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病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈34〉

 オトン少年の死は、パヌルー神父の内面に対しても確かな影響を与える出来事となった。
 少年の死が確認された直後、それに引き続いて交わされた対話があって、またさらにしばらく経ったある日、彼は自身が現在執筆しているという一つの論文についてリウーに語った。そのテーマを相手が尋ねると、それは「司祭が医師に診察を受けることの是非について」だというように、少し冗談めかしてパヌルーは答えるのだった。
 パヌルーが言う、この「司祭が医師に診察を受けることは是か非か」というテーゼは、「医師が神を信じるとしたら、治療を止めて全てを神に任せてしまうことになるだろう」と主張するリウーのテーゼに、あたかも正面から対応しているかのようである。はたしてパヌルーが、そのようなリウーの思想を知っていたのかどうかはわからない。しかし、その後のパヌルーの身に起こることは、結果としてこのリウーの考えに対する痛烈な回答に、図らずもなってしまっていたのであった。

 オラン市民を集めて開催された二度目の説教会冒頭、パヌルー神父は前回用いていた「あなたたち」という聴衆への呼びかけではなく、「私たち」という言い方に変えていたのだった。それは、「自分の語る言葉は、自分自身に対して向けているものでもあるのだ」という意思の表明でもあり、考えようではまさにカミュの思想の根幹でもある「連帯」の意志表明だとも受け取れるものであった。
 そのことを誰にも分かるような形で明らかにしたのが、リウーではなくてパヌルーの方であったということは、この作品において何がしかの大きな意味が生じているようにも思えるところである。

 パヌルー神父は、「ペストのもたらした光景を解釈しようとしてはならぬ、ただそこから学びうるものを学びとろうと努めるべきである」と聴衆に訴えた。それは、このところオラン市民に広く信じられつつあった、ノストラダムスや聖女オディールなどの予言、つまりいかにも分かりやすく受け入れやすい、このペスト禍に対する「解釈と抽象」に対する批判なのでもあった。
 そして彼はオトン少年の死を念頭に、「子供の苦しみは苦いパンであるが、このパンなくしてはわれわれの魂は精神の飢えのために死滅するだろう。子供の苦しみは精神にとって屈辱的なことである。しかしわれわれはその中に入っていかなければならない。われわれに差し出された、その受け入れ難いものに食らいついていかなければ、その聞き取り難い声による神のメッセージを聞くことは叶わない」と人々に説いた。
 さらに続けて神父はこのように言う。私たちは踏みとどまる者とならなければならない、全てを信ずるか、あるい全てを否定するか。神への愛は困難な愛だ、それは自我の放棄を前提とする。しかしこの愛のみが、子供の苦しみと死を消し去ることができる。最も残酷な試練も、キリスト者にとってはなおかつ利益であり、キリスト者としてこのペスト禍から探求すべきは、それをいかにして見出しうるかなのである。

 この演説を会場で聞いていたリウーには、パヌルーの思想がもはや、キリスト教的観点において異端スレスレのものであるようにも思われた。そして彼は、自身の感想を裏付けるような内容の、パヌルーの同僚司祭らが交わす会話を小耳に挟む。彼らは、リウーも聞かされていたパヌルーが現在執筆している論文の、その主題について話し合っていたのであった。
 それによれば、パヌルーは論文を「司祭が医師の診察を受けることには矛盾がある」というように結論づける予定であるようだった。それは、その先日にパヌルー自身がリウーに対して語っていた構想の、その是非についての結論ともなっているものであり、なおかつリウー常々考え主張する思想に対して、暗に回答するところにもまたなっているわけなのであった。

 パヌルーがこのように自身の説教の中において語る「自己放棄」の思想について、中条省平は「ほとんど自己懲罰的な、道徳的あるいは宗教的マゾヒズムともいえるような倒錯的な主張」(※1)と解説しているが、それはまた、吉本隆明が「自己抹殺の理念の方が、自然死の理念よりも価値があるものとするような思想、それは本当の悲劇であり、本当に根拠のある病気だ」(※2)と評していた、シモーヌ・ヴェイユの思想をも思わせる主張となっている。カミュはヴェイユに対して、主に労働問題に絡めた方向から関心を寄せていたのだったが、このように、信仰をめぐる角度においても、一つの結びつきが生じていたわけだ。
 神を信じ愛するために、自己を放棄し抹消することさえ厭わない、倒錯的な病。その意味でパヌルーもまたたしかに「本当の病人」なのであった。神を無いものとする思考が病であるとするならば、徹底的に神を信じることもまた病となるわけである。

 説教会から戻ったリウーは、パヌルー神父の語った言葉をタルーに話して聞かせた。するとタルーは、「パヌルーの考えは全く正しい」と応じ、「不条理な出来事」に遭遇し信仰を失った或る司祭の話を挟みながら、パヌルーは自らの信仰を守り貫くために、おそらく彼自身として行けるところまで行こうとしているのだ、ともリウーに対して語るのだった。
 パヌルーの、極論ともいえる言葉の意味を即座に理解し、それに共感をさえ示すタルー。後にわかるように、彼もまた、深刻なまでに本当の病人なのであった。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 中条省平「100分de名著・カミュ『ペスト』」
※2 吉本隆明「甦えるヴェイユ」

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