見出し画像

スケッチ⑧

神谷の葬式は親と一部の関係者だけの小さな物で済まされた。
家族構成なんてまじまじと聴いた事が無かったが、神谷の父は既に亡くなっており、唯一の肉親は母親だけだった。
他界した父親は都内で有名な食肉関係の会社経営者だったらしい。歌舞伎町の飲食街へ太いパイプがあった神谷の父は、若手事業者と手を組んだり、古くからその地で商いをする小料理屋へと肉を卸したりするなど手広い取引を展開しており、神谷自身もそんな父に半ば強制される形で、物心付いたころから会社経営者へ一人息子として紹介されることもあったらしかった。
神谷が生まれる前から長らく大病を患っていた神谷の父親は先の人生を案じ、確定されている未来の家系図を綴るように順当に神谷を次期後継者にしようと話を進めていたが、神谷はそれを拒否して勘当覚悟で仙台に逃げてきたらしかった。
絡まった糸が解けなくなった様に互いに理解し合えずにすれ違い、その末の逃亡だった為病床の父親は神谷が失踪した事を知る事無くこの世を去ったという。式が始まる前の会場内で神谷の母親を見つけた江美は俺達と彼の関係を彼女へ説明した。長い間音信不通だった息子と不遇の再開を果たした神谷の母は俺たちへ感謝を伝えてから前述したような神谷の生い立ちを涙ながらに話してくれた。弱々しく話す母親の声色は男性ならば誰しもが守ってあげたくなるような丸みのある女性らしいものだった。

雨が降った金曜の葬儀場。少しきつくなった喪服と靴擦れの傷みに耐えながら俺は江美と焼香の順番を待っていた。
僧侶の声以外静まり返っているような場内だが、白杖を握る見慣れない出で立ちの俺を嗅ぎ回るような囁き声を俺の聴覚は捉えていた。
江美にサポートされながら焼香をあげた俺は、目の前で眠っている神谷を想った。こいつとはこの瞬間からもう二度と会えないし、会話もできない。俺の両目はそんな神谷の姿を捉えることすらできない。
腕を掴んでいた江美の指先が、焼香をあげ終えた時一瞬力が入ったような気がして、白杖を持っていない方の腕で俺は江美の肩をそっと抱き寄せた。互いに無言の内に想いを込めて神谷へ最後の挨拶をする。
自由を謳歌し、性格も生き方も俺とは真逆の様に見えていた神谷も、中学時代に家を飛び出した俺と同じで、家庭環境での抑圧された世界から抜け出したくて行動した者同士だった。神谷の母親との会話の端々と江美の話からパズルを組み立てるようにして蓋を開けてみれば、俺に紹介してくれたピアノバーも父親のかつての事業関係者の伝手を辿って繋いだ縁らしかった。持ち主を無くした神谷の携帯電話には、親から受け継いだ会社で都内の飲食経済を回している若手経営者の名前が見えた。親の繋がりで息子同士が仲良くなり、腐れ縁の様な形を維持したまま仙台に流れたかつての友人である神谷を想うメッセージが、女性だらけの浮ついた履歴の中に埋もれるように散見された。
相手からの一方通行の様なメッセージの中で、神谷が彼に突然返事を出し始めたのは俺がピアノを弾き始めた時期と分かりやすく重なっていた。
おこがましい話だが俺の為に動き出してくれた神谷のあからさまな行動を嬉しく思うのと同時に、今日に至るまでの感謝の言葉を本人にちゃんと伝えられないままだった事を悔やんだ。
居酒屋で煙草を吸いながら笑うあいつの顔が脳裏にしゃぼん玉の様に浮かんでは消える。
そうか、もう、逢えないんだよな。

最後の瞬間にも世界の全てを知る事のできない俺に対して、江美は会場を後にするまで出来る限りの情報を俺に与えようと張りつめた気持ちでいてくれたのだろう。
友人との別れを前にしたら感情のままに涙するのが普段の江美だ。だが、目の前に神谷の母親を見つけた時も、昔の様に感情のままに動きだしたりはせず、動き出す前に俺に全ての状況を説明し、話しかけるかどうか判断を仰ぐなど徹底して俺の心に寄り添う行動をしてくれていた。
雨水を含んだ空気が籠った戻りの市営バスに揺られながら緊張の糸が切れた江美は俺の肩にもたれてうとうとしている。
握ったら簡単に壊れてしまいそうな江美の細い指が俺の手を優しく包んでいる。
この車内の湿度の様に悲しみの空気が詰まったあの場所で、自分の中で今にも溢れだしそうな弱々しい感情を封じ、神谷の母の悲しみに寄り添いながらも毅然とした態度の声で話す江美の胸中を考えた時、この女性が、江美が、俺の隣にいてくれる事に感謝の気持ちが止め処なく溢れ出た。バスの振動を体に感じながら肩越しの江美の小さな寝息が聴こえてくる。
俺が江美と今こうしていられるのはお互いの努力があったからには他ならない。だけど、すれ違い、どうしようもなかった頃はいつも神谷が近い場所で俺達を支えてくれていた。自分自身を認める為に女性と交際する事をしていたあいつにとって、互いの人間性に悩み、傷つけあって理解を深め合う俺と江美の様な関係は、滑稽に見えるのと同時に見守りたかったのだろう。見失いかけた当たり前を思い出させてくれたのはあいつからの一言だった。
視力を失い、無気力だった俺が一日も早く立ち直れる事を願った江美が、胡蝶蘭を花瓶に生け続けていた事を知ることができたのは他でもない神谷が教えてくれたからだ。
耳から聴こえる気丈な声だけじゃ判らなかった江美の辛そうな表情。視力という体の一部の機能が駄目になった事の大きさを痛感したと同時に、これからの日々、もっと江美に対して思いやりをもたなくてはと思い知らされた。
目が見えない俺は相手の表情や動きが見えない分、スタートラインから言葉や態度、からだの動きなどで健常者より少しだけ踏み込んだ努力をしなければいけないと悟る。今でも時々俺との毎日に江美が心から幸せか、喜びを感じられているか不安になることもあるが、いつもどんなときも自分は江美に助けられているという感謝を体全体で伝える事を忘れないようにしている。
片手を伸ばし、江美の膝に手を置いたり、妙に感じるかもしれないが握手をしたり、表情を介した相手の意思を受け取れない分こうした手段で親愛や繋がりをもとうという俺の考え出した答えだった。
そういった気付きや相手への感謝、努力や思いやりも神谷と喧嘩して目が覚めたように思い出したことだ。
一つの物事を回想してみれば必ず何処かに神谷の姿があった。
ずっと寄り添ってくれていた存在は、日常という風景の一部となってしまい、擬態した昆虫の様に目立たなくなってしまっていた。神谷という抜け落ちたピースの大きさは俺にとってはその風景を全然違うものに変えてしまうほどに大きいものだと気付く。なにもかもが手遅れだった。
灯台もと暗しといえどもろくに感謝の言葉も言えないまま神谷は何の前触れも無く遠くへ行ってしまった。

神谷。。ありがとう。。ごめんな。

「次は、河原町。河原町。」
目的地の到着が近い事をバスの自動音声がアナウンスする。
探る様な指先で俺は降車ボタンを押し、傍らの江美を揺すると優しく声をかけた。




「あれ、これって、、悠くん。」
洗面所で顔を洗っている俺に横で洗濯機へ衣服を入れている江美が声をかけた。
「ん。どうした。なんかあった?」
乾いたタオルで顔を拭きながら俺は答える。
「物置部屋に投げてあった悠くんの上着に入ってたの、サングラスが。これって修平くんのじゃない?」
「え、それって、あのレンズが丸くて小さいやつか?」
「うん、そうそれ。特徴的だったから私もよく覚えててさ。修平くんこんなのよくかけてたなあって。これ修平くんのだよ。たぶん、うん。いや絶対そう。」
俺は神谷と飲んだ最後の晩を思い返してみるもサングラスを直接渡された記憶はなかったし、なによりなんで上着が物置部屋にあったのかも、サングラスがポケットに入っていたのかも謎だった。眉間に自然と皺が寄る。
「なんで俺の上着に入ってたんだろう。」
「え、修平くんから貰ったとかそういうのじゃないの?」
江美は困ったような顔をする俺に対して不思議そうに答えた。
あの晩は色々と慌ただしく、俺も泥酔した神谷を家まで運ぼうと必死だった。帰りのタクシ―で遅れて酔いが回った俺は帰宅してからの事は靄がかかった様にあまり覚えておらず、朝早く仕事に向かう江美にソファーで寝ていたのをひどく怒られた事の方が記憶に残っていた。そういえば江美は、靴下やジーンズが脱ぎっぱなし投げっぱなしと騒いでいた。たぶん眠気のピークを迎えていた俺は神谷の煙草の匂いが耐えられなくなって上着を隠すように物置部屋にでも投げ入れたのだろう。その時何を考えていたかは自分自身でも分からないが、今になって考えうる可能性としてはそれが最初にあがった。
サングラスに気を取られていた江美が、遅れて気付いた様に煙草の匂いのする上着に対しぶーぶー騒いでいる。
ていうか、なんであそこにあるのと言われたが、理由が見つからない俺は分からないと答えて誤魔化した。
別で洗わなきゃ。と、足元のバスケットに上着を入れた江美は再びサングラスを手に取ったようだ。
「ちゃんと近くで見た事なかったけど、これすっごい綺麗だよ。修平くん、女の子の付き合い多かったからプレゼントでもしてもらったのかな?細身だけどフレームもしっかりしてる。あれ、ねぇ悠くん、ここになんかあるよ。」
江美は神谷のサングラスを鑑定士の様に様々な角度から眺めながら何かをみつけたらしく俺のシャツの袖をぐっと引っ張った。
「エス、、エル、、んー。なんか英語みたいだけど筆記体で小さく文字が書いてあるよ。すごーい、読めないけどなんか素敵。」
俺は江美の言葉からなんとなくのイメージを思い浮かべる。フレームに文字を刻むなんて神谷の好きそうな事だと思った。キザなあいつらしい。
と、突然顔に何かがぶつかる感覚があって驚いた俺はうわっと後ろに仰け反った。片手に握っていたフェイスタオルが床に落ちる。
バランスを崩した俺の両手をぐっと江美が掴んで元の姿勢に引き戻してくれた。
立ち直った俺を前にした江美は今度は感心する様な声を漏らした。
「おぉぉ、、ねぇ悠くん、それ似合うよ。似合う。えー、かっこいいー」
(似合う?)。。何のことだろうと俺は顔に当たった衝撃を探る様に両手を頬に当ててから顔全体をまさぐった。江美のやつ。神谷のサングラスを俺にかけたらしかった。鼻先に乗っかる慣れない感覚から俺は遅れて状況を理解する。
「勝手になにやってんだよ。壊したらどうすんだ。」
俺はサングラスをそっと外しながら言った。
「でもそれ悠くんのポケットにあったんだよ?あげるよって事だったんじゃない?」
江美の短絡的な解釈に俺は思わず吹きだしてしまう。
「どういう理屈だよそれ。あの日は色々あったんだって。なにかの拍子に上着に入ったのかもしれないし。」
俺はそう言いながら外したサングラスを目の前の江美へ手渡した。
「んー、なんか分かんないけど、私はもらってもいい気がするなあ。修平くんも悠くんになら譲ってもいいって言いそうだし。」
江美は自分の考えを分かってほしそうに猫撫で声で言った。
言葉からなんとなくモジモジ体を動かしているように感じる。
「それかけてあいつみたいに女癖悪くなったらどうすんだよ。」
「え、、それは絶対イヤ。」
迷信を信じる少女の様に今度は急に辛辣な声で江美は答えた。
「そんなわけないだろ。冗談だよ。」
俺は洗面所を出るとリビングへの道筋を頭の中でイメージしつつ、いつも電子ピアノが置かれている窓際へゆっくりと移動する。
悲しいことが起きた後だが今夜は店での演奏が控えていた。
演奏することがある日の日中は、俺はこうして時間を作って必ずピアノを弾くようにしている。
店では恥ずかしくて見せられないような実験的な演奏に遠慮なく挑戦できるし、朝方の生活を送っている江美と、演奏を通して意見をもらったりコミュニケーションをとる大切な時間だ。
隣人への配慮を忘れないように俺はできる限りボリュームをしぼってから鍵盤に指を置く。
ひとまず指鳴らしにシューマンのトロイメライを軽く弾いてみる。不思議な話だが自分の体調や精神状態の微妙な揺らぎが俺の演奏に影響してくることがある。こうして俺はいつもトロイメライを弾きながら今の自分自身を見つめ、コンディションを確認する。いわばピアノという音叉で精神状態を調和させる作業だった。
格好良くは言っても所謂癖とか習慣、あとはちょっとした願掛けの様なものもあるし、肝心なのは俺自身がこの時間を使って感性を磨けるかどうかという事だ。気が重い日でもこの習慣をこなす事で俺は演奏や表現に向き合えてきた。
そうして指先でゆっくりと探すように演奏をしつつ、目の奥に広がる暗い世界、そこに幾つもある小さなカーテンを一つずつ開けていくように、少しずつ、ゆっくりと色鮮やかな風景を構築していく。
江美は俺が実験的な演奏をするのか、それとも新しい世界を生み出すのか否かを弾き始めのこの曲で判断していた。
ゆったりとした弾き始めの旋律を聴いた江美が相変わらずの摺り足で俺の傍へ駆け寄ってくるのが分かった。それからはもう互いに口を開かない。
2分弱のこの曲をしばらく繰り返す事もあれば、何か演奏で表現できそうな風景などが思いつけばそこから派生するように音を紡ぎ徐々に展開させていく。
意識を集中させ、俺は音の世界へ没入していく。





仙台で一番の飲食街、国分町。
俺の居場所であるVIVA OLAのあるこの場所が俺は苦手だった。
市の条例が厳しくなってからは客引き目当ての見知らぬ人間から急に声をかけられる事は減ったが、やはりそれが無くなっても様々な音が絶えず鳴り響いている現状には変わりない。
耳から入る情報が膨大になる事が苦手な理由の一つでもあるが、タクシーや接客関係のキャストの送迎、飲食店への食材や飲料の配送トラックなどがひっきりなしに出入りしている事もあった。国分町は何区画かに分けた飲食店が立ち並ぶ地区を市民は総称してそう呼んでいて(正確には一丁目や二丁目というように呼称がある)、車が出入りする中央道路を挟み込むように雑居ビルが立ち並んでいる。
歩道の幅もさして広くとられてはいないため不注意からすれ違い様に誰かとぶつかってしまうような危険もあり、サポート無しで歩くのは未だに不安だし怖かった。
というより、俺自身の感覚が同じ視覚障害をもつ者達より大分ずれていて、同じような障害をもつ人間ならば間違いなく一人で出歩きたい場所ではなかった。視力を無くしたばかりの頃、意地を張って一人で出歩くような真似をして死にかけた事を思い出す。
そうだ、あの日も神谷に助けられたんだった。
俺は江美に無断で当時のアルバイト先の居酒屋へ最後の挨拶に向かおうとしていた道中だった。
タクシーを使えば目的地まではすぐだが、俺は自分自身を試したくて国分町付近でタクシーを降りると、無謀にも通りを歩き出していた。
買ったばかりの立派な白杖をもって歩き出してはみたものの、頭の中でイメージした地形が途中で分からなくなってしまい道路に座り込んでいる所を買出しに出ていた神谷に見つかった。
怪我をした犬を保護するような大袈裟な対応が当時は鬱陶しく感じていたことを思い出す。自分の無力を突きつけられたような気がした俺は神谷の優しさに勝手に腹をたてていた。
その時は神谷に無理やりタクシーに乗せられて江美の下へ帰らされてしまった。
子供みたいな理由でプライドを傷つけられた俺はそれ以降神谷と連絡をとりあう事を辞めた。今にして思えば、なぜそんなことで?と感じていて、自分でも馬鹿だったと思うし無茶をしたと悔やんでいる。
元来の自分で経験するまで分からない性分はどうにもならない。
きっと神谷はそんな俺の性格も分かっていたのだろう。今となってはあいつの方が俺よりずっと大人だったんじゃないかと思う。
タクシーの運転手に言って開けてもらった窓から今夜の国分町の音を聴きながら、俺はそんなことを滔々と考えていた。
国分町通りに入ってすぐ、コンビニのある辺り、ここにはいつも若い男性の客引きが二名常駐している。
俺は位置関係や距離を脳内でイメージしながら光景をスケッチする。
「お兄さん、こんばんわ。」
位置的に該当の場所を通り過ぎた窓越しに声が聴こえた。だが、今日の声はいつもより野太い。普段立っている男性は休みなのだろうか。
そこから直線ですぐに到達する十字路では複数の客引き達が互いの縄張りを尊重するように距離をとって立ち回っていた。
念を押す形になるが前述した光景のこれらは全て俺の脳内でのイメージだ。
耳から入ってくる情報をVIVA OLAに通うここ数年間で練磨させてきた結果、ある種の到達点にたどり着いた様にこういった光景をイメージすることができている。
「お客さん、そろそろ言われた場所だけど。」
声にして40代くらいだろうか。眼前の運転手が声をかける。
「ああ、ありがとうございます。じゃあ車停めやすそうな場所でいいんでそこまででお願いします。2500円で足りますね?」

「あぁはい。大丈夫ですよ。」

メーターの数値が見えない俺にとってタクシーは博打みたいなものだ。
今夜は大丈夫だったが、悪質な運転手に自分が思うより高額な料金を請求されて口論になった事もある。
俺は自宅からタクシーに乗ると運転手に細かく経路を指定する。
それと同時に出発からの経過時間、窓から流れ込む風の流れ、人の声、信号機の音など、健常者なら気にも留めない様な様々な音を頼りにある程度の乗車料金のボーダーラインを自分の中で打ち出していた。
運転手が道路事情などを理由に迂回したり、別の経路を辿る場合も目的地から逆算する形である程度の場所で自主的に降りるなどどいった事をしていた。
こんなくだらない事を習得し得たのも全ては俺のプライドと前述した性分が故だった。わざわざこんなリスクに飛び込まずに公共の交通機関などを使えばいいのにと自分自身では理解はしているが、普段は江美のサポートがある分一人の時はこういったことをしてみたい好奇心の様なものもあった。まあ、神谷に最初に赤ん坊の様に扱われたことが火種になっているのが正直なところだが。

「ありがとうございます。2350円です。領収書は?」

車が停まり、運転手が俺に告げる。週末にも関わらず珍しく今夜は道路が空いていた。体感からして平均的な到着時間だ。店についてからテザのジンジャーエールを一杯飲めるかもしれないと俺は考える。
運転手に代金を払い国分町へと降り立つ。
降ろされた場所の大体の位置関係を掴むために、俺は先ず鼻先に意識を集中させる。
VIVA OLAがあるビルの並びには支那そば屋があって、そこから流れてくる出汁の香りを頼りに白杖を動かしながら進むのだ。
だんだんとその香りに餃子の匂いなどが混じるような変化を感じればもう店は目の前だ。
重厚なドアノブを握って俺は店内へ入る。幾度も出入りしているこのドアを俺は何度も頭の中で思い描いてきた。ゲームなどに出てきそうな古城の入り口、尋ね人を試すような重厚な威圧感が漂う大きな門。俺が抱いているのはそんなイメージだ。

「おぉ、悠か、おつかれ、おつかれ。」
目の前の入り口に近いカウンター席から聴こえてきた声はムロ爺だった。
カウンターの向こうに居るであろうテザも俺に対して片手をあげて黙って挨拶しているような気がした。なんとなくムロ爺とテザへ向けて片手をあげ挨拶をする。
「あっ、お疲れ様です。あれ。ムロ爺、今日はオフですよね?」
店内に入ってしまえば、白杖は必要なくなる。VIVA OLAの店内は自宅と同じようにある程度空間を把握していた。大声で騒ぐような客もなく、必要最小限の音のみが響く静寂に近い空間。そんな整えられた店内だからこそ俺は物の場所や配置などを把握することが出来ていた。
と、肩越しに気配を感じる。傍まで歩み寄ってきていたテザがまるでホテルマンの様に俺の白杖を受け取ってくれた。無論客でもないのにこの待遇は俺だけの特別な、いや、テザの言葉を借りるならSPECIALだからだ。
「おぉ、悠。そのサングラス似あっとるな。キアヌリーブスみたいだぞ。」
ムロ爺は俺がかけているサングラスに気付き、ホホォと感嘆の声をあげた。
そう、俺は結局江美の薦めるままに神谷のサングラスを拝借していた。目が見えていた頃からだがこういった類のものは身につけてこなかった俺は、最初こそ恥ずかしかったがなんだかんだ江美が大袈裟に褒める言葉が素直に嬉しく、店の皆の反応を見たい好奇心からかけてきてしまったのだった。
「あぁ、これですか。そうなんですよ。ちょっと色々あって。大丈夫ですかね。」
俺はムロ爺の反応が良かったのをいいことに不必要な改めて確認する言葉をかける。キアヌリーブスはこんな出で立ちをしていたことがあっただろうか。俺はほとんど靄の様な存在でしかない彼を脳内でイメージするもその光景は思い出せなかった。

「今夜はそれかけて演奏すんのか。俺はいいと思うぞ。お前にはなぁ、なんかもう一個花というか、色みたいなもんが足りてない気がしてたんだ。似あってるしそのままでしばらくやってみたらどうだ。」

自分で言うのもなんだが、伸ばしっぱなしの髪の毛然り容姿には昔ほどこだわらなくなっていた。演奏こそちゃんとしていれば問題はないし、なにより自分で自分の姿を確認できないことが興味を薄れさせていた理由だった。無頓着という方が近いかもしれない。低価格が売りの店で色違いのシャツを複数枚購入し着回している生活だ。話題にこそあげてこないが、江美もきっともう少し身なりを気にしてほしいなんて思っていることだろう。
ムロ爺のかけた言葉には理由がある。
俺の目についてだが、一見すると健常者のそれと区別がつかないらしい。
演奏を気に入ってくれた客から握手を求められた時、両手が空を掴んでしまったり視線の微妙なずれだったり、そういった場面で相手は初めて自分との違いに気付くのだ。
白杖をついて歩いていたり視覚障害者だと説明でもされない限り、椅子に腰掛けピアノを弾く俺の実状が相手に気付かれることは少なかった。お店のホームページには定期演奏を担っている奏者が一覧で公開されており、有り難いことに俺も簡単なプロフィール付きで紹介されているため一部の客はその事実に気付いているが、果たして全ての観客が俺が抱えているハンデを見抜いているかは分からなかった。つまりはそういった外見に違いが見えにくい上に地味な格好の俺は多分目の前のムロ爺よりも圧倒的に目に見える個性が無かった。
神谷があの日、なにかを考えて俺の上着に入れたであろうサングラス。あいつのように個性をうるさく主張したい訳ではないが、しばらくかけてみると妙にしっくりくる。とりあえず今夜演奏をしてみて支障がなさそうなら、かけ続けてみてもいいかもしれない。
改めて考えることをしてみると俺はサングラス越しにいなくなった神谷を近くに感じるような心地よさを感じた。あいつの吸っていた煙草の香りを思い出す。

「ムロ爺。これ、亡くなった友達の形見なんすよ。」
口にしてみたものの果たしてこの表現が正しいかは自分でもまだ疑問だった。遺族から譲り受けた訳じゃない。なんとなくもやもやしたものが消えないからだ。
だけど、ちゃんとした正解を、答えを教えてくれるあいつはもうこの世に居ない。どんなに考えたってどうしようもない。
俺は空いた片手であいつが馬鹿にしたブロッコリーのような髪の毛をかいた。

「そうか。大事にしてやれよ。」
時間を遅くする魔法を使ったみたいにどっしりとムロ爺は言った。

「はい、そうします。」
髪をかいていた手を下げた俺はサングラスを指の腹でくっと持ち上げた。
俺はムロ爺の隣の席へ移動し腰をかける。丁寧に手入れされたスツールからは微かな音も聴こえてこなかった。
「そういやぁ今夜はオーナーの知り合いのやつが東京から来てるらしいなぁ。悠は知らないかもしれないがこの店に作品を置いている画家の個展が仙台で開催されてんだよ。」
ムロ爺はそう言うと手にした飲み物を口にした。微かな香りや氷の音からウイスキーのオンザロックだろうと俺は推測する。
「この店のオーナーってやっぱ芸能人とかと知り合いなんですかね。俺は見れないですけど店に飾られてるアートって殆ど有名な人達のって聴きましたよ。」
注文もしていないのに目の前にグラスを差し出された気配を感じる。弾ける気泡の爽やかな音色、生姜の香り。テザは俺の好きな飲み物を心得ている。ムロ爺はこの奇妙な光景をどう見ているのだろう。俺は少し気にしながらグラスのジンジャーエールに口を付けた。

「んん、そうらしいな。まあ俺もクラウドなんたらで資金提供したらしいやつから聴いた話だから詳しいことはそんなに知らないがな。ただオーナーとは馴染みのある画家らしいからひょっとすると今夜辺り国分町に出てきているかもしれんぞ。悠、しっかり演奏しないとな。」
ムロ爺はそう言うと悪戯に笑った。
「いやまぁ、でも、俺はいつもどおりやるだけですよ。あ、でもその人がもし来ていたらこっそり教えてください。おもてなしじゃないですけど少し演奏にアレンジしたりとかするので。」
ハンデがある俺の事を雇ってくれた店だ。演奏ぐらいでしか恩返しできない分できることはしっかりやろうというのが俺の考えだった。オーナーの知り合いとなれば少しでも楽しい時間をこの場で過ごしてもらいたい。
俺は今夜の自分の演奏する姿を頭でイメージした。

数時間後。
自分の演奏時間が迫っていた俺は店の中の休憩スペースで精神を集中させていた。
「おい、悠。」
距離にして数メートル、自分の背後から擦れた声がして俺は振り返る。

「あ、ムロ爺。」

「さっき話したやつ。どうやら来てるみたいだぞ。ゴーグルで画像検索もした。名前もちゃんと出てきたぞ。」

「ムロ爺、それはゴーグルじゃなくてグーグルですよ。わかりました。ちょっと自分なりにいろいろやってみます。ありがとうございます。」


ムロ爺は勘違いや言い間違いが時々ある。今夜もそれが発揮されていた。
ただ、写真家を画家と間違えた事や、この時名前を伝えてくれなかったことを俺は後から後悔した。

今夜店に来ていたゲストは、俺がずっと憧れていた写真家。
東堂瞬だった。

自費出版の経費などを考えています。