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スケッチ

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仙台でカメラマンを夢見る男性、北多川悠(キタガワユウ)は彼女の江美と二人暮らしをしている。 ある日原因不明の病で北多川は視力を失う。 彼が辿る運命とは。 とある楽曲をベースに紡…
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#夕日

スケッチ⑬

スケッチ⑬

夕飯は、江美が作るベトナム料理だった。
一緒の部屋に住んで生活しているものの、仕事の時間帯がお互いに違うせいですれ違いが続き、テーブルを挟んで食事を共にするのは久しぶりな気がしていた。
自分自身でこんな風に物事に対して久しく感じるとき、江美も同じように感じていることが不思議と多い。
きっと、こうした団欒の機会をずっと静かに求めていたのだろう。
買ってきた野菜や肉をキッチンで調理をしながら、リビング

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スケッチ⑫

スケッチ⑫

枕元に投げ出していた携帯電話が、小刻みなバイブレーションと共に弾むようなピアノの音を奏でる。

ハイドンのアレグロ、ヘ長調。
携帯電話に登録している連絡先に俺は個別で音色を設定している。
この楽曲が鳴るという事は、、未登録の電話番号だ。
今は何時だろう。ねっとりとした眠りの余韻が思案を曇らせる。
ぼやけた頭を呼び起こす様に深呼吸で体中に酸素を巡らせる。
汗が染みこんだ昨日からのシャツの湿っぽい感触

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スケッチ⑪

スケッチ⑪

薬剤師の試験勉強をしていた頃から使っている古びたラップトップの画面に、薄暗い夜光に照らされた修平君の顔が映し出されている。
久々に観た彼の顔は痩せていて、顔全体に野暮ったい空気が巻きついているみたいだった。時間が経った事も影響しているのだろうけど、自分の記憶の中の修平くんの顔がどれだけ美化されていたのか驚かされた程だ。
USBに入っていた動画データの記録されていた日付は、修平くんが亡くなる数日前に

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スケッチ⑩

スケッチ⑩

その日の夜、俺は少し早めにVIVA OLAへ行き、珍しく店内のピアノを使ってシューマンのトロイメライを弾きながら東堂さんの到着を待っていた。
静かな店内からは空調の排気音や、テザがカウンターで作業をする音しか聴こえてこない。無観客ながら自宅とはまた違う環境で演奏するのは新鮮な気分だった。
一般的にピアノは一年に一度、調律すればさして問題ないとされているが、このピアノは半年に一回の頻度でメンテナンス

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スケッチ⑨

真っ白な空間。
均一な距離をとりながら複数の直線を縦に描く。
次に、それらを横線で結びつけ長方形を作り上げる。
幾つかの大きな箱が出来上がると、その中に小さな四角形を加える。
その作業を繰り返す。何度も。
先程まで白紙だった世界には幾つもの建築物が出来上がっている。
これらは(ビル)というイメージだ。
満員電車の様な狭い空間に窮屈そうに立ち並ぶビル。ビル。ビル。
その箱の中では毎日大小の起伏を伴っ

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スケッチ⑧

スケッチ⑧

神谷の葬式は親と一部の関係者だけの小さな物で済まされた。
家族構成なんてまじまじと聴いた事が無かったが、神谷の父は既に亡くなっており、唯一の肉親は母親だけだった。
他界した父親は都内で有名な食肉関係の会社経営者だったらしい。歌舞伎町の飲食街へ太いパイプがあった神谷の父は、若手事業者と手を組んだり、古くからその地で商いをする小料理屋へと肉を卸したりするなど手広い取引を展開しており、神谷自身もそんな父

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スケッチ⑦

入り口から一番離れたバーカウンターの席に腰をかけ、グラスに注がれたジンジャーエールに口をつける。乾いた喉へ強烈な生姜の香りを纏った波が気泡と共にぶつかってきて俺は思わず瞼を閉じる。パチパチと弾ける泡が鼻先を湿らせた。本当なら美味さ故に込み上げてくる雄叫びをここで一声あげたいものだが、ダムを塞き止める様に俺はその思案を口に抑え込む。ここは美味い時に勢いで雄叫びをあげるような店じゃない。
黙ってグラス

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スケッチ⑥

スケッチ⑥

修平くんに渡されたお金をタクシーの運転手に支払うと、降り止まない雨の中市内に佇む某アパートの前に私は降り立った。
自分の住む中心地から少し外れた場所にある目の前のアパートは、近隣の木造の民家と並ぶと幾分か近代的に見えるデザインだった。たぶん持ち主が捗々しくない入居状況を改善する為に、外装部分のみリフォームをしたのだろう。少し浮ついた印象が私には際立って見えた。
改めて修平君に渡されたメモを見る。女

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スケッチ②

玄関脇に置かれた青空を凝縮した様な薄い花瓶には定期的に入れ替えられた花が活けられている。
この花には一日の中で感じた瑣末なストレスを、玄関で一度リセットする目的の為だと江美がいつか話していた。
市内で薬剤師として働いている江美はそんな習慣のせいか仕事先での愚痴を家の中でこぼすことは無かった。
不安を抱え重苦しい息遣いの客もいるだろう。何かの拍子に心無い言葉が自分に向けられることだってきっとあったは

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