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大谷弘 『道徳的に考えるとはどういうことか』 : 文学的には 「普通」はそう考える。

書評:大谷弘道徳的に考えるとはどういうことか』(ちくま新書)

本書がどういう内容の本かというと、それはまさにタイトルどおりで、「道徳的に考えるとはどういうことか」ということを、現実に即して考えようとしたものである。

つまり、どこかに「道徳」という規範的な「正解」のようなものがあって、それに沿って(規則的に)考えるのが「道徳的に考える」ということなのではない、「そんな単純なことではない」し「そんなことで済まされるほど薄っぺらい話(問題)ではない」というようなことを、哲学研究者である著者が、「非主流派倫理学」の立場から語ったのが、本書なのだ。
なお、言うまでもないことだが、「倫理学」は、主流派であろうとなかろうと、「哲学」の一種である。

で、私の感想はというと、「至極ごもっとも」という感じである。要は、日頃から私自身がやっていることを、本書著者によって「それでいいんです。自信を持ってください」と言われたようなものなのである。
だから、皮肉でも何でもなく「至極ごもっとも」な内容だと思うし、その反面、もっと「想像だにしなかったこと」を語って欲しかったという気分もないではない。「私ごときが考えていたことを、それでいいのだ」と言われても、「嬉しいような嬉しくないような」と、そんな気分にもなったのだ。

著者が本書で語っていることの肝は、「はじめに」の、「ごちゃごちゃした活動としての道徳的思考」という見出しのついた部分の、次の言葉に尽くされている。

『 私が提示したいイメージは、道徳的思考を価値観の押しつけや規則の適用といったシンプルな活動ではなく、多様な要素を含む、もっとごちゃごちゃした活動として捉えるものである。すなわち、私のイメージでは、道徳的思考とは他者の苦しみや観点を理解しょうと努め、不正に憤るとともに、想像力を用いた考察により自他の物の見方を問い直していく活動である。それは理性、感情、想像力といった自己の能力を総動員する活動なのだ。』(P15)

ここで、特にポイントとなるのは『理性、感情、想像力』という言葉だ。

つまり、「道徳的に考える」には、「理性」が必要だというのは、誰にでもわかることだが、では「それだけでいいのか?」という話であり、もちろん著者は、そうではない、と言いたいのだ。

一般には「理性(的に考えること)」とは、相反するものと(ストイックに)考えられがちな「感情」や「想像力」というものが、「道徳的に考える」ということにおいて、いかに重要な役目を果たしているのか、それが無くては「道徳的に考える」ということが如何に不可能なのか、ということを、本書は語っているのである。

そしてさらに言えば、著者は、「道徳的に考える」ためには、「感情や想像力も」必要だというような、消極的な語り方はしていない。
「理性」的判断の「添え物」あるいは「補助装置」としての「感情や想像力」ではなく、「理性と共に、理性と連動する、道徳的思考の主たる構成要素」として「感情や想像力」などを「理性」と対等なものとして位置づけている。

例えば「理性的な判断が不可能な(あるいは、間に合わない)際になされる、感情に基づく判断は、時に、それのみで道徳的である」といったような具合である。
つまり、「感情や想像力」が、「理性的判断」に「参考となるもの」を提供するといった「従属的立場」なのではなく、人間の「道徳的思考」とは「三者が絡み合って連動するもの」である、という考え方なのだ。

だから、「理性的に、堅実に突き詰めていく」という「学問的正統」とは立場を異にするだけではなく、しばしばそれに対して「それは、現実的ではない」という批判を向けもする。
「そんな、学問のための学問みたいな、無難だけが取り柄のようなものでは、道徳的な思考ということの現実には、いつまで経っても到達することなとできないだろうし、現実的でもない」という、根本的な懐疑に発する批判を差し向けているのである。

で、私たちは、こういうのを見ると、つい「安直な、所詮は哲学的邪道なんじゃないの、それ?」と思いがちだけれども、著者としては「道徳的に考える」ということは、言うまでもなく「学問的であること」以前から存在するものであり、「学問的である」ということは、所詮そのための「ひとつの方法論」であって、「それしかあり得ない」という話ではない、というような立場のようだ。

だから、「道徳的に考えるとはどういうことか」「倫理的であるとはどういうことか」といったことを考え、それを表現する場合に、「厳格な学術論文」形式でなければ「それができない」とは考えず、例えば「文学」であるとか「ポピュラー音楽」ですら、それは可能だし、時にその方が「効果的」な場合だってあると、そう説くのだ。
もちろん、「文学」形式や「ポピュラー音楽」形式の、すべての作品がそうだというのではなく、そうした表現形式の方が、より現実に沿った「道徳的思考の表現」たり得る場合があるし、ならば、そうしたものを、頭から否定すべきではないと、そんな立場なのである。

したがって、もともと「文学派」である私としては、「そんなこと、前からやっていたよ。ただ、専門哲学的な立場からは、軽く見られては来たけどね」という話にもなるのである。

本書の具体的な内容は、次のようなものだ。

それは、「価値観の押しつけ」ではない。

思考とは、理性、感情、想像力を総動員する活動だ。
その多様で奥深い内実に迫る哲学的探究!


その考えは正しいか正しくないか、あるいはそれをすべきか否か――。私たちは日々、様々な道徳的判断を迫られ、あるときは自然に、また別のときには悩みに悩んで結論を下す。こうした判断はしばしば、自分たちの外部にある絶対的な規準を個別の現実に当てはめるものとして思い描かれる。だが、そんなふうにすべてを一刀両断してくれるような規準などありうるだろうか。「道徳的に考える」とはそのように機械的な営みなのだろうか。本書では、「非主流派倫理学」の立場からプラトンウィトゲンシュタイン一ノ瀬正樹槇原敬之らの諸実践を取り上げることで、道徳的に考えることの本当の意味を浮き彫りにする。

【目次】  
はじめに
第1章 当たり前を問い直す――なぜ法律に従うべきなのか
第2章 想像力を働かす――プラトンの『クリトン』を読む
第3章 意味の秩序を現出させる―想像力と言語ゲーム
第4章 動物たちの叫びに応答する―応用倫理学における想像力
第5章 感情を信頼する――道徳的思考と感情
第6章 多様なスタイルで思考する――槇原敬之の倫理学
おわりに/読書案内/あとがき/参考文献  』

Amazon・本書紹介ページより)

『それは、「価値観の押しつけ」ではない。』の『それ』とは、無論「道徳的に考えること」を指している。

「道徳的に考えるということは、あらかじめ存在する、ひとつの〈価値観〉としての、道徳規範的なものの押しつけではない。
このように考えなきゃダメだ的なもの、そんな規範的なものではないし、言い換えれば、このパターンで考えれば、それですべてOKみたいな、安直なものではない」一一ということなのである。

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私の立場から、この「道徳的思考とは、理性、感情、想像力を総動員する活動だ」ということの意味を、具体的に説明してみよう。

例えば、ある「小説」を読んで、「(主人公の言動を通して)なにやらご立派なことが語られているが、どうもしっくり来ないな」というようなことを「感じた」際に作動するのが、いや、作動させなければならないのが、「思考」であり「道徳的思考」でもあろう。

というのも、「しっくり来ない」と「感じている」ことを、そのまま放置することは、もしかすると「誤りに半ば気づいていながら、その突き詰めを放棄すること」かもしれないし、そうだとすれば、それは「無責任」な行いということになるからである。

例えば、「すべての人を愛いそう」「争いごとは良くない」とかいった、一見したところ、きわめて「道徳的」であり「倫理的」であり、「どこにも問題のなさそう」な言い分であった場合、「頭では」つまり「理性的には」、その意見は「正しい」ように思えるのだけれども、しかし、どこかで引っ掛かる部分があって「しっくり来ない」と、そう感じだとする。一一これは、この段階では、「感情」的(非論理的)な印象でしかないのだけれども、しかしそれが「感情的なもの」だからと言って、無視して良いのかと言えば、少なくとも「文学」においては、そうではない。

「文学」は「理屈ではない」のだ。「理屈」が無用だというのではなく、「その程度の理屈(形式論理的な思考)」は「自明の前提」でしかなく、「文学」は「もっと深いところ」まで考え、それを描き、文学読者は、それを受け取るべきものなのである。

言うなれば、「文学」においては、書く方も、読む方も、「字面」だけではダメだ、ということなのだ。

だから、「文学」においては、「これはもっともらしい理屈(描写)だけど、どこか引っ掛かる」という「感情」や「直観」を、決して軽んじてはならない。

「悪人が倒されて、正義が勝ったのだから、万々歳じゃないか」と、頭ではそう理解しつつも、どこか「安直だ」、あるいは「嘘っぽい」という印象があり、「作者は、本気でこう考えているのだろうか?」などと引っかかってしまう時、読者は、その「感情」を、決して手放してはならない。その「違和感」が何なのかを、考えなければならない。

そして、その「正体」を暴こうとする際に必要なのが、「想像力」である。
そこに書かれていること以上のことを、「深く読み込む」とは、要は「想像力を働かせる」ということなのだ。

例えば「作者は、こんな綺麗事を書いているけど、本音は真逆でなのではないか」とか「要は、こういう単純な勧善懲悪の方が、俗ウケしやすいと考えて、心にもないことを書いているのではないか」などと想像し、それを「想像」だけで済ませるのではなく、「理性」による「作品分析」によって、最初の「違和感(という感情)」の「根拠を取り出して見せる」のである(それが、文学的読解であり、文章化すれば、文芸評論となる。無論、映画評論でもマンガ評論でも同じこと)。

つまり、「ここには、こう書かれているんだから、こうでしょう」みたいな、「形式論理」的な理解、つまり「単純かつ浅薄な、理性的理解」で済ませるのではなく、もっと「感情・感覚」的なものを研ぎ澄ませて対象と対峙し、向き合うことが必要だし、そのことによって「感じ取られたもの」の意味を、「想像力」を働かせながら「理性」的に解き明かす、というのが、本当の意味での「誠実な思考」であり、その一種が「道徳的な思考=道徳的に考える」ということなのだ。また、それこそが「文学的読解」でもあるのだ。

例えば、「ユダヤ人を見つけたら通報せよ」という「法律」について、

「法律に従うのは、当然のこと。国民の義務である。なぜなら、みんなが自分勝手な価値観で、法律に従ったり従わなかったりしたら、社会はむちゃくちゃになってしまうから、ひとまず、その社会の成員であるかぎりは、その法律を尊重し、その法律に従わなければならない。それが道徳的な態度というものだ。だから、その法律に違和感を感じるとか、ユダヤ人が可哀想とか、そんなことは、社会的な決まり事(約束)の前には、二の次なのだ」

といった考え方を、私たちは「不誠実な思考」だと考えるべきなのである。

人間が「誠実な思考=道徳的に考える」ためには、「ある種の感情」や「ある種の想像力」は、必要なものであり、「二の次」にして良いものではない。

言うまでもなくこれは、「感情的であれば良い」「想像を働かせるだけで良い」という話でもない。

人間には「理性」があって、「その感情は正しいのか?」「その想像は適切なのか?」ということを「理性的に検討」しなければならない。
つまり、「感情」や「想像力」を暴走させるだけではダメだし、そんなものに止まっていては、それは、「道徳的に考える」ことに寄与する「感情」でもなければ「想像力」でもない、ということになる。

つまり、「道徳的に考える=誠実に思考する」ためには、「理性」だけではなく、「感情」だけではなく、「想像力」だけではなく、全部が必要であり、それが一体のものとして補い合う関係になければならないし、また事実そういうものなのだ。それらは、バラバラに存在するものではないのである。

そのことを本書著者は『多様な要素を含む、もっとごちゃごちゃした活動』という言葉で表現していたのだ。



(2024年7月29日)

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