も釈然としない。年齢こそ近いが住んでる世界には大きな隔たりを感じる。
再び携帯が鳴った。画面にはまた連絡する旨のショートメッセージと共に顔を赤らめた神谷と何処かの若い女性の睦まじい写真が添付されていた。
神谷にとっての人生はこういう事なのかと俺は考える。こいつの生き様が液晶に映された画像一枚に集約されている様に感じた。
飲み過ぎるなよ。あと、女の子は帰してやれ。と返信を打ってから俺は再びソファーに腰を降ろした。と、途端に何故か江美の事が心配になった。
考えすぎるのは俺の悪い癖だが、神谷と話した事もあってだろうか。近所で変なやつに絡まれてはいないだろうかという不安がよぎったのだ。
そんなことあるわけない、いや、でも、もしかしたら。繰り返しそんな事を考えながら東堂の写真集を書棚にしまうと俺は足早に部屋を出た。



自費出版の経費などを考えています。