本能寺の変1582 重要 ◎第65話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
重要 ◎第65話
信長の甲斐侵攻 3信長、出陣 1/3
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*以下は、重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。
*加筆修正
【シリーズ】信長の甲斐侵攻
◎信長は、安土を発った。
天正十年1582、三月五日。
この日は、柏原成菩提院(じょうぼだいいん)泊。
安土から凡そ九里 36km 。
三月五日、信長公、隣国の御人数を召し列れられ、御動座。
其の日、江州の内、柏原上菩提院に御泊り、
(『信長公記』)
◎近衛前久も、京から出陣した。
こちらには、佐和山に「御滞留」とある。
五日、癸亥(みずのとい)、天晴、
未明、右府(信長)御出馬、佐和山に至り御滞留と云々、
近衛殿、御出陣、
◎吉田兼見は、粟田口で前久を見送った。
息兼治も、同道した。
粟田口に至り、罷り出で、御礼を申す、
侍従、同然、
◎光秀は、大勢の兵を率いて参陣した。
「路地中、数千騎」、とある。
かなりの数である。
来たる中国大遠征への、演習を兼ねるものなのだろう。
長期間になることが予想された。
盛方院(吉田浄勝)、安土より、上洛の次、来たる、
今朝、御出馬、治定なり、
路地中、数千騎、
惟任向州、多人数の由、申しおわんぬ、
武具を対(帯)す、と云々、
(「兼見卿記」)
◎兼見は、別本も残している。
天正十年、正月から六月にかけて。
すなわち、本能寺の変に関する部分について、である。
その内容も、微妙に違う。
何故、だろうか。
比較されたい。
五日、癸亥、天晴、
御家門、御発足の間、路地、粟田口辺へ罷り出で、相待つ、
侍従、同然、
即ち、御下向なり、
御礼申し入れおわんぬ、
盛方院浄勝、安土より、罷り上り、
直ぐに来りて、云く、
今朝、信長、佐和山に至り、御進発なり、
路地中、出陣の人数、安土に至り相続くの由、これを語り、
日向守、殊更(ことさら)、人数多く、奇麗の由、これを語り、
帰京しおわんぬ、
(「兼見卿記」別本)
◎信長は、仁科信盛の首を検分した。
三月六日。
岐阜へ向かう途中。
呂久の渡しにて。
「首実検」
高遠城が落ちたのは、三日前のこと。
翌日、仁科五郎が頸(くび)もたせ参り侯を、ろくの渡りにて御覧じ、
◎信長は、岐阜城に着いた。
柏原・岐阜間、凡そ十里40km。
信盛の首は、長良川の河原に晒された。
岐阜へ持たせられ、長良の河原に懸けおかれ、上下見物仕り侯。
同七日。
岐阜に逗留。
無情の雨が降る。
七日、雨降り、岐阜に御逗留。
(『信長公記』)
◎光秀の心は、鬱々としていた。
何を考えていたのだろうか。
光秀にとって、美濃は故郷。
久方振りの帰郷であった。
昔日のことを思い起こしていたのかもしれない。
なれど、・・・・・。
光秀の心は、重く沈んでいた。
鬱々とした日々がつづく。
⇒ 次へつづく
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