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本能寺の変1582 【重史50】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史050】 『信長公記』 

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 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
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【人物】 
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【重史049】中将信忠御自身、御道具を持たせられ、先を ← 

【重史050】 ◎第6話

①仁科五郎が頸、信長公へもたせ、御進上候。

②東国・西国の誉を取られ、信長の御代を御相続、

③代々の御名誉、後胤の亀鏡に備へらるべきものなり。

                       『信長公記』

 同日(天正十年三月二日)
 信忠は、わずか一日で高遠城を攻略した。
 以下は、落城の様子である。
 
  歴々の上﨟・子供、一々に、引き寄せ引き寄せ差し殺し、
  切つて出で、働く事、申すに及ばず。
 
  爰(ここ)に、諏訪勝右衛門女房、刀を抜き、切つて廻り、
  比類なき働き、前代未聞の次第なり。
 
  又、十五、六のうつく(美)しき若衆一人、
  弓を持ち、台所のつまりにて、余多射倒し、矢数射尽し、
  後には、刀を抜き、切つてまはり、討死。
 
  手負・死人、上を下へと員(数)を知らず。
 
 これが、武田最後の戦いになった。
 組織的抵抗の終わりである。
 すなわち、織田の大勝利。
 そして、武田は滅亡へ。
 となれば、
 「信忠が武田を滅ぼした」と、いうことになる。
 これこそが、信長の思い描いていた構図。
 事は、その通りに進んでいた。
 
  討捕る頸の注文。
 
  仁科五郎、
 
  原隼人・春日河内守・渡辺金大夫・畑野源左衛門・飛志越後守・
  神林十兵衛・今福又左衛門・
  小山田備中守(是は仁科五郎脇大将にて候なり )・小山田大学・
  小幡因幡守・小幡五郎兵衛・小幡清左衛門・諏訪勝右衛門・
  飯島民部丞・飯島小太郎・今福筑前守。
 
  以上、頸数、四百余あり。
 
 仁科信盛の首。
 信盛は、武田信玄の五男。
 勝頼の弟である。
 享年、26。

 信忠は、直ちに、これを信長へ。 →◎第65話「ろくの渡りにて御覧じ」
 
  仁科五郎が頸、信長公へもたせ、御進上候。
 
 信忠は、この戦いで、大きな手柄を上げた。
 信長の後継者として、申し分のない人物だった。
 
  今度、三位中将信忠卿、嶮難・節所をこさせられ、
  東国に於いて強物(つわもの)と、其の隠れなき武田四郎に打ち向かひ、
  名城の高遠の城、
  鹿目(かなめ=要所)と、究竟(くっきょう)の侍ども入れおき、
  相拘へ侯を、一旦に乗り入れ、攻め破り、
 
 信忠は 東西の戦場に、幾度も出陣し、実戦経験を積み重ね、
 逞しい戦国武将に成長していた。
 
  東国・西国の誉を取られ、
 
 信長は、これに満足していた。
 信長にとって、信忠は、心強い存在だった。
 「おらばこそ」
 先へ進むことが出来た。
 
  信長の御代を御相続、
 
 太田牛一がその証人である。
 理想的な後継者だったのだろう。
 牛一は、「後代の手本・模範である」、と言っている。
 世間の誰もが、その様に見ていた。
 
  代々の御名誉、後胤の亀鏡に備へらるべきものなり。
                          (『信長公記』)


 【引用】◎第6話



 ⇒ 次へつづく


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