【保存版】学力向上なんてウソ!元教員が宿題をぶったぎる

宿題をしたことはないという人はいないと思いますが宿題って必要ですか。

大きな声では言えませんが、ぼくは教員をしていたのに学生時代ほとんど宿題をしたことがありませんでした。なので、教え子に「宿題をやってこい」ということもありませんでした。

ここでいう宿題とは学校内で行なう授業以外に家庭でドリル学習などをすることで、十分にとった学習時間内に終わらせられなかったものや家庭で調べてくる必要のある「課題」とは別です。
それらも広義の宿題に含まれると思うのですが、ぼくは相手が小学校低学年だろうと、そういうものは「課題」だと伝えてきました。


学校の一部の教職員の中には

宿題はやって当たり前のものだ

という雰囲気があります。


そして宿題を出す理由として

家庭での学習習慣を身に着けさせるため

という大義名分があるのですが、

正直に言います

家庭での学習習慣を身に着けさせる役割をなぜ学校が負わなければならないのでしょうか。

多少は責任を負うべきだと思いますが、

一部の保護者からは

子どもが家庭で学習をしないのは宿題を出していないから

というトンデモ発言が聞こえてくる場合もあります。

正直言って

あなたの子の面倒はあなたで見てください

と言いたくなります。


そんな家庭でも

宿題と称してプリントかドリル1枚を宿題と子どもに課せば大抵何も言ってきません

つまり宿題の中身が重要なのではなく、

宿題を出す

ということが学校に求められていて、宿題が出されていることによって家庭では子どもが家庭で学習をしているという安心感につながっているのです。


これって意味ありますか?


さらに学校の宿題は子どもの能力に関わらず出される課題が同じです。

くそ忙しい時間の間を縫って宿題を印刷しているのに子どもに合わせた宿題を教員が用意するのは大変厳しいものがあります。

例えば小学校3年生の子どもたちに「掛け算九九の範囲内で解けるわり算50問」を出したとします。

これは家庭での学習や公文、塾などでわり算ができる子(理解しているとは言っていない)掛け算九九がすぐ言える子であれば、1~2分以内に終わってしまいます。

しかし、現在の小学校は私たち大人が思っている以上に学力差が激しく、同じ問題を10~15分かけないと終わらない子も多く存在しています。

掛け算九九については、学校の指導よりは家庭でどれだけ学習支援をしているかのほうが重要です。

小学校2年生の算数ではかけ算九九の計算はどうすれば解を導き出せるかという考え方を学ぶ場であり、かけ算九九の暗唱をする場ではないからです。

たびたびネット上で話題になる

かけ算の式

2×3 でも 3×2 でも数学的には同じなんだからどっちでもいいだろ問題がありますが、答えは同じでも考え方が違うんです。この考え方を学ぶのが学校なので暗唱に力を入れているわけではないのです。

かけ算の順番問題についてはぼくなりに意見があるので近い内にnoteに書きます。

話を戻しますが子どもによって宿題が終わるまでの時間にものすごく差がついてしまっているのが小学校の現状なので全員一律の宿題は意味を成さないと考えます。

たまにテレビで紹介されている自学の宿題ノート。

自分の興味あることに対して調べてそれをノートに書いて提出するというものが紹介されることはありますが、あれは非常に有用だと思います。

しかし、全員が必ず興味のあることを見つけ出しそれについてノートにまとめて提出するのは非常にハードルが高い。そこに行きつくまでの子どもたちの努力を考えてしまいます。一度習慣化してしまえばいいんでしょうけど。

もう1つ

宿題を出さないとクレームが来ます

前に成績のことを書いた時のように

学校は家庭からの物言いに非常に敏感な組織なのです。


学年に2クラスあったとして

A組は毎日宿題が出る

B組は毎日宿題が出ない

これは両方のクラスにクレームが来ます。

すなわち

なぜA組は毎日宿題があるんだ。B組と同じにしてくれ。

なぜB組は毎日宿題がないんだ。A組と同じにしてくれ。

です。

そのため、学校内もしくは学年間で宿題を出すことを共通認識として求められます。


教員によって教え方にも差があるし子どもの理解度も異なるのにです。


はっきり言いましょう

宿題をしても頭はよくなりません

なぜなら頭をよくするような宿題を出していないからです。

本当に学力をアップさせたいと考え、そのような宿題を作成して出したら逆に寝るまでに宿題が終わらず、親も答えられずに翌日学校に電話がかかってくることは必至です。


ぼくの実体験なのですが、小学校2年生の国語を指導していた時に作文の指導がありました。たっぷり指導時間を設けたのですが作文指導は個人差が激しいのと1人1人の作文をチェックする必要があるため、ある程度の時間で指導を終えました。全員が作文を書き終えるまで国語の時間を作文に割いてしまうと年度内に指導内容が終わらないからです。作文が終わらない子は家庭での課題として数日の猶予を与えていたのですが、ある朝保護者から電話がかかってまいりまして

小学校2年生に対して内容が難しすぎる。うちの子どもは夜遅くまで取りかかっていたけれども完成できなかった。今朝は起きられないので欠席する。

という電話を受けました。

ほんとうに困ります。


それからのぼくはクラスの子どもたちに対して

宿題を出さないといろいろ問題があるので君たちに宿題は出すけれども、やりたくなかったらやらなくていい。その代わり「うちは宿題はやりません」とお家の人から連絡帳に書いてもらってきて。

というようになりました。

習い事をしていない子はいいんだけれども、塾やスポーツクラブなどで週5。ぼくが受け持った子どもの最高で週8で習い事をしている子どもに対してほとんど意味のない宿題に時間を割かせるのはかえってその子の成長を抑制してしまう気がします。

むしろ習い事を頑張って一芸に秀でた人物になってくれたほうがいいと思うんですよね。

日本の学校は全員一律でないといけない病

という、個性を尊重しましょうというと言っているけれども子どもに対して求めているものは全く真逆です。

むしろ世の家庭には

うちは課題はやりますが宿題はやりません

といえるくらいの意思をもって子どもの成長を見守ってほしいです。


今でも多くの先生が宿題をやっているかどうかを成績に反映させています。

しかし、宿題という学校外の活動に対して学校での成績を付けるという矛盾した行為をしていることに多くの教師は気づいていません。なぜなら彼らは自身が学生の頃には必ず宿題をやっていた人物が多いため、その点に気が付いていないからです。

惰性で出された宿題って本当に意味ありますか?

まとめ

・宿題は家庭での学習習慣を身に着けさせるという名分
・家庭が宿題を望んでいる
・宿題の中身は実は意味がない
・宿題を出すのは学内の調和維持のため
・宿題よりも習い事をして一芸に秀でたほうがいい

最後にここまで読んでも宿題を望んでいる家庭の人へ

宿題のチェックは家庭でしましょうね。家庭学習の責任は家庭にもありますよ。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?