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スケッチ⑬

夕飯は、江美が作るベトナム料理だった。
一緒の部屋に住んで生活しているものの、仕事の時間帯がお互いに違うせいですれ違いが続き、テーブルを挟んで食事を共にするのは久しぶりな気がしていた。
自分自身でこんな風に物事に対して久しく感じるとき、江美も同じように感じていることが不思議と多い。
きっと、こうした団欒の機会をずっと静かに求めていたのだろう。
買ってきた野菜や肉をキッチンで調理をしながら、リビングの俺に向けて話しかける江美の声は、心なしかいつもより弾んでいるように聴こえた。

「そうそう、それでね、村木さんたら、ずっとその話ばっかりなの。私もう何回も聴いているからオチまで全部分かってるんだけど、、村木さんの楽しそうに話す顔見てたらなんだか無下にできなくてさぁ。」
江美の勤務している調剤薬局に通う村木さんは、ストレスや不安を感じやすいお婆さんらしく、体に小さな痛みを感じると頻繁に近所の病院を訪ねては処方された薬を服用しているらしい。
しかし、実際に体には殆ど異常は見られず、医者と世間話を交わしながら若い頃に痛めた関節の状態を申し訳程度に診察してもらうのが常だった。
村木さんには離れて暮らす息子さんが一人いる。
これはよくある話なのかもしれないが、加齢に伴い過剰に心配するうるさい家族と、それをよそに未だ現役とばかりに身の丈に合わない無茶をする当人。そういった親子間の感覚のズレが村木さんと息子さんの間にもあるようだ。(村木さんの場合は色々ともっと複雑らしい)
村木さんが江美と話す会話の内容の九割がそうした息子さんとの関係についてだった。
どうやら、今日も村木さんにその話をされたらしく、呆れるような声を作りながらも楽しそうに話す江美は、なんだかんだ言いながらも村木さんが好きなのだろうと思う。
「同じ話をね、いっつも初めてみたいに話すの。」
先に席についていた俺に向け、くすくすと笑いながら江美は俺の前に皿を置いた。
暖かな蒸気、香ばしい魚醤と豊かな香草の入り混じったエスニックな香りが俺の鼻を刺激する。
この部屋に越してきてすぐの頃、海外での撮影に憧れていた俺のために、江美は旅行した様な気分だけでも味わってほしいという考えから、本格的なベトナム料理を作ってくれた。
平打ちされた米粉麺と鶏出汁のスープ。割高な魚醤と割高なパクチー。
あちこち探して買い集めた馴染みのない食材達。
ネットのレシピを横目に戸惑いながら奮闘する江美の姿を、片付けのままならないキッチンが物語っていた。
夢ばかりでお金も時間もなかった俺に、江美がしてくれた小さな思いやりは何よりもありがたかったし、あまり多くを語らず寡黙に支える彼女の行動が、カメラマンとしての俺を一層奮い立たせてくれた。
東堂さんの写真集を眺めながら、俺はよく江美に向っていつかニューヨークで自由の女神を撮るなんて事を声高々に宣言していた。
そんな俺の冗談めいた無垢な気持ちを汲んでの行動だったのだろう。
地道にお金を貯めて、文字通り現地に赴くのがカメラマンとしての俺にとって一番いいことなのは勿論だ。
だけど、それが思うほど簡単じゃないことは誰より自分が一番よく分かっていた。
だからこそ、今の自分達の生活リズムから大きくかけ離れない程度の、等身大でそっと寄り添うような江美の優しさが当時の俺には温かかった。
この人がそばにいてくれてよかった。心からそう思えた。
芸術や、自己表現という不安定な舞台で生きる人間が背負う様々な物事。
カメラマンの恋人をもつということで、江美自身もパートナーとして世間の目に晒される中、そういった重圧を、誰かに諭されるでもなく江美は黙って理解し支えてくれた。
そんな江美を、俺は心から愛していた。
あの頃の思い出と現在への感謝を噛み締めながら、皿から上ってくる蒸気を吸い込む。
「うまそう。。」口をついて出る。
次の瞬間、俺の頭の中にはベトナムの活気ある屋台や、賑々しい商店街の光景が思い描かれる。
そんな喧騒が交差する町の、どこかの料理屋の趣のある朱色のテーブル。
俺はイメージの中で江美と共に店の席に着き、たちこめる熱波をかき回す天井の扇風機の音を聴いている。
こんな風に一緒に食事をとれる事が、嬉しい。
ふと、小さな疑問が頭をよぎった。
今、目の前に座る江美はどんな顔をしているのだろう。
テーブルを挟んで数センチの距離。
俺に向って、微笑んでくれているのだろうか。
目が見えていたあの頃みたいに、心から、笑えているのだろうか。
思い返せば、目が見えなくなってからピアノを演奏する今までの数年間、あっという間だった。
めまぐるしい日々の中、きちんとした感謝を伝えていたかも曖昧だった。
この数センチの距離の向こうで、江美は声こそ弾ませてはいるが、実際には濁った、どこか釈然としないような顔をしているのではないだろうか。
息子の話を繰り返す村木さんのように、本当は職場で俺との生活の不満を同僚の皆に漏らしているのではないだろうか。
変わらない大きな優しさに安心して胡坐をかいていた自分自身が急に怖くなる。
江美に微笑みかけようとした口元が自然と強張っていた。
目の前に腰掛けている江美の表情が読めないことが今、殊更辛かった。

【ねぇねぇ、どう?美味しい?大丈夫?辛くない?】
【大丈夫だって】

目が見えていた頃、料理を食べる俺に夢中で語りかける江美の、心配そうで、だけど子供みたいに微笑む顔が思い浮かんだ。
黙って思いつめていたら江美に気を揉ませてしまうだろう。
表情が見えない不安を打ち消すように、目の前の江美へ当時のそんな光景を投影しながら、俺は切り替える様に箸を手に取った。
皿に盛られた麺をすくい上げようとした、その時。
「あぁっ、悠くん、大丈夫?」
どうしてだろう。
普段なら問題なくつかめる麺を、とりこぼしてしまった。
粘度のあるソースを纏った麺がテーブルの上に落ちる音が静かな部屋に響く。
「あ、ご、ごめん。」
椅子を素早く立ち上がる音が聴こえ、江美が俺の隣に歩み寄る。
突然の事に理解が追いつかず、俺は動けないまま手元にそっと箸を置く。
手の甲に、江美の手が触れた。包み込む様な温かさを感じる。
まるで初めて食器を扱う子供みたいな自分の失態。
恥ずかしくなって俺は俯く。

「・・・・」

「どうしたの。」

吐息が感じられる程、顔の近くで江美の声が聴こえた。
静寂、呼吸。俺の手に重なる江美の指先。
目の前に広がる暗闇の中、俺の横顔を不安げに見つめる江美の表情を感じる。

「江美。」

「うん?」

「江美は今、どんな顔してる?」

「えっ。。」
俺の手に重なった江美の指先が少しだけ動いたのを感じる。

何故聴いてしまったのだろう。
脈絡の無い質問を口にしてしまってから俺は後悔する。
くだらない。と、思った。
互いの信頼関係を確かめ合うみたいな、薄っぺらな質問だ。
そんな事をしたって何も解決はしないし、意味のない行為だ。
分かってる。分かっていた。
だけど結局、俺は不安で仕様がなかったんだ。
江美が今、微笑んでいるのか、そうじゃないのか。
どうしようもない衝動だった。
俺自身が江美に対して真摯に向き合えてきたかどうかが結果に繋がる。
誰だって、何にだって同じ事だ。信頼とはそういうものじゃないのか。
それなのに、今更そんなことを聴いてどうする。
思いやりや感謝を怠っていただらしない自分が生んだ不安を、質問して身勝手に払拭したいだけじゃないのか。ダサすぎる。
共存すると決めた自分のハンディを都合よく言い訳にして、駄々をこねるみたいなくだらない確認作業をしないと安心できない自分が情けなかった。

「悠くん。。」
江美の呼びかける声にはっとして我に返る。

「ごめん、なんでもない。メシ、食べようか。」
自嘲するようにぎこちなく声をだした途端、背中に温もりを感じた。
体全体を包み込むように背後から江美に抱きしめられていた。
一瞬の出来事。
突然のことに俺は再び口をつぐむ。
長いような短い沈黙があった。
はっきりとは分からない曖昧な時間が過ぎる。
俺は、椅子に座ったまま抜殻のように全身の力を江美に預けた。
江美はしばらく何かを伝えようとするかのように抱きしめた両手に優しく力を込めたり、手のひらで幾度か俺の体をさすったりしていた。
部屋の中には色んな音が満ちているはずなのに、まるで俺と江美がこの時だけ世界から切り取られたみたいな無機質な静寂が感じられた。
耳元に聴こえる吐息と、心臓の鼓動音。
肌の温もりと、江美のお気に入りの柔軟剤の香り。
それが今、俺にとっての全てだった。
気付くと、俺の両手は背後から伸びる江美の小さな手に重ねられていた。
人差し指のあたりに絆創膏が貼られている。
料理の最中に怪我をしてしまったのだろうか。
そんな様子や素振りは聴こえてくる音や声からは微塵も想像できなかった。
柔らかで、張りのある江美の手は、俺の知らない所で沢山の物事を経験しているのだろう。
こうして彼女の手をとってはじめて、その繊細な変化に気付く。
思えば、互いの生活が昔の様に軌道にのってからは、余計に手を握ったりするコミュニケーションを忘れていた。
俺は、見えない治癒の波動を送るように彼女の手を優しく包み込んだ。
どれほどの時間そうしていたのか。
江美は首元に回していた手をゆっくりとほどくと、俺の両肩をさすりながら体を離した。

「料理、、冷めちゃったね。温めなおすからちょっと待ってて。」
たった今の出来事がまるで無かったかのように笑いながら江美は言った。
のぼせた様に黙ったままの俺をよそに、江美は素早く皿をもってキッチンへ向っていった。
先程まで感じていた江美の温もりを確かめるように、俺は片手で自分の肩をそっと撫でた。
江美は、俺からの質問には答えなかった。
答える意味が無かったのかもしれない。
彼女の中にある海原の様な優しさは、俺のちっぽけな不安を遥かに凌ぐほど大きかった。
まるで、心のうちを見透かされているような気持ちだった。
「表情」というありきたりな台詞から、江美は俺の胸の中に小さく芽を出した邪な感情を、何も言わずそっと摘み取ってくれた。
相手の顔が見えないという全盲であるが故の不憫さを、一番に理解して寄り添ってくれていると感じる。
お喋りな江美は、一言も話さずに揺ぎない何かを実証してみせた。
言葉はいらなかった。
そんなものなくたって。というくらいに。
途方もない温かさに胸が震える。
俺はこの人を手放しちゃいけない。なにがあっても。
瑣末な不安が芽生えない様に、もっと感謝を伝えて大切にしよう。
いつだって胸をはって、彼女を愛した自分を誇れるように生きよう。

「悠くーん」
扉の向こう、キッチンの方から呼ぶ声が聴こえる。
「ルイボスティーとジャスミンティー、どっちにする?」

俺は席を立った。

「江美、ちょっと自分でやってみたい。淹れ方教えてくれよ。」

ドアの向こうで驚いた声をあげる彼女を今度はこちらから抱きしめてあげよう。
俺達の関係に余計な言葉はいらない。






自費出版の経費などを考えています。