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本能寺の変1852 その一因 一、光秀の年齢 そ第7話 240711 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 一、光秀の年齢 そ第7話 240711 

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*加筆修正 240711 

その一因 一、光秀の年齢 そ第7話

  【参照】テーマ別 光秀の年齢 テ第7話
  【参照】4 光秀の苦悩 1嫡男光慶 ◎第7話  ◎小7

 光秀は、大きな悩みを抱えていた。

 1己の年齢。
  そして、老い。
  人生の終末について、考えねばならぬ時期。
  光秀は、体力に不安を感じていた。

 2光秀は、かつて、大病を患ったことがあった。
  
今から、六年前。
  天正四年1576、五月。
  大坂攻めの真っ最中であった。 
  あいにく、梅雨の季節。
  激戦がつづいた。
  長陣である。
  その陣中で。
  劣悪な環境。
  疲労の蓄積。 
  光秀は、倒れた。

  光秀は、生死の境を彷徨(さまよ)った。
  これまでの人生で、最大の危機であった。 
  しかし、名医曲直瀬(まなせ)道三の懸命な治療と、妻の献身的な看病に
  より、奇跡的に持ち直した。
 
  この時の体験から、
  光秀は、体力面について、多少なりとも、不安を感じていたのではなか
  ろうか。
  そう、永くは、生きられぬ、と、思っていたのかもしれない。

  おそらく、それ程、頑強な肉体の持ち主ではなかったのだろう。
  年齢の問題に、このことが重なった。

 3「世代交代」
  光秀は、明智の当主。
  そこには、避けては通れぬ問題があった。
  「世代交代」、である。

  すなわち、後継者に関すること。
  明智氏の存続に直結する大問題。 
  これが、また、難しい。

  光秀の後継者は、光慶である。
  天正十年五月二十七日。
  「愛宕百韻」の中に、嫡男光慶(みつよし)の名がある。  

  発句 ここから、始まる。
  時は今、あめが下なる五月哉、     光秀
  結句 ここで、終わる。
  国々は、猶、長閑(のどか)なる時、    光慶
                          (「続群書類従」)

  この時、光慶は、まだ13歳だった。
  今風に言えば、12歳。
  小学6年生である。
  まだ、若い。
  否、若すぎた。

  しかも、相手は、あの信長。
  光秀に、残された時間は、あまりにも少ない。
  
「取るべき道は」、・・・・・。 
  光秀は、いよいよ、追い込まれていく。

 以上1~3、これらが、複雑に絡み合い、「本能寺の変」の一因となる。



 ⇒ 次へつづく

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 「本能寺の変」
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