【小説・1話】🧚♂️シュレディンガー家の奇喜劇👺 波乱万丈な家族愛ミステリー
「あなたのお父さんが他界されました。この後の葬儀や埋葬を進め方は、あなたに一任します。タイの豪大使より。」
ある日突然、有輝の元にメールが届いた。
「え? 何これ……」と有輝は戸惑う。
⚡️時は有輝の出生に遡る⚡️
シュレディンガー・エリザベス・有輝を身籠っている母の真宙は、数日前に、オーストラリアのシドニーにある病院に入院した。産科病棟の壁は、空のように温かい水色に柔らかい筆使いの羊と幼児が描かれているなんともアットホームな雰囲気。
父のピーターはスーツのまま仕事から駆けつけ、破水前から真宙の傍でアタフタサポートを試みている。そして、何度も何度も落ち着き払った妻の真宙に、「落ち着こう!」と掛け声をかけた。汗ばんだ額をした真宙は、スッピン。その長くシルクのように芯の通った真っ直ぐな黒髪は、院内売店に売っているポシュポシュの薄く透き通った金レースの髪留めで軽くポニーテールにしてある。そして、真宙の隣でベッド脇を何度も行ったりきたりして慌てる様子が滲み出しながらも、落ち着いているかのように装おうとするのが夫のピーター。真宙は温かい笑顔でピーターを見つめている。普段はキリリと上がっている真宙の目尻も、この日は温かくとろけるように優しい。その目は、上がった口角と一緒に「幸せの象徴」という表情を描き出している。
ピーターは金に近い茶髪の猫っ毛を七三分けにして、ポマードでくせ毛を固めている。ソバカスが周囲に散りばめられた鼻の下の真っ赤な唇の上の空間は、英国紳士が床屋に通い詰めて整えたような、絵に描いたような金がかった栗色の髭に覆われている。頬から顎にかけた赤白い顔面皮膚にも、金栗色の熊のように密集した毛が生えつつも、一本一本の毛が不思議と揃っている。長さや形も盆栽のように整えられた髭が洋画のような面を和と融合して形作っている。普段は様々なグラデーションのグレーや黒のスーツを纏って、ハキハキしたキレのある口調にも温かみを含ませて喋るピーター。国防省で出世コースを順調に駆け上がる愛国心と頭脳の鋭さや柔軟な思考が青白に瞳と表情に滲み出ている。しかし、第一子の誕生を前に、ピーターは普段の鋭敏さを冬眠させ、始めて父親になろうとする歓喜と慌てようのギャップが可愛いテディー・ベアのような面持ちへと変貌した。
ピーターが我が子に強い想いを寄せていた背景には、彼の両親との関係も影響している。7人兄弟の4人目に生まれたピーター。彼の母親アンは様々な腫瘍の治療で、彼が幼い頃から入退院を繰り返し、ピーターと共に過ごした時間は少なかった。しかし、短時間とはいえ、目一杯の愛情を注ぎ込んだアンはピーターを根明で社交的にした。そして、7人全員が母の趣味の読書をこよなく愛す人生を歩む。
さらに、ピーターは小児期の大半を父親と接触せずに育った。ピーターの父エドワードは、アンの3種類目の原発腫瘍であった脳腫瘍を根治を目指して摘出し放射線治療と抗がん剤治療も併用する選択を下した。手術のリスクは医師の説明で聞いていた。しかし、最愛の妻アンに生きて欲しいと強く願い、根治を目指して、全摘術を希望した。政府内のエンジニアとして、根幹を担うエドワードの医療アクセスが良かったことも、災いと考えるか、あるいはアンの命を救った幸と捉えるか…… 治療により一命を取りとめたアンは、それまでの明るく社交的で知的な面白さを失ってしまった。最愛のアンをアンではない状態に変えてしまった罪悪感に耐えかねて、エドワードはピーターを含めた7人の兄弟を元軍人の母(ピーターの祖母)マーガレットの元に預けて蒸発してしまった。ピーターは、厳格な規則を重んじるマーガレットに非常に厳しく育てられた。
年金暮らしのマーガレットが7人もの子供達を育てるには、お金も十分とは言えなかった。教会の善意によって食料を分けてもらうこともあった。そんな中、姉が探偵にお願いして見つけた父エドワードに、救済を求めるために兄弟7人で会いに行った。エドワードは再婚しており、後妻の連れ子と3人で生活していた。後妻に自分と連れ子との生活を取るか、7人のピーター達実子を取るか迫られたエドワードは、後妻と連れ子との生活を選択し、7人のアンとの間にできた子供達に一切の手助けをしない道を歩んでしまった。生活も苦しい中、7人は互いに支え合った。学費は出せない家庭だったので、大学に進学するためには、奨学金を勝ち取る必要があった。長女は大学卒業後、大手企業に就職し、6人の兄弟達に仕送りをして生活を支えた。ピーター含めた4人の兄弟達は必死に勉強して奨学金で進学した。他の3人は軍に入ることで早期就職に努め、軍で功績を収めながら学費は軍が出資して進学することとなった。時は戦時中、前線に派遣されて負傷した兄弟もいた。自分の苦労を我が子にはさせまいという願いも強いピーター。また、親の愛情を幼い時にしか知らずに育ったことで、我が子とどのように接するかに若干怯え、出生時の付き添いに人生最大の緊張を感じている。
真宙が陣痛が始まって破水すると、ピーターは「ハッハッハッ」と何度も通い詰めたラマーズ教室の教えが吹き飛んだ様子で、威勢よく声をかけ始めた。長女の誕生をビデオに納めるため、娘の頭頂部が見える前から、F1レースの収録かのように、真剣にビデオを回す。
これから母になろうとする真宙は父ピーターの間違った掛け声に内心ツッコミを入れながら、「ハッハッフ〜」と冷静に適切なラマーズ呼吸を繰り返すこと24時間以上。ようやく、有輝の頭頂部が母の開脚の間から、垣間見える。頭頂部は周囲の組織を薄くて柔らかいフィットネスゴムのように引き伸ばす。さらに録画に力を入れるピーターは、頭頂部をゆっくり押し出す有輝をドアップにしてビデオを回し続ける。真宙がピーターの手を握る度に、激しく揺れる画面は、前後左右に主人公の有輝をフレームアウトさせながら、たまに母真宙の汗ばんだ額や父ピーターの口元や鼻、髭なども映す。BGMのように反復的に規則正しく、普段よりもワンオクターブ高く緊張感のある荒い息遣いのピーターの掛け声が切れ目なく響く。その後ろからは、真宙の「ハッハッフ〜」というラマーズ呼吸や医療スタッフの掛け声も聞こえてくる。真宙の鋳込む(イキム)時の人生最大の頑張りのような、高くも深く力強い、闘志と希望に満ちた「んー❗」という声もタイミングをみて部屋中に響き渡る。
どことなく呼吸が合わずとも、子供への愛情に満ちた父と母の奮闘。随分と、マイペースに頭頂部で母の産道組織をゆっくりと引き伸ばす有輝。唯我独尊ながらも愛情で団結する一家の誕生の瞬間だ。
27時間もの間、必死に我が子を産道から押し出し続ける母をよそに、胎児から新生児へと移行するエリザベス・有輝。新生児への道を歩む有輝は、頭が外界へと飛び出した瞬間に大きく目を見開き、キョロキョロと周囲を見回した。普通の新生児は、頭が出た瞬間に体もエスカルゴのようにピロンと飛び出して、目を瞑ったままオギャーと泣き出す。しかし、産道を通ったのもマイペース、外界に出るのもマイペースなのがシュレディンガー・エリザベス・有輝だ。
有輝の好奇心や慎重さは、この時すでに発揮されている。運命とは、本当に産まれる前から決まっているかと尋ねたくなる出生であろう。
赤紫のエイリアンのような有輝が、大きくて元気な産声を上げて全身全霊登場したのは、頭だけ突き出してキョロキョロ世界を観察して間もなくだ。真宙のたっての希望で、有輝は誕生直後に哺乳瓶の砂糖水ではなく、母の胸で母乳(初乳)をチュパチュパ吸った。こうして、有輝は産道を通る際に粘液や細菌をたっぷり取り込んだ直後に、母の免疫と栄養満点の母乳を力強く体内に流し込んだ。当時の教科書よりも理想的な健康への第一歩を、誕生十年後の未来理想形の見本となる第一症例として足跡を刻みながら歩みだした。
この力強くも独特な誕生をした有輝を胸に抱きながら、目一杯の優しさと愛情で有輝を見つめる真宙。そこにビデオそっちのけで喜ぶピーターが踊るように無邪気に駆け寄る。3369gの元気そのものの有輝は、幸せそうな安堵感を醸し出しながら母の胸に小さな手を添え、母のピンク色の乳首に休むことなくしゃぶりつく。絵に描いたような美しい愛に満ちた家族の誕生の瞬間だった。
この時、母のお産に立ち会ってくれたとっても優しい◯◯は、実は風邪気味だと有輝を真宙に手渡しながらカミングアウトしたのだった。数日後、有輝は激しい下痢に見舞われ、母の腕から引き千切られるように離されてしまう。原因不明の下痢を起こした新生児の治療に当たるため、スタッフは力づくで有輝の四肢を押さえつけて、点滴を入れ、治療を施した。(現代では、赤ちゃんはお母さんに抱かれていた方が落ち着いており、抵抗やショックも少ないと知られている。なので、可能な状況ならば、身体診察や採血等もお母さんが抱っこした状況で行うことが推奨されている。)
無事に回復した有輝は、愛情に満ち溢れた誕生と若干波乱万丈な出生後の入院の日々を乗り越えて、スクスクと育っていくのだった。
有輝の幼児の時のお気に入りの場所は、車で通える距離にある自然公園だった。ここでは、同じ教育や食習慣などの意識が高い母親が集まっていた。ここで、有輝と真宙は生涯の友人家族と出会って、交流を深めていく。社交的な有輝が最初に遊び始めたのは、猫のような淡いカールの茶髪でヘーゼル色に輝く瞳をした、勇敢で優しい幼児のブライアンだった。2人は同じ生物触れ合い教室にも所属していたが、最初に出会ったのは、その前に遊んだターザンロープやタイヤブランコがジャングルのように生える木々と共存する公園で。急速に距離を詰めて親しく遊ぶ子供達を見守っていた、温厚で世話好きな若干ふくよかな体型をした、ウェーブのかかった細くて柔らかい金髪に緑の目をしたブライアンの母キャサリンと最初に出会ったのもこの自然公園だった。
そして、この日は有輝が始めて大きな蛇を首からかけたり、触ったりする体験をして、蛇が大好き少女として目覚めた日にもなった。
いつしか、近所同士で同じ自然公園で子供を遊ばせている家族が交友の輪を作り、一緒にクッキーやケーキを手作りする家族ぐるみの友人グループに発展していった。
キャサリンと真宙が出会って間もなく、近くに原住民のインド系移民の一家が引っ越してきた。母のゾスピンテは、双子の兄ザックと弟のジョーダンを幼稚園に預けて、まだ歩けるようになったばかりのマキシミリアンを連れて自然公園を頻繁に訪れるようになった。ゾスピンテは、母国で産科医として日常的に何人もの赤ちゃんを取り上げていた。彼女はマクシミリアンも自然豊かな環境で多くの友達を作り、様々な環境下で柔軟で臨機応変な思考ができる子育てを望んで、自然公園に大きな期待を寄せた。同時に、初めて移住したオーストラリアで自然と交友の輪を築き、広げることも念頭に置いて行動している。
直ぐに発展した自然公園仲間の家族の交友の輪だったが、背景が似ており、自宅も近くて交流が多かったこの3家族が特に仲良く交流を深めていくこととなる。
真宙の円満な家庭で何度かの流産を経て、5歳下の第二子のスーザン・優愛を授かった。(スーザンの通称はスージー)キャサリンは不妊治療で妊活してブライアンに弟妹を産もうと頑張っていたが、なかなか出産には至らずにいた。
子供たちが自然公園では毒蛇や蜘蛛と安全なものを見分けながら、自然豊かで様々な生物が多々いる環境で遊び続けていた。ホームパーティーや交流でクッキーやケーキをはじめとした料理を作ったり、持ち寄ったりしながら成長する中で、この3家族は仲を深めていった。
いつしか、自宅の修理に男性陣が取っ替え引っ替え対応し、様々な場面でどんどんお互いの助け合いと教育や交流が増えていった。
小学生に成長した有輝は濃い栗色のウェーブのかかった髪で、凛々しくもパッチリした二重の目をしている。同学年の皆よりも頭一つ小さく、遠目から見かけると、必ずと言って良いほど下の学年に間違えられた。しかし、その言動と行動は見た目の幼さを忘れさせた。俊足だった有輝は、1年生の時こそ頭1個半くらい身長が高く、年齢も1つ2つ上くらいの体格の同級生にリレーでアンカーの座を奪われて大泣きした。しかし、悔しくて悔しくて、それから自転車と競争するように近所で遊ぶ時の走る量を増やした。密かに、土日の朝自宅や庭で走ることを増やして、若干トレーニングした。若干のトレーニングの甲斐もあってか、翌年こそはリレーのアンカーを任された。
学校の体育の授業で鉄棒をする際も、マキシミリアンの兄ザックに逆上がりを教えてもらった。その日は直ぐにできたものの、毎回は上手くできない。体育の日に逆上がりが登場するまで日が浅い。負けず嫌いの有輝は、来る日も来る日も公園の鉄棒で練習した。しかし、共働きの真宙とピーターの代わりに友達の両親が公園から有輝を友人宅に送ってくれて、真宙かピーターが迎えに来るまで見ていてくれる。しかし、それだとわりと早い時間に逆上がりの練習を切り上げる必要が出てきてしまう。そんな時、真宙は自宅に室内で使える鉄棒を買ってくれた。高い作りの鉄棒を逆上がりの練習に使うためには、有輝が届く位置になるための工夫が必要だ。安定感のある背もたれのない、倒れない重みと強度と安定感のあるピアノ椅子を自室内に組み立てた鉄棒下に引っ張ったり、押したりしてズリズリと移動させた。こうして、日が暮れるまで鉄棒で逆上がりを練習した。時には、泣きながらでも絶対に止めないで、真宙も応援や助言しつつも寝る時間を有輝にリマインドしなければいけない時もある。有輝はなにか始めると、絶対にできるまでやり続ける。大人相手のゲームも、どんなに負けても勝つまでやり続ける。やっとの思いでようやく勝つと、今度はもう一回勝つまで勝負し続けようとする。とにかく、家族一の負けず嫌いで、勝負好き。何気にちょっと意地っ張りだから、隠れて練習したがる。勉強は授業を聞いて、宿題だけはしていた有輝だが、テストでは満点じゃないと気が済まない。特に負けん気が強くて絶対に一番にならないと気が済まない性格から、国語テスト前日の放課後から就寝時間まで泣きながら勉強したこともある。大きなテスト前は、幼い有輝ながら「毎日努力できる人になりたい」と祈りながら、涙を拭いて単語の暗記に注力した。それでも、就寝時間は絶対に遅くしない。睡眠は記憶にも頭の回転にも最重要。絶対に睡眠時間は削らない。一方で、算数のテストは、理解が肝だから、「今日はテスト前だから早寝するね〜」と、普段は何度も何度も「早く寝なさい」と言われながらも読み聞かせを要求し続けた。しかし、算数のテスト前夜は毎晩の読み聞かせの延長やリピートを自ら返上して、率先して早寝をした。どのテストも基本的には、いつも満点だし、全国統一試験でもトップとなる。だから、99点でも99.5点だろうと、満点でトップじゃないと、どうしても悔しくて悔しくてたまらない。それでも、毎日は遊び尽くさないと気が済まない。だから、隠れて泣きながらでも要所々々ではちゃっかり努力する。
小さな勝負溢れる日常が実ったのか、有輝はチアリーダーとしても、その小柄さを活かして、天辺で舞っていた。活気あふれて、共に切磋琢磨する団結力あるチームは、メキメキと活躍の幅を広げていった。有輝は小学4年生の若さで、異例のリーダー役に抜擢された。同年から2年連続で、地域の大会で優勝して、全国大会での成績も毎年伸ばしていった。ちゃっかり、夏の科学大会でも女友だち4人グループで参加し、優勝を飾った。その時の指導教員に、隣町の伝統料理屋さんで打ち上げパーティーをして、皆で優勝を祝した。その数カ月後、この民族料理の美味しさを家族と一緒に味わいたくて、一度だけ通った入り組んだ山道を後部座席から母に伝えて、家族をこの民族料理屋さんに連れて行ったのは、後年の語り草にもなっている。
優愛は目の形や顔の作りはよく見ると、有輝に似ていた。しかし、外見は大分違って見えた。赤ちゃんの頃から、有輝の友達からもいつも可愛がられて、優愛は回し抱っこされていた。この影響もあるのか、優愛は人一倍人懐っこくて、甘えん坊で寂しがりだ。髪は金に近い縦巻きの栗色で、目は凛々しさよりも優しさと愛くるしさが際立つ。優愛も流れでチアリーディングを始めたが、なにかと有輝と比較されて、レッスン初日から随分と高い技術を周囲から期待された。明治維新後の剣士物語りにハマっていた優愛は、ずっと剣道をやりたいと思っていた。だが、剣道道場はシドニーのシュレディンガー家の近くにはない。そのため、モールで見た同じ格闘技に属する空手をやりたいと思っていた優愛は、あっさりチアリーダーを辞めて、空手に転向した。同時期、ザックとジョーダンの誘いでサッカーチームにも入ることとなった。姉妹揃って少々欲張りだが、有輝も優愛も何食わぬ顔で頭角を現してしまう。そうはいっても、四六時中「お母さん!この前こういう風にすると上手くできるんだって」とか、姉妹で「これできる?」とか「こっちの方が上手くできるよ。」とか「勝負❣️」と言いながら、何度も周囲に教えたり、遊びで反復することで、気がつかないうちに練習しているよう。優愛はサッカーを始めた当初から直ぐにメキメキと上達していった。普段はおっとりした、甘えた目つきの優愛だが、一度グラウンドに立つと、急に表情が凛々しくなる。普段の甘えた感じやどこかノラリクラリしている態度も、練習や試合中は大きく変わる。愛されキャラでもあり、信頼を集める新人プレーヤーとして、交友の和を広げている。
防衛省からの突然の要請や長期出張で家を空けることも多かったピーターだが、小学校でも可能な限り行事に参加していたピーターは、いつしかPTAになっていた。ピーターはボランティア精神旺盛で、活気もあり、その頼りやすさから教会でもよく行事をまとめたり、ボランティアの中心で活動していた。大柄なわりに手先が器用だったピーターは、地域でも頼られる簡単な修理や修繕も得意。
真宙も外交的で、有輝や優愛のチームメイトや学校の友人達を家に招いて、簡単な集まりやパーティーをよく開いていた。病院で医師として働く傍ら、子供達の授業参観や学校での発表、各種試合などにも欠かさずに参加した。職場に頼み込んで、同僚に当直を交代してもらったり、休みを調整して、子供達の育児や活躍の場には積極的に参加した。そして、縁の下の力持ちとして、子供たちの成長や練習環境整備にも随分と気が付き、子供たちが気が付かない細部まで様々な工夫を凝らした。時たま、「有輝はA型よねぇ」とか「優愛は本当に典型的なB型気質」と科学者らしからぬことを言う度に、有輝は母真宙に「血液型で人格が4パターンに分けられるわけないじゃん。」と笑いながらが、何故それが科学的に矛盾するかを必死に説得しようとする。
何もかもが順調だったシュレディンガー一家は、毎週日曜日に4人一緒に、サッカーフィールド半分くらいの芝生で敷き詰められた敷地に小さな季節野菜を育てる畑と色とりどりの花が植えられた、レンガの大型犬くらいの囲いのガーデンのある、真っ白に塗られた土壁と先日の瓦屋根の大きなアットホームな一軒家のような教会の礼拝に参加していた。
ある時、嵐で瓦が少し捲れてしまった。その後の日曜日、礼拝後の団欒に参加した後、ピーターは教会のボランティア仲間と入念に計画した教会の屋根の修繕のために家族を家に帰した後も残っていた。それを、真宙と友人のキャサリンとゾスピンテは、一緒に修繕をしている男性陣の様子を小パーティーと呼び、同日真宙宅の庭に場所を移動して、女子会兼子供会とを開催した。笑いながら庭で遊ぶ子供達を見守りながら、母親陣は賑やかに談笑していた。その時、警察のパトカーが正面の住宅街通りに現れ、二人組の警察官が真宙家のチャイムを鳴らした。
誰もが、「なにかあったのかしら?」と、危機感を完全に欠いた全面協力の態度と疑問の入り混じった表情で、顔を見合わせた。
無表情ながらも緊迫した空気を漂わせる警察2人組。ことの重大さを察知した大人達の表情には緊張が走る。家族は3つ。男性陣は全員教会でボランティアをしていただけだというのに、一体何が起きたというのだろう。
警察は「ピーター・ジョシュア・シュレディンガーの妻のメイヒーロはどなたですか?」と尋ねた瞬間、有輝と母の真宙(Mahiro)、そして有輝の妹のスーザン・優愛の時間が凍りついた。その場にいた友人のキャサリンとゾスピンテが一瞬漏れ出た安堵を心の内に瞬時にしまい込み、真宙とピーターの心配をした。友人両名からは、心配とショック、そして気遣いが溢れ出した。
「何があったの?」というのは、その場に居た全員が同時に抱いた疑問でもあり、その何かが悪いことだというは全員が覚った。
警察はこう切り出した。「ピーターが教会修繕の資材調達してホームセンターから車で教会に戻っていた。この時、向かい車線のトラック運転手が脳卒中を起こして、ピーターが助手席に乗っていた車に突っ込んでしまった。ピーターは頭を強打して、意識不明の重体で病院に運ばれた。トラックの運転手と教会のトラックの運転手は死亡した。ピーターは聖ベネディクト病院に運ばれて重体だ。」
真宙はその場に固まった体とは裏腹に、頭部だけ動かして警察と会話し、詳細を把握した。キャサリンとゾスピンテは真宙の肩や背中に手を置き、慰める。その瞬間、3人は状況を理解し、悲しみ励まし合いながらも、前を向いて病院で一命を取り留めたピーターの元に向かう段取りへと思考を切り替えた。
有輝と優愛と一緒に遊んでいたキャサリンの息子のブライアンは、有輝に駆け寄り、声をかけながら有輝のことをハグした。マキシミリアンは有輝に駆け寄る途中、ブライアンが有輝をハグした時に、ちょうど真隣に立っていた警察に「運転手は誰?」と尋ねる。
警察は一瞬二人で視線を合わせて、少し返答を躊躇した。その時、キャサリンの携帯電話が鳴った。電話を無視しようとしたキャサリンに、真宙は「私のことは気にせずに出て」と気丈さから若干だけ漏れる悲しみと衝撃の音をかき消した口調で声をかける。
「こんな時に電話なんて出ている場合じゃないわ」と返答するキャサリンだが、一旦切れた電話は再び鳴った。今度は、緊張感の混じった声でゾスピンテがキャサリンに落ち着いた口調でそっと電話を出るように促した。
電話に出たキャサリンは、その場に泣き崩れた。その時、その場にいた全員が状況を覚った。ブライアンの表情は、キャサリンの方向を向いて凍りついたのが早いか、涙を抑え込んで母キャサリンの元に駆け出すのが早いか。有輝はキャサリンに歩み寄り、ポケットの中のトランチュラ模様が大きく印刷された、タオルハンカチをキャサリンに渡した。
涙を流しながらハンカチを受け取ったキャサリンは、受け取ったハンカチで涙を拭き、目一杯ラッパのように鳴り響く音でトランチュラ中央に鼻をかんだ。そして、キャサリンと真宙が抱き合って、言葉を発せずにお互いに慰め合う中、有輝と優愛はお互いに顔を合わせ、その場で雄叫びを上げるブライアンに駆け寄った。
誰もが言葉を失った数秒は、時をスローモーションにゆっくりと何時間にも渡って繰り広げられたかのように感じる。同時に、その真っ只中にいるにもかかわらず、スクリーンで眺める映像のように他人に起きている事象のように目の前を流れていった。そして、その場に居た全員の絆を、それまでにないほど強固にした瞬間でもあった。
ブライアンの父ティムは、事故で即死だった。病院に駆けつけると、ピーターの顔面は傷だらけで、頭部はなにかに覆われている。そして、パンダのように黒ずんだ両瞼がフィルムのようなテープで閉じられ、口には大きな管が挿入されている。ベッド脇には大きな機械が置かれ、どこからともなく定期的にロケット内機械版呼吸音のような不自然な音を奏でている。フシューと周囲を死の旋律に呑み込むかのような不吉さが、大きな音ではないのにひと際耳につく。
真宙に泣きつくワンピース姿で髪を左右に結んだピッグテイルの5歳の優愛をよそに、有輝は父の頭上後方の大きな画面を見つめた。そして、父の口の中の管が繋がるジャバラをたどって、ベッド脇の大きな機械を凝視した。あたかも、必死に見つめれば、それの意味が理解でき、さらに凝視すれば、その目ヂカラで父が生還するかのように。無言で、ただ目の前の状況をあるがまま吸収するかのように眺めた。心拍は76から53に下がり、収縮期血圧は110から136に上がった。(拡張期血圧は65から53に低下した。)
有輝は、母の真宙に「お父さんの心拍が下がって、血圧が上がったよ」とだけ冷静なタンタンとした口調で伝えた。
さっきまでモニターを見ていた真宙も、泣きつく優愛から目を離し、再びモニターを凝視した。その瞬間、有輝はもう一度ハッキリと全く同じ文を繰り返した。
真宙の表情は一瞬で青白く血色を失い、次の瞬間真っ赤に高揚した。ICUのナースコールを押し、ちょうど同時に室内に訪れた一年目後期研修医に大きくてハッキリした口調で、冷静に言葉を伝えた。「夫は脳圧亢進が認められます。今直ぐ、脳外科にコンサルテーションをしてください。」
しかし、頭の両脇を刈り上げた金の短髪でグレーの目をし、青の手術着を来た青少年風の後期研修医一年目は歩速も表情変えずに、穏やかな雰囲気でベッドサイドに歩み寄ってくる。
真宙は瞬時に夫ピーターの脹脛(ふくらはぎ)を掴んだ。「バビンスキー陽性です。クッシング現象で心拍が低下し、血圧が上昇しています。今すぐ脳外科にコンサルをかけてください。」部屋中にハッキリ聞こえる、冷静でハッキリした口調で発せられたそのセンテンスの裏には、誰にも見せない怒りと焦りのトーンが若干だけ滲み出ているように聞こえたのは、有輝だけだろうか。
次の瞬間、目の前の後期研修医の表情は、青少年の穏やかなそれから、凛々しい緊迫感を帯びたものへと変貌した。その瞬間、胸元のPHSで頭部CTのオーダーを入れ、即座に脳外科にも電話を入れた。
真宙と子供達はICU看護師に部屋の外に優しく押し出され、ピーターはベッドごとバタバタと集まったスタッフ大勢によって急いで運び出された。
真宙の表情は目的を持った狼のように鋭く、真っ黒のストレートヘアーはいつもと同じ花柄の髪留めで鷲掴みのように掻き上げられてダボッとしたヒョウ柄の上下を着ていたにもかかわらず、あたかも細く黒いヘアゴムでポニーテールでスクラブに白衣を着ているかのように錯覚させるオーラを醸し出していた。
この時10歳の有輝は真宙のコートを脇腹の高さで鷲掴みに固く握って、目は真宙と瓜二つの凛々しい表情をしている。幼い優愛は、隣に並んで立つ真宙と有輝の二人の間に、二人に顔を向けて向き合い、母の左脚に顔を埋めて泣きながら、左手では真宙のシャツを握り、右手では姉の有輝の虹を握って丸めたような柄のTシャツを手繰り寄せるように握りながら引っ張る。優愛の泣きながら上下する肩とは、対象的に、有輝はICUの待合室から向かいの手術室の扉をずっと身動きせずに凝視し続ける。
緊迫したこの瞬間の空気とは裏腹に、真宙も有輝も、一瞬たりともピーターが生きてそこから出てくることを疑ったことはなかった。
家族3人の祈りが通じたのか、手術室から出てきたマスクを取った外科医はシュレディンガー一家に歩み寄った。その外科医が自動扉から笑顔で出てきた瞬間、真宙と有輝は笑顔で目を合わせ、両名が同じ動作で優愛の肩に手を置いて、優愛に笑顔を贈った。
外科医はシュレディンガー一家に歩み寄り、開頭手術の成功を伝えた。
今晩が峠となるものの、手術は成功し、生きれる確率がある程度高い旨を真宙に伝えた。初期対応が早かったのが救いだと、外科医はシュレディンガー家族に告げ、シュレディンガー家族は外科医の初期対応の良さと腕の良さに喜んだ。
真宙は、有輝に向かって屈み、有輝の目を見てこう告げた。「あなたがお父さんの様子を良く観察して、ハッキリ伝えてくれたから、お父さんは生きれるのよ。あなたがお父さんを助けたんだよ。誇りに思いなさい。そして、ありがとう。」
その時、事故後初めて有輝の目に涙が浮かび、真宙は有輝に「泣いても良いんだよ」と優しく語りかけながら、大きく長くハグをした。
ピーターは、長期間ICUにいた。この間も毎日家族がお見舞いに来て、いつもと全く変わらない様子で楽しそうにピーターに話しかけた。あたかも、ピーターが目覚めており、一緒に会話しているかのように、そして日常に全く変化がないかのように家族皆で愉快に会話した。本来ならば、小児はICUには入れない。しかし、ピーターがICU個室に入っていたことと、医学的には生きれるか分からないギリギリの状況だったことも相まって、シュレディンガー家のおこちゃま2人も父の面会に入れた。人工呼吸器装着中は、呼吸する空気が機械のフィルターを通しているため、短時間であれば、ピーターが適切に鼻と口を覆ったマスクを着けた子供達からの感染リスクがそこまで高くないというギリギリの判断もあった。そして、ピーターの長女の有輝が目敏く出現早期にクッシング現象を捉えて、妻真宙がバビンスキー(厳密にはゴードン反射)を示したことこそが医療チームを動かす決め手になったことは、ICUでは有名になった。
小柄なエリザベス・有輝(通称ベス)がICUに現れると、スタッフが「ハ〜イ、ベス😉 私達のお気に入りの小さなドクター」と満面の笑みと明るくウェルカムな態度で迎え入れてくれた。(忙しい時には、険しい口調で「今は無理」ともハッキリ言った。)
スタッフと家族の献身的な治療や見舞いの甲斐あって、ピーターは目を覚ました。当時、医師からは一生半身麻痺が残って、失語症で会話ができるまでに回復する可能性は殆ど無いと告げられていた。
記憶障害も顕著で、5分前のことすら思い出せずに、何度も何度も時間を尋ねた。その度に、家族やスタッフが日時を伝えては、再度ピーターが忘れて聞くの繰り返し。しかし、それでもピーターはかなり意欲的にリハビリに励んだ。
ICUを出て、リハビリ病院に転院するのも束の間、目覚めてから1ヶ月経つ頃には自宅退院していた。
ピーターは記憶や会話もままならず、片脚にはギプスをハメたまま、近所中を自転車であちこち走り回った。今も社交的なピーターだが、事故影響で高次脳機能障害になってしまった。この影響で、感情のコントロールは波紋してしまい、特に怒りを露わにしやすくなってしまった。
それまでは、ピーターは厳しいところもあっても、優しい父親だった。そして、事故後の退院早期には、リハビリテーションに必死に励み、次々に色々とできることが増えていった。時計はいつも早めており、その分数も26分や37分など、時計を見る度に計算が必要なものに設定し、数日置きに数字を変えることで、常に新たな計算を必要とし、脳をトレーニングし続けていた。やってはいけないことをやってしまうこともあったが、それでも何度も注意すれば、数日後には胸を張って改善した行動を取ることも多々ある。
しかし、事故を堺に父は急に有輝の弟のような存在、優愛には同い年の兄弟のような存在になってしまった。見た目は大人、中身は永久に成長しない幼児のような一面がある。子供のように無邪気に遊び、一緒にイタズラもしたがるピーターも楽しく、子供達にとっても楽しいことも多々ある。しかし、近所で直ぐに感情的になってしまうピーターが喧嘩をしてしまうことも増えてしまった。男同士で手を上げることにとどまらず、時折真宙に手を上げることも出てきてしまった。
そして、元々厳格なところがあったピーターは、シツケの言葉が出てこず、感情がコントロールできなかった時に、優愛の右足首を左手で握って持ち上げ、右前腕に優愛の上半身を乗せた。ピーターはそのまま優愛のズボンを引っ剥がして、何度も優愛のお尻を左手で叩きつける。
泣き叫ぶ優愛、呆然と立ち尽くす有輝。
母真宙が黒のタートルネックに黒のズボンでダイニングから駆け込む。ピーターの体を抑えて、止めさせようとするも、大きな体格さがある真宙はピーターに突き飛ばれてしまう。
父ピーターの腕の上で泣き叫ぶ優愛の尻には、何度も何度もピーターの腕がムチのように振り下ろされる。母真宙は泣きながら、ピーターに「ヤメて!」と叫ぶ。
有輝は部屋の中で呆然と立ち尽くしたままだ。抵抗もせず、泣きもせず、無言不動で立ち尽くす。
ピーターは全ての行動を終えた時、優愛に1文放った。「俺の親父はベルトの金属部分で尻と太腿の境目の一番痛いところを引っぺたいた。素手でお尻を叩いているのは優しさだ。感謝しろ。」
優愛は泣き止み、有輝は不動で凍りついた状態のまま、真宙もこの時は無言のまま耳を疑った。
時間がフリーズしたかのようだった。
ピーター退院後、機能回復を喜んだのも束の間、誰もが予期せぬ事態が勃発してしまった。
ピーターも様々な戸惑いと葛藤の渦に呑まれそうになっていた。それまでは、優秀でカリスマ性も抜群だったから、上手いタイミングで抜群の声がけができた。元々真宙が細部まで気が回ることで、夫婦で上手くコミュニケーションを取り、役割分担をして、事前準備や様々な対策や予防をできた。微積分も瞬きする間に正確に暗算でできるほど頭脳明晰だったピーターは、機転も効いた。常に臨機応変な対応が瞬時にできるのが当たり前だった。
子育ての中核は真宙が担いつつも、ピーターと真宙の2人で一緒に描き出した未来を実現しながら、目一杯今を満喫する計画も突発的行事も理想通りに実現し続けてきた。
ピーターの心の声「しかし、事故以来、言葉が見つからない。そして、自分の意に反して感情失禁して、涙は流すし、怒りに任せて手も上げる。積極的に動き回って様々なことに参加しようとするものの、思い通りに動けず、どこか空回りしてしまう。事故直後に比べて、どんなに驚異的な回復力で身体能力や知能も回復していても、事故以前の自分には遠く及ばない。自分の思考力の限界のあまりの低さに絶望感を感じる。それでも、IQ試験などでは、140と標準よりも結構高い。しかし、元々の189に比べると、リミテーションが顕著過ぎて悔しい。その上、周囲が元気づけようとしてくれるのか、あるいは気が付かないのか、能力の高さを褒めてくれる。それ自体は嬉しいものの、どうしても感じて苦しい自分の能力低下やリミテーションが屈辱的だし、非常に悔しい。些細なことで、直ぐに頭に血が上る自分にも頭にきてしまう。本当は悲しいはずなのに、イライラしてしまう。なによりも、俺は自分の父の体罰の経験から、絶対に喧嘩や体罰をしないと心に誓っていた。しかし、我に返ると、自分が他人に手を挙げていたことに気が付く。同時に、動物的本能なのか、肉体的優位を感じることにポジティブな感情も湧く。昔レスリングで全国大会で銀メダルを取った時の喜びと金を取り続けた、2歳上のライバルに対する負けん気、その後の練習に注力した日々を思い出す。同時に、多くの記憶は消失している。昔のことで、思い出せることは5本の指で数えられる程度だ。しかし、ドライバーは即死だった事故で俺は生き残っていることを非常にラッキーだとも感じている。主治医に半身麻痺や失語症で、一生歩けず、会話もままならないと言われたことは覚えていない。それでも、そのような状況から必死に回復するための努力を重ねて、日常生活が送れるほどの身体機能を取り戻していることを誇らしくもある。子供たちには、強くて頑張り屋で、元々の能力は高くて、最高の家族や友人達に恵まれて、母国を守る父の強さを見せてやりたい。そして、子供達にも脈々と流れる我が血族のDNAを誇り、自分達に自信を持って育って欲しい。そして、子供達にも母国や家族を目一杯愛して、誇りに思って、安心してスクスクノビノビと育って欲しい。俺は大丈夫だ。次は有輝と優愛が大きく成長して、幸せになる番だ。」
記憶障碍のためか、翌日以降もピーターはケロッとしている。何もなかったかのようだ。家族4人で朝食を食べ、教会の礼拝に行き、そしてそこで皆と和気藹々と会話する。
礼拝後は教会の大きなリビングダイニングのような場所でテーブルを囲んで皆が談笑している。この日はオレンジピールの砂糖漬けを誰かが持ってきており、皆でそのパックを回しながら分けて食べながら、笑顔で穏やかな雰囲気。
教会仲間の身長190cmでBMI30くらいのティムがシュレディンガー家の4人を見て声をかける。ジョージ「ピーターもおいでよ」
ジョージ「有輝、食べるか? 美味しいよ。」
有輝「それ、オレンジの皮? 皮は食べないんじゃないの?」
ジョージ「砂糖がついてるから美味しいんだ。ほら、一口食べてごらん。こっちに来て一本あげるよ。」
有輝「本当に? ありがとう😊」
この時、無邪気にジョージに駆け寄ろうと一歩踏み出した有輝は、チラッとピーターを見た。
ピーターはすかさず「ダメだ。有輝こっちに来なさい。」
ピーター「ジョージ、悪いな。家のおチビちゃんたちはお菓子を食べると昼食が食べれなくなっちゃうんだ。また、今度誘ってくれ。」
ジョージ「ピーター、お菓子だなんて…… これはオレンジだぞ、小さいの一本だけ。味見くらいにいいんじゃないか?」
ピーター「こいつ、本当に食べないんだ。昼食前は何も食べさせないようにしないとなんだ。」
ジョージ「残念。美味しいのに、味見もできないなんてなぁ。」
ジョージ「有輝、残念。また今度の礼拝でな」
皆笑顔で手を振って別れる。
車内で有輝は「オレンジ食べたかった。少しもらって、食後に食べれば良くない?」と聞く。
真宙は「オレンジの皮に砂糖なんて…… 農薬凄いんじゃない? 食べない方が良いわよ。」
優愛「マーマレードって、オレンジの皮ででょ?」
真宙「有機栽培は良いのよ。フォローしたつもり。」と笑顔で頭の後ろを搔く仕草を加える。
4人で爆笑。
シュレディンガー家族は、有輝も優愛もオヤツを食べると昼食が進まないので、普段からオヤツは禁止。一度は有輝が「ブライアンみたいに、チーズならば栄養面で優れているから皆と一緒にオヤツに食べても良いんじゃない?」と真宙を説得したことがあった。しかし、試した結果、夕食の摂食量が減ったので、全面オヤツ禁止となってしまった。
そのまま、4人は真宙の運転でファミリーレストランに行く。
有輝はミートボールパスタを頼み、優愛は欲しい物がないと口にする。その瞬間、ピーターが速い動作でスーザン・優愛を見て、「スーザン。食べ物を頼みなさい。」と鋭い口調で言われた瞬間、優愛は一瞬怯え、その怯えも一瞬で隠して、笑顔でミートボールパスタに決めた。
その後のシュレディンガー家の4人は、何もなかったかのように平穏だった。ピーターが子供達に手を上げることはなかったが、近所では時々喧嘩で声を上げ、時々喧嘩をした。
ピーターは、得意げに喧嘩に勝ったことを語ることもある。そして、様々なことを自慢する。しかし、喧嘩早い父の様子は、有輝にはもはや恥ずかしくなってしまった。勝負に勝つのは素晴らしい。しかし、自分の感情もコントロールできない父の姿はどこか屈辱的で、喧嘩だけでなく、怒りという感情自体、そもそも抱くことすら最悪だと有輝と優愛の心に刻むこととなった。有輝は自分のおかげで父が生きており、元気に退院できている状態を誇らしくも思う。同時に、自分が父を救ってしまったことで、大切な母や妹が傷ついてしまうようにも感じて悲しくもあった。誇りと悲しみ、自責と改善への祈り、父の感情失禁に対する羞恥心と生命を救う医療への憧れの間で心が揺れ動く。
有輝は毎晩欠かさず、教会でのボランティア中に負傷した父のことを神様にお祈りしてた。「お父さんが元気になりますように」という祈りに神様は答えてくれたのかもしれない。しかし、有輝が思い描いていた元気というのは、普段は愉快で穏やかでも、稚拙で破壊力が高い暴君ではないように感じてしまうこともある。
有輝の中で愛おしいお父さんという大きな存在は時空で凍結された。目の前には、父の皮を被った別個体が居るようにすら感じることがある。たしかに、たまに父が垣間見える。しかし、父ピーターとこのピーターは同一人物でもあり、全くの別人でもあるかのようだった。
有輝はピーターが初めて手を上げた時から、幼い子供がお父さんを呼ぶ時のオトーちゃんから、オヤジと呼び方を変えた。そして、いつの日にか、彼の呼び名はピーターへと変わる。これは、しばらく先のこと。
時々は愛情たっぷりの親父なのだけれども、どこか永久に有輝の弟っぽいところもあり、元々の威厳あるカリスマ性が故に、たまに現れる暴君。この3者が共存するのが、事故後の回復期を経た有輝にとっての父でもあるピーター。この不可思議な感覚は、言語化せれることなく、有輝の心の中で整理され、変化されていく。
いつしか、有輝はお祈りをしなくなっていた。そして、教会の礼拝に参加しても、それはその後友人達と遊ぶまで我慢するうっとおしい父の習慣へと変貌していた。いずれ訪れる不思議な経験をするまで、神様は絶対にいない。というかなり強い反宗教的思想を強く信じるようになっていく。そして、かなりの実力主義へと育っていく。その根底には、(神様はいないのだから)、全ての功績は自分自身の能力と努力の結晶である。できない人は、ただ能力も努力が足りないだけだ。1番なんて当たり前。「私の辞書に不可能の文字はない」というナポレオンの伝記に出てきた一言は、いつしか有輝の座右の銘になっていったのかもしれない。ピーターの中の暴君は、有輝の中にも暴君の種を植え付けたのだろうか。
少なくともこの葛藤の一部は、有輝と優愛の間で無言のうちに共有されるのだった。これは、有輝にとってかなりの支えとなっていた。とはいえ、共有されて理解される価値感や想いもある一方で、有輝一人に重くのしかかる重圧もあった。「あなたがピーターの生命を救った」という当時の感謝の言葉は、同時に現在のピーターの中の暴君を有輝自身が生み出してしまったのだろうか、という一種の罪悪感にも似たモヤモヤした感情も生むこともあった。
そんな時、有輝は決まって優愛とサッカーボールを軽くパスしあった。無心に、ボールをお互いに軽く蹴り合う中で、浄化される感情もある。そして、この反復練習は心のキャッチボールでもあったのかもしれない。ふとした瞬間、阿吽の呼吸で有輝と優愛は外でサッカーボールを蹴る。こうしているだけで、なんだか気分が晴れてきて、前向きな感情だけが洗礼されていく。そして、世界が再び幸福感溢れる素晴らしい場所に感じる。そして、箸が転んでもおかしい2人の本来の姿が輝きだす。一見単純な動作のようで、このパスの押収には心を通わせる力があるようだ。
ある快晴で涼しくも、日光が照りつける中、中学1年生になった有輝と小学校2年生の優愛は日焼け止めを塗って、Tシャツに長ズボンで外に飛び出した。2人とも、事故前家族で見に行った野球試合で父ピーターに買ってもらった野球帽を自室に隠し持っていた。ピーターは、それを好んでかぶる我が子を見ると、現在の自分を否定されたように悲しくなり、それがイライラした態度で現れた。父を逆上させないことに長けている有輝と優愛は、普段はそれを被らない。しかし、絶対に父が帰ってこない出張中、なにかの拍子に2人で目を合わせて何かの感情を共有し、一緒に例の野球帽を被って外に飛び出しす。
裏庭の芝生の上で、優愛のサッカーの練習前に、有輝と優愛は軽くボールをお互いにパスする。ただサッカーボールを軽く蹴っただけなのに、優愛は一瞬激痛で叫び、息を呑んでその場に崩れた。痛みで脚を抱えてうずくまって泣き出してしまった。泣き虫というほどはよく泣かない優愛のリアクションを見た有輝は、最初は不可思議に感じつつも、仮病は疑わなかった。有輝は「この痛がり方って骨折みたいじゃん。ボール蹴っただけで、普通折れなくない?」と突き放したような思考の裏にはに思いやりがあった。この時、ゾスピンテはザックとジョーダンを乗せたワゴン車で一緒にサッカーの練習に連れて行くために、優愛を迎えにシュレディンガー宅に向かっていた。しかし、優愛の激しい痛がり方を見て、状況の逼迫さを感じた有輝は、隣に住むキャサリン宅に駆け込んだ。キャサリンに状況を説明したが、キャサリンは事故以来、車を運転できなくなってしまっている。なので、向かっていると思われるゾスピンテにキャサリンが電話で事情を説明した。
ゾスピンテは急いだ。サッカー前に済ませようと計画していた買い物などは途中でほっぽりだして、車で急いで駆けつけてくれた。スーパーからシュレディンガー宅に向かう途中でゾスピンテから状況説明を受けていたザックとジョーダン。裏庭に到着するやいなや2人は機転を利かせて、8人乗の自家用車の後部座席をベッドに改造した。看護師のキャサリンは優愛の脚を固定し、ゾスピンタと二人で優愛を自家用車のベッドに担ぎ込んだ。そして、キャサリンが真宙に電話で状況を伝えながら、ゾスピンテが車内スピーカに繋げた電話で病院の救急外来に状況説明と受け入れ要請をした。救急車を待つよりも、現場に直ぐに到着した医療従事者2人が真宙の勤める病院に優愛を乗せた車を飛ばしたした方が速い。固定が万全ならば、現状安全性も大差ない。有輝は事故以来、助手席には座れなくなってしまっていた。しかし、この時はグッと感情を堪えて、ワゴン車の助手席に飛び乗り、シートベルトを締めて、頭がボンネットの高さで隠れるように体を折りたたんだ。キャサリンも有輝も優愛に色々と声をかけながら、皆で病院に駆け込んだ。
病院で撮った優愛のレントゲンには、中から爆発したかのような病的骨折が見受けられた。その画像を見た瞬間、救急外来の医師にも悪性腫瘍の可能性が色濃いことは一目瞭然だった。なので、救急医の素早くてイキな計らいで、同日院内の小児悪性腫瘍外科をコンサルテーションしてくれた。運良く、予約に空きがあった小児腫瘍外科は、直ぐに腰から足首にかけた広範囲のMRI撮影のオーダーを入れ、即日救急外来で待つ優愛の元へ出向いた。この日は幸運が重なり、普段は混んでいるMRIもオーダーが入ってたった2時間半で撮影できた。また、必要な設備に急遽空きが出たことも重なり、異例の早さで骨折当日に骨生検をしてくれることとなった。皮膚を小さく切開し、大きな針を膝の腫瘍がある場所に刺して、骨病変の組織を採取する。骨生検には母の真宙も呼ばれた。真宙が優愛の手を握る中、有輝も見学設備の窓から見守った。最初は、小児腫瘍外科医が有輝に外に出て待つように言ったが、真宙はむしろ全てを見て理解した方が良いだろうと考えた。これは、現状理解にも、有輝と優愛両者の関係にも現状の的確な把握は役に立つと考えたからだ。ただ、初めての光景に驚かないように、同僚から骨生検のblue-rayを借りて、内容を知ってから手術見学をすることとなる。
生検の後、病室に移った優愛の元にいるように言われた有輝だった。しかし、骨折や搬送、生検で疲れたためか、優愛が寝入った様子を確認して、有輝は優愛の病室をそっと抜け出した。有輝は、幼い頃から院内を遊び場のように探検し尽くしていたので、実は抜け道にも、病室を隠れて観察できる方法にも詳しかった。行き先は、当然病理検査室だった。染色には時間がかかると聞き、何時に病理医が検体を診るかをこっそり裏から盗み聞きた。どの病理医の部屋をいつ覗きに行けば良いかを確かめて、何食わぬ顔でサッと優愛の病室に戻ってきた。
優愛の検体を最初に調べたのは、病理指導医になったばかりのタッケンバーグだった。真宙も我が子の生命がかかっている。同じ院内の友人ケイトが、小児骨腫瘍の一任者とお友達なののは、不幸中の幸いだろう。指導医とはいえ、4月に就任したばかりのタッケンバーグ一人の意見では心もとない。なので、ケイトに頼んで、小児骨腫瘍病理の第一人者のジョンソン副院長に検体を入念に検査してもらった。骨肉腫という診断はタッケンバーグと同じだったが、家族歴から家族性がん症候群の検査と、初期治療前にがん組織の遺伝子を調べるオンコパネルの治験への参加が望ましいのではないかと提案してくれた。
その結果、TP53という家族性がん症候群の遺伝子変異が見つかり、若年でも他の癌ができやすいLi−Fraumani症候群だということが発覚した。放射線や抗がん剤の種類によっては、2次発がんのリスクが上がるために、治療方針やその後の検査を入念に検討する必要があることが分かった。(そして、姉の有輝も同じ遺伝子変異を受け継いでいる可能性も指摘されたので、遺伝子検査をススメられた。)さらに、腫瘍の遺伝子を調べるオンコパネルによって、どの抗がん剤に感受性が期待でき、どれはそこまでではないかも明らかになった。査前は、抗がん剤の反応によってはその投薬期間を少し延ばしてでも、原発巣を縮小し、下肢温存・腫瘍用人工関節置換術が検討されていた。しかし、TP53は二次発ガンのリスクや転移のしやすさも考慮しなければならない。なので、院内のオンコボードで抗がん剤の種類や期間を再検討し、国内外のLi-Fraumani症候群患者の骨肉腫に詳しい医師・医療機関に診療協力をお願いした。また、フォローアップで定期的な全身MRIや腹部エコーが追加された。
優愛への主治医の説明は、有輝も病院に呼ばれて、真宙と有輝が一緒に聞くことになった。若干8歳の優愛は、抗がん剤で膝の腫瘍を小さくした後、可能ならば膝を切除し、膝のあった場所に足首を繋ぎ、脚の機能は最大限保つように尽力する旨が伝えられた。
父ピーターはというと、この時仕事仲間と酒を飲んでおり、電話が繋がらなかった。事故前は、毎週日曜日は教会の礼拝に参加し、ボランティアにも積極的で、顔が広くてPTA会長もやっていたピーター。事故で一命は取り留めたピーターだったが、事故で左脳の1/3を切除していたし、萎縮している部分もあった。
優愛の抗がん剤治療は、吐き気止めの効果もあり、嘔吐は多くはなかった。とはいえ、やはり吐き気は辛いよう。歴史的な描写ほどは、嘔吐が多くないというだけで、やっぱり吐く時は吐く。きっと、凄く頑張って食事をしていたのだろう。食事中に、グッと青ざめて嘔吐することもあれば、夜中に嘔吐することもある。可愛いシールで飾り付けたバケツに、何枚もゴミ袋を重ねた嘔吐バスケットが必需品となった。
また、粘膜障害は強く出て、口腔内や食道にまで潰瘍ができてしまった。それでも、うがいの薬剤に涙を流しながらうがいをして、頑張って歯磨きをする。嘔吐した時も、うがいと歯磨きを頑張った。毎日毎日、何度も何度も。
食欲も落ちる時はかなり落ちた。けれども、両親が優愛が食べると喜ぶ様子を見るのは優愛も嬉しい。だから、食欲がない時でも、果物などを数口でも口にするように頑張り続ける。
それまで、甘えん坊で笑顔が絶えなかった優愛も、時々苛つく様子を見せた。また、有輝に色々イタズラを仕掛けるようになってきた。何度も懲りずに、飽きずに椅子にオナラ音の出るゴム風船などを仕掛けて、誰か引っかかると笑った。発見されても悔しがりながら笑うのだが、この時はピーターが教えた手でブーッっと音を出す方法で、結局オチを作って笑うのだ。
ある時、有輝のベッドの中にゴムの蛇の玩具を仕込んだ。ベッドシートを捲った瞬間、蛇がいれば一瞬凍りつく。毒蛇ならば、かなり危険だ。実際、家の中に蠍(サソリ)が出たこともあるし、庭には赤アリの巣ができていたこともある。ベッドシートを捲った瞬間、有輝はハッとしたように固まった。それを見た優愛は、ニヤニヤと嬉しそうに有輝がもっと驚くのを期待した。次の瞬間、玩具の蛇だと気がついた有輝は「わ〜!可愛い〜」と玩具を手にとって喜びだしてしまった。手触りも適度な冷たさと弾力のある柔らかさが、本物の蛇に似ていることにも有輝は大喜び。それに優愛は笑いだし、つられて有輝も大笑い。
2人で楽しそうに大爆笑しながら、何度かヒーッっと息継ぎして、少し笑いが落ち着いてきた時に有輝が右眉毛を少しあげて、ちょっと説教じみたガキンチョっぽい雰囲気で人差し指を顔の前で左右に振りながら優愛に質問する。
有輝「優愛、これ私のベッドに仕込んだんだから、もらって良いよね? 毒蛇と間違えると思った?」と無邪気に、そして少し誇らしさを秘めた口調で優愛に「蛇をもらう宣言」をしてしまった。
優愛「チェッ。流石に、最初はもっと驚いてくれると思ったのにぃ。つま〜んないの〜。」
キレイな形の優愛の頭はツルツルに禿げて、顔と同じ色のスベスベの肌をしている。そのキレイな頭にはまるで優愛のキャンバスのように、優愛はよくフェイスペイントで色々描いて楽しんでいる。この日は、大きな花とそれに寄っかかる大きな笑顔で大きな靴を履いた2足立ちの猫がひときわ明るく目立っている。痩せた体とは裏腹に、頭の絵柄と優愛の満面の笑みはとても大病との闘病中には見えない。
この2人の無邪気なイタズラやそれを取り巻く笑いもまた、明るい日々を彷彿させる。
シュレディンガー家は代々子供にわざとゲームで負けたり、わざと気が付かないフリをして相手を「勝たせて上げる」ということはしない。勝負の時には、手を抜かないのも相手への敬意である。同時に、負けず嫌いの世界選手権トップを集めたような性格から、誰も嘘で勝っても満足しない。こういうことがあると、ちょっと怒りつつ、勝負は最初から全部正々堂々やり直し。
でもね、たまに、たま〜にだけ、優愛がなにかジョーダンのネタを仕掛けていると気がついても、有輝は気が付かないフリをして引っかかったことがある。それでも優愛が笑ってくれるのが嬉しくて、ついね。
有輝は病名や治療方針を告げられた時こそ大泣きしたが、翌日以降一回も泣いたことがない。優愛のイタズラにも怒ることなく一緒に笑い、色々な場面で戯けては笑って、なにかしら周囲を笑わせる小さな何かをしようとする可愛いところがある。
もうすぐ14歳になろうという有輝は、病院の母真宙のオフィスに忍び込んで、手術動画を見ることも増えていた。また、学校の後頻繁に病院に遊びに行っていた有輝が、手術室の外で清潔操作のために医師が手術用ガウンを着て、手術室と同じ滅菌手袋を着ける様子も何度も見かけていた。真宙も、昔有輝の3歳のお誕生日に玩具の聴診器ではなく、本物の聴診器をプレゼントした。夏休みのために顕微鏡をプレゼントした時も、400倍のレンズまで付いている本物の顕微鏡にした。有輝が興味を持って質問すると、真宙は実に様々なことを説明した。真宙は質問せずとも、色々積極的に原理原則から教えて上げる。
病院で使用される縫合キットや様々な処置キットを有輝が真宙にねだることもある。使用期限切れの指導用キットや、在庫処分する使用期限切れの器材をもらって、手術ごっこや投薬ごっこをして遊ぶこともあった。
優愛が在宅で投薬治療を受けたり、入院治療中の優愛の様子を見たりする有輝。色々なことを自分でやってみて理解するのは、有輝にとってもガス抜きをしていたのだろう。
ある日、ピーターが一人で優愛のことを自宅でみることになった。やけに気分が良く、イタズラ心と優愛を喜ばせたい一心で、ピーターは優愛と一緒に裏庭で自家製花火を作成した。しかし、花火を裏庭に置いたまま、ピーターは花火の存在をすっかり忘れてしまった。そうとは知らず、帰宅して有輝が裏庭へのドアを開けた瞬間に、自家製花火が誤爆してしまった。花火が上がった瞬間に、容器の破片がそこら中に吹き飛んだ。この瞬間、ドアからはみ出た有輝の左手にその一片が刺さってしまった。
幸い、命に関わる緊急事態にはならなかった。この時裏庭へと繋がるドアがあるキッチンに救急箱を置いておいたこともも功を奏したのだろう。有輝は咄嗟に片手で破片が動かないように固定して、歩いて救急箱まで行った。中の包帯を二つ取り出し、破片の両側に挟み付けて固定しようと考えた。しかし、片手では包帯を良い位置に押えることはできても、テープ等で包帯ロール二つで挟んだ、手に刺さった破片を固定できない。
ジワジワ流血しながら、救急箱の前で涙を堪えて胡座の姿勢で試行錯誤する有輝。しかし、ピーターは有輝の怪我に気が付くことなく、優愛と一緒に花火の美しさに喜びの声を上げる。ピーターは有輝が家の中で遊んでると思っている。なので、大声で「今の花火見たか? 綺麗だっただろう。俺と優愛の自家製だぞ!」と自慢気に胸を張って、重い腰を起こして、玄関から裏庭に繋がるキッチンに向かって歩き出した。
ちょうどそこに、真宙が帰宅した。車で家に近づいた瞬間に大きな爆発音と共に、光が上がった様子を目撃した真宙は、事故が起きていないかと玄関前の道路に車を停めて、一目散に自宅内に駆け込んだ。
裏庭方面にゆったり満面の笑みを浮かべて胸を張って歩くピーターと鉢合わせて、真宙はピーターに子供達の安否を尋ねる。
ピーターは落ち着いた様子で、「心配しすぎだよ。2人共大丈夫だ。スージー(スーザン・優愛)は俺と遊んでるし、ベス(エリザベス・有輝)も家の中だと思うよ。俺が優愛と作った花火、綺麗だっただろう。こういう技術はお手の物さ。」とドヤ顔で自慢している。
子供達が無事だという言葉に安堵しながらも、真宙は念の為状況を確認するために裏庭に向かって突き進んだ。
裏庭へと繋がる扉の前には血痕があり、床には胡座をかいて救急箱と対峙する有輝がいる。真宙はピーターに「何やってんのよ!」とだけ言い放ち、有輝の元に駆け寄る。
母が来てくれたことに安堵し、優愛の骨肉腫発覚後初めて、有輝は床に座ったまま声を上げて泣き出した。
けれども、手は一切動かさない。しっかり左手に刺さったプラスチック片を動かないように包帯で挟みつけて右手で押さえたまま、しゃくり上げるように涙を流した。
真宙は有輝の応急処置を褒めながら、有輝の頭を撫でて、帰宅時手に握っていた携帯電話で直ちに救急車を要請した。
ピーターはその場で怒り出してしまった。有輝には、「泣くな!」と怒鳴り、真宙には「救急車はまだか!? そんなもの必要ない!俺が運転する!」と怒鳴った。大きく振り上げたピーターの手に、咄嗟に体を屈めた真宙。ピーターは手に握った雑誌を激しく床に叩きつけて、優愛に病院に行く準備をするように不機嫌に命令した。
ピーター「今から病院に行く。姉ちゃんが怪我したから、病院セットを持ちなさい。」
優愛は無言で自室に向かう。自分の入院セットを持つも、咄嗟にベッドの上に置いた。
有輝の部屋に行って、合宿時のバッグを取り出し、おもむろに寝巻きや下着を突っ込んだ。そして、バスルームから自分と有輝の歯ブラシと歯磨き粉を手に取った。そこで、一瞬止まって、軽く右に頭を傾けて、迷うような仕草をした。迷うこと2秒程度、優愛は家族全員分の歯ブラシと歯磨き粉をジップラックバッグに入れて、有輝のバッグの脇ポケットに突っ込んだ。
流石は入院慣れしている優愛だ。ものの数分で家族全員分の入院の用意を済ませて、有輝の元にバッグを二つ拵えて合流した。その際、リビングのテーブルの上の本や雑誌を数冊優愛用入院バッグの中に押し込んだ。
救急車で病院に搬送された有輝は、救急外来でレントゲンを撮り、手術室でプラスチック片を抜去してもらった。手の甲の中央部分に刺さったプラスチック片だったが、幸い主要な神経は傷つけなかった。なので、手を専門にする外科が血管等の組織を縫合し、傷が残りづらいように皮膚をキレイに縫合して、事なきを得た。プラスチック片を抜かずに、動かないように押さえていた甲斐もあり、輸血はせずに手術を終えた。
術後も有輝は優愛よりも先に手術をして成功一番乗りということをネタに、笑い飛ばしている。姉妹の一人が大病を患った時の健康な子の心のケアはしばしば議論に上る。有輝は涙を流さなくなったが、代わりに笑顔や笑いという形に変えて心の涙を発散しているのかもしれない。
優愛は順調に抗がん剤治療を進めていった。腫瘍は縮小し、危惧された転移も起きなかった。こうして、9歳の誕生日の3日後に優愛は手術の日を迎えることとなる。
この時期は例年有輝のチア合宿の時期だったが、コーチ含めたチーム全体で話し合い、この年は数日合宿をズラしてくれた。こうして、有輝も優愛が幼い頃から家族のように可愛がっているチアのメンバーも一緒に優愛のバースデーパーティーに参加できる。
緑生い茂る快晴の、心地良く陽射しが照り付けるカラッとした穏やかな風が気持ち良い誕生パーティーの日。大きな空手着に黒帯を締めたポニーテールの優愛を象ったペパーミントのアイスクリームケーキを、皆で囲んだ。有輝と優愛を真ん中に、有輝の後ろに真宙が立ち、優愛の後ろにピーターが立った。家族4人で写真を数枚撮った後に、有輝のサッカーチームや空手道場の皆、有輝のチアメンバー、優愛の学校の友達と近所の皆で4人を囲んで、裏庭でドローンを飛ばして上から様々な角度の写真を撮影した。チアの皆が裏庭のトランポリンで合宿中に練習した振り付けを「今日が初公開だよ!スージー(スーザン・優愛)のための特別なプレゼントだからね」と元気にお披露目。この日皆で盛大に祝って、目一杯楽しんだ。幸い、優愛も抗がん剤で落ちた免疫が少し回復している時期だった。この時の皆のはち切れんばかりの満面の笑顔をキャサリンもゾスピンテも何枚も何枚も撮影した。そして、この時の写真はキャサリンが専門業者に依頼して、色褪せることない高級写真アルバムを作成してくれた。
この最高な誕生パーティーを目一杯満喫した優愛は、幸福感と緊張感の混ざる表情で入院した。もう、入院なんて生活のルーチンの一つ。ホテルのチェックインくらいの感覚で、サクッと済ませるようになっていた。
優愛の心の声
「今回の入院はいつもの抗がん剤投薬入院とは少し違う。腫瘍ごと脚を切断して、切り取った膝のところに足首をクルッと回して膝代わりに縫い付ける。義足が必要になる以外は、日常生活はいつも通りに送れるそう。けれども、サッカーは今まで通りには出来なくなってしまう。大好きなサッカー。
けれども、私は全然悲しくなんてない。仲間はずっとずっと友達だし、完治してしまえば、なんだってできる。他のスポーツもある。何よりも、治ってしまえば、抗がん剤も残りを完遂したら終了だ。
治れば、なんだってできる。
私の膝が欲しいのなら、それくらいくれてやる。
生きれなかった戦友もいる。
私は生きれる。
治るチャンスが与えられている。
それだけで、ガンとの戦争は私達の勝ちだよね。
亡くなった彼らの分まで生きるなんて、おこがましい自己満足なんて言わない。
でも、私も家族も苦しめたこの病気に対する最大の復讐は、私が精一杯楽しく毎日を生きて、幸せでい続けることなんだよね。
だから、私は精一杯生きるよ。
生きてるだけで、儲けもんじゃない。
絶対に治る!」
優愛は自分に言い聞かせると、右手でポンポンと心臓を叩いた。そして、その拳を広げて、掌で心臓の鼓動をシミジミと感じた。
そして、切り替えたように、心の中で「私はスーザン・優愛・シュレディンガーだ〜!!大丈夫!!やってやるぞー!!」と戦慄の雄叫びを上げた。
優愛の手術の日は、家族皆で手術室入室まで、ワイワイと冗談を言い合って、笑って過ごした。
そこに小児腫瘍外科のエースのジョン医師がスーパー〇〇の真っ赤なケープを持って登場した。
すっかり優愛と親しくなったジョン医師は、優愛を軽くコチョばしてから、「完治の準備はできてるか〜」と満面の笑顔で明るくおちゃめに尋ねる。
「準備万端」と笑顔で親指を立てて、「バッチリ」と優愛が合図を送ってウィンクをする。
すると、大切そうに手に握ったケープをパッとマジックのように開き、優愛の背中に真っ赤なケープをかけて固定した。ケープを着けた優愛は、手術室近くまで歩いていき、そこからジョン医師がヒョイと優愛をヒーローに見立てて飛ぶ姿勢に抱き上げた。すっかり病気撃退のヒーローになりきった優愛は、上機嫌に手術室へと胸を張って出陣して行く。
真宙もピーターも有輝も、推しのスポーツチームの応援のように明るく盛大に優愛を手術室へと送り出した。
真夏日の院内は強力に冷房が効いており、チア合宿時のTシャツとダボっとした短パンで座っているには、脚や腕の表面が冷えるくらいに寒かった。手術室控えに座る真宙とピーターの近くで、有輝は歩いて体を温める。ピーターも忙しなくキョロキョロ周囲を見る。祈るように目を閉じて両手を合わせていた真宙だったが、唐突に立ち上がり、「そこの自販機で欲しい物ある?」と1mくらい先の待合室角の自販機を指差してピーターと有輝に尋ねた。有輝はホットレモンを、ピーターはトニックウォーターとチョコバーを真宙に頼んだ。自販機から戻った真宙は、片手にホットレモンを、もう片手にはトニックウォーターとチョコバーを持って戻ってきた。
それを見た有輝は「ありがとう」とホットレモンを受け取りながら、母真宙に「お母さんは?」と訊ねる。
真宙は「私はいいわ」と返すが、有輝が「え、水くらい飲まないとでしょ」とホットレモンを椅子に置いて自販機に駆けて行った。
ミネラルウォーターとお煎餅を一袋抱えて戻って来た有輝は、真宙に「ん」と言って手渡す。
無言で3人は横一列に並んで座る。手術時間は6から8時間と聞いていた。ほぼ1日の長さだ。術中は画像上でも腫瘍から5から7cmのマージンで切断する前提ではあるものの、術中に切断面を確認して、確かに腫瘍が取り切れているか確認するとの説明だった。もし、想定以上の切断が必要な場合や重要な血管や神経に想定外に浸潤がある場合には、術中にジョンが中途報告と方針相談に出てくるかもしれないと事前に家族全員が聞かされていた。
手術は午前9時から始まったので、正午頃は手術真っ只中。12時を回ると、ピーターは売店に昼食を買いに行こうと立ち上がる。私も母も「今はいらない」と断ったら、こういう時こそ食べた方がいいと、自分と真宙には大きな焼き肉コロッケ弁当を買い、揚げ物嫌いの有輝には麻婆豆腐弁当を買ってきた。加えて、オヤツ用にサンドイッチ3人分と1Lのミネラルウォーター3本と牛乳を買って急いで戻ってきた。
スーパーの特売日から戻ってきた大阪のオバチャンみたいな格好のような、スポーツ観戦に行く時にちょっと買う物が微妙なオッチャンのような、一所懸命だけど、どこか不可思議な雰囲気の巨体に苦笑いして一瞬目を合わせる有輝と真宙。
有輝は苦笑いで、「麻婆豆腐なんてここで食べれないよ〜」と漏らしながら、サンドイッチパックを見比べて、ターキーサンドイッチを手に取った。真宙は「私はいらない」と一旦は断ったものの、ピーターにススメられてチキンサンドイッチを手に取った。ピーターは「有輝。お前は弁当を食べなさい。」と強めの口調で指導した。「真宙。サンドイッチだけだと保たないぞ。食べないなら、俺がもらうぞ」とカツカレー弁当と麻婆豆腐弁当の2つを豪快で平らげた。元々巨体とはいえ、その食欲と食べる速さはいつ見ても驚く。
他に待つ患者家族はいなかったものの、立ち込める焼き肉と麻婆の匂いに、受付事務さんが怪訝そうにシュレディンガー家の3人を一瞬睨んだように見えたのは、有輝だけだっただろうか? 有輝も不快に立ち込める普段は美味しい食べ物の匂いに眉をひそめた。
有輝はピーターに促されるままに麻婆豆腐弁当を食べ始めたとはいえ、半分くらいで満腹になった。自分で盛った分の食べ物は必ず完食するというのは、ピーターの厳しい教えでもある。とはいえ、有輝もそれ以上食べられない。ゆっくり食べていて、それが遊び食べっぽくなろうものなら、それこそピーターの逆鱗に触れてしまう。
ちょっと躊躇した有輝は、真宙に残った弁当を食べてくれるようにお願いした。まだ、サンドイッチを食べていなかった真宙は、快く有輝の残りの麻婆豆腐弁当を完食してくれた。
ピーターも「こういう時はしょうがないだろう」と共感を示す。
こうして、6時間以上の手術の前半4時間が何事もなく過ぎていった頃、手術室にバタバタと人の出入りが増してきた。
優愛は手術前に前もって自分の血液を溜めておき、輸血の代わりに保存しておいた自分の血液を使用できる自己血貯血をしていた。
手術領域は複数手術室があり、そのどれで出入りが増しているのかは、待合室からは分からない。
けれども、輸血用血液を運ぶバッグを肩にかけて走って手術室に向かうスタッフを見ると、いくら普段は能天気なほど明るくても、少し違う空気が横切る。
真宙「優愛は大丈夫よ。」
有輝「輸血増やして、頑張って助けてくれてるんでしょ。大丈夫だよ。ジョンだって、「治る準備は良いか〜」って自信満々だったじゃん。」
ピーター「スージー(スーザン・優愛)は俺の子だ。大丈夫に決まってる。」
家族3人の噛み合うような噛み合わないような会話で、誰も優愛が元気になることを確信していると再共有した。
次話に続く
今を大切に生きよう!
ぜひサポートよろしくお願いします。 ・治療費 ・学費 等 に使用し、より良い未来の構築に全力で取り組みます。