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【小説・2話】🧚シュレディンガー家の奇喜劇👺波乱万丈な家族愛ミステリー

手術室では、術前検査で明らかになっていたよりも、主要血管の癒着などがジョン医師のゴッドハンドを阻んでいた。

抗がん剤治療も影響して、事前に貯めておける優愛の血液には、限りがあった。それでも、どうにか想定の出血量の分は自己血貯血ができていた。

しかし、想定以上の手術の難易度により、出血量も予定を超えてしまった。幸いにも、小児腫瘍外科では、出血量が増えた時のために院内の赤血球と血小板、血漿などはこのような自体のために抑えてはいた。外来で輸血予定の慢性疾患患者さんには、可能な限り翌日以降の予約にしてもらっていた。こうすることで、優愛の有事にも対応にも備えながら、急ぎで輸血をせずとも体調が大きく変わらない患者さんも必要なタイミングで輸血が受けられるよう調整したのだ。

しかし、優愛の手術の日の朝に腎臓内科に入院中の80代男性が大動脈解離を起こしてしまった。切迫破裂のスタンフォードA。心臓に直結した大動脈が破裂してしまったら、手術室まで命がもたないかもしれない。命を救うためには、緊急手術が急がれる。ちょうど優愛の手術直前にこの緊急手術が始まった。この日は快晴でカラッとした心地よい暖かさ。そよ風が気持ちいい、絶好のドライブ日和。こういう日は、やはり朝から交通事故による外傷外科での手術があった。骨髄移植病棟でも、毎日輸血が必要な患者さんが、輸血をしながら死闘を生き抜こうと頑張っている。その手術が終わり、優愛の手術が始まって1時間くらいの時には、余裕があまりないながらも輸血の若干の備蓄はまだ残っていた。

隣町に住むとある78歳のシワが深くて赤茶色く日焼けした白髪の老夫婦の家には、3人の孫達がお泊りに来ている。

孫二男「おじいちゃ〜ん、遊園地連れてって〜」と甘えた口調でジーンズに白いTシャツを来た男の右脚にしがみついた。

おじいちゃん「う〜ん」と腕組みをする。

孫長男「おじいちゃん! こんなに気持ちいい日にお出かけしないのは罪だよ。」と、シリアルの味が滲み出たミルクを飲み干して胸を張る。

三男「遊園地〜」とベビーチェアの上で両手両足をバタつかせて興奮気味に喜ぶ。

祖父「よし!じゃぁ、行くか。歯磨きしてお祖母ちゃんと一緒に支度をしなさい。」と立ち上がる。

祖母「ほら、行くわよ。歯磨きしたらリビング集合ね。」レインボーカラーのTシャツを着た、紫が少し色抜けした白髪のアフロっぽい柔らかいくせ毛頭に左手を乗せて、右手で大きなモーションでリビングを指差す。

こうして3人ははしゃぎ気味に気分良く車に乗って遊園地に向かった。車の助手席におばあちゃんを乗せ、後部座席には3人の孫を乗せて皆がシートベルトを締めて、おじいちゃんがタバコを吸いながら運転する。普段はしっかりシートベルトを締めている3人だが、遊園地に向かう興奮からか、二男がシートベルトを外して新プロレスゲームの技を長男にかけようとし始めるではないか。最初こそ、ニ男を注意した長男も、顔に打つかる二男の肘、引っ張られる脚に痺れを切らした。もうすぐ遊園地に着くという高揚も重なったのかもしれない。長男までシートベルトを外して、二男に報復を開始してしまうではないか。シートベルトに厳しいおじいちゃん。口に加えたタバコを左手に持って、怒気が伝わる声を大きく張って、頭をクッと素早く左後ろに回して孫達を注意した。その瞬間、おじいちゃんは痛みに顔を歪めて、火のついたタバコを落としてしまった。首から脳にいく血管が、急な動作で裂け、怒りで急上昇した血圧も状態を悪化させてしまった。裂けた血管の先の血流は途絶されてしまった。運転中の脳卒中が原因で、おじいちゃんは痙攣発作を起こしてしまった。発作の瞬間、両脚が思い切り突っ張り、アクセルは全開で踏まれてしまった。そして、同時にグーッと伸びた両腕がハンドルを大きく逸らした。おじいちゃんがタバコを落として白眼をむく瞬間を見たおばあちゃんは、気が動転しながらも、シートベルトを引き伸ばして上半身を乗り出してハンドルを握った。しかし、引退前は土木工事に携わっていたおじいちゃんのコントロール不能の力強い全力に、おばあちゃんは争うすべなく体勢を崩したまま車は大きく反対車線に突っ込んでしまった。どの運転手も少し穏やかな気持ちで走る真っ直ぐな高速道路でスピードも速く、急いでハンドルを切った反対車線の車だったが、両者は追突してしまった。おじいちゃんの運転する車両は吹っ飛び、空中で激しく回転して地面に叩きつけられる。中でベビーカーにしっかり固定された三男と運転手のおじいちゃん以外は、投げられたドールハウスの中の人形のように、四方八方に叩きつけられてしまう。複数車両が追突事故に巻き込まれて、重症者から順に周辺病院に急いで搬送されていく。絶好のドライブ日和が悪夢に変わった瞬間だった。

周辺の救助隊も大きな地域拠点病院の優愛が手術を受けている病院にも、患者の波が押し寄せる。緊急手術もあれば、救急外来で処置を受ける者もいる。真夏の炎天下の甲子園の応援中に汗だくになって、グビグビと2Lの麦茶を観客大勢が飲み干すかの如く、輸血用の血液の備蓄は消費されていく。

世界では戦争も起きており、どこの国も様々な支援を送っている。医療物資や軍事支援に加えて、一部の国は血液も戦場の軍人や避難できない人々の治療のために支援している。赤血球や血小板などの血球製剤は、オーストラリアから大陸を跨いで運搬せれることはしていない。しかし、血液を原料とした様々な製剤は、長距離運搬にも耐えられる。加工された献血の貴重な血液は、凝固剤などの血液製剤として、世界各国から戦場に供給されている。同時に、有事に備えて各国で軍隊用の輸血の備蓄が始まっている。ただでさえ、少子高齢化で献血と輸血のバランスが変化している昨今。様々な世界情勢も相まって、どうしても病気や怪我で必要な輸血製剤がキツキツな状況だ。

加えて、昨今の少子高齢化やひとりっ子増加、核家族化で身近な家族や友人が怪我や病気を乗り越える様子を間近で経験する人々が減っている。第二次世界大戦や戦後の苦境を覚えている者も体験談を聞いて育った者も減少している。献血をしてくれていた方々も年齢が上がると引退してしまう。そして、献血は健康でなければできない。すると、どうしても体育会系と呼ばれる幼少期から自然の中で小さな怪我をしながらも逞しく体が鍛えられたり、全てを忘れてスポーツに打ち込む青春を送って体が鍛えられる人々も減少してしまう。運動は筋骨格の成長発達を促すし、血管の発達も促す。それが減ってしまうと、せっかく献血しようとしてくれても、体重条件などを満たせない方や血管に上手く入らない方も増えるかもしれない。追い打ちをかけるように、新型感染症の大流行によって、自衛を強いられて消耗した家庭も多い。また、献血に行きたくても、突然のインフルエンザを拗らせたような強い感染症状に見舞われて、予約していた献血をキャンセルせざるを得ないこともある。感染後に不調が長引いたり、献血に行けない人も増えている。水面下では、貧血気味や自律神経失調、様々な現代病を患い、行きたくても献血できない身体状況の人も増えている。そんな中、少子高齢化で輸血の需要は増している。

すると、どうしても輸血製剤不足が深刻な問題になってきてしまう。

その途中で、救助隊が車のドアを取り外す。消防服を着て、両頬をオイルで真っ黒に汚して、汗だくの中、懸命に事故被害者の救出に尽力してくれているのだ。この20代前半の好青年救助隊が、ベビーカーの子供を抱えて「もう大丈夫。よく頑張ったな。」と声をかけながら真っ白い歯を見せて大きく微笑んだ。彼はこの時、つい先日産まれたばかりの我が子とその児を重ね、自宅で待つ黒いウェーブのかかった輝くような髪をして、クリッとした瞳の妻を想って、額の汗を拭った。

その瞬間に、おじいちゃんの車からの大きな爆発音がさっきのタバコがガソリンに引火したのを辺り一体に警報した。爆発現場を取り巻く救助隊からは、仲間の命を脅かしかねない悲劇に、叫び声が数々と上がる。仲間の窮地なのに、救助しても安全な状況が確認されるまで、その車両とそれに近い場所での救助や搬送を全て一時停止せざるを得ない。現場は怒りと絶望、そして懸命に仲間の無事を祈る、戦場で必死に希望にしがみつこうと足掻く心情を克明に映し出した。

病院近くの高速道路が戦場と化したのと同時刻、シュレディンガー家の4人も病院スタッフも各々が必死に命を求めて闘っている。

近年では院内で家族からでもその場で献血してもらって、輸血することは激減している。ちなみに、優愛の血液型はB型なので、そこまで輸血できる血液製剤のストックが多い血液型ではない。

ジョンは執刀から1秒も意識を逸らせることができない、逼迫した手術真っ只中のため、第4助手(ほぼ見学)に入った研修医と手術中外からヘルプに呼ばれた輸血部の外看護師2名の3人が手術領域から出てきた。研修医の手術キャップの後ろからは、清潔感のある焦茶色の髪が垣間見え、頭の両脇はツルツルに剃られている様子が見える。この夏流行りの頭の髪は残しつつも脇は剃って涼しさと清潔感をアップさせるツーブロックという髪型であろう。研修医の右脇に立った看護師は、明るいピンク色に染めた長くて少し浅いカールがある髪をビシッと後ろで縛って、白のズボンを履き、右胸に病院のロゴが入った真っ白のポロシャツを着ている。研修医の左に立つ看護師は、ラグビー選手のようにガッシリした体型に青いスクラブを着ている。右腕全体が色鮮やかな大きなタトゥーで覆われており、両耳たぶはピアス穴が1円玉くらいの直径に引き伸ばされ、穴の縁に沿って黒縁の指輪のようなピアスがはめられている。待合室にいるシュレディンガー家の父ピーター、母真宙、姉エリザベス・有輝の元に歩み寄って、3人の向いの固いプラスチック椅子にこの3人のスタッフは礼儀正しく、そして落ち着いた態度で、しかし1秒も無駄にしないワンモーションでシンクロしているかのように座った。

有輝はA型、優愛はB型なので、有輝は優愛に赤血球や全血をあげることは出来ない。

ピンク色の髪を束ねた女性看護師は、温かく真宙の肩に手を当てて真宙の目を見た。研修医はピーターと急ぎバヤに握手をすると、軽く左上腕に軽く右手を触れてから本題を切り出した。有輝は、両親にサンドイッチされるように2人の間に座っている。

研修医が温かくも深く、真剣で滑舌の良いハッキリした口調で心なしかゆっくり話し始めた。

研修医「今スージー(スーザン・優愛)の手術をジョン先生が必死に行っています。予想よりも大切な血管への癒着が激しく、出血量が多くなってしまっています。手技は現時点で大きな変化はありません。計画通り、大腿と足首を繋いで膝を形成する、患肢温存的回転形成術(rotationplasty)を成功させようと奮闘しています。しかし、スージー自身の血液は、既に全て輸血で繋げてしまいました。がん細胞を取り除くセルセーバー(術野の出血を吸って、リサイクルして輸血する機械)の血液も輸血予定です。そして、現在、献血由来の血液製剤を輸血しています。ただ、それで足りるか分かりません。先ずはお父さんがO型なので、全血を提供してもらえますか?(全血は血球も血漿も全てひとパックで、約400ml 30分くらいで提供できる。) お母さんはAB型ですが、血小板を提供してもらえますか? よろしければ、ここの同意書にサインしてください。」

真宙は医師の話が終わるか終わらないかのタイミングで、書類に素早くサインを書くペンを滑らせ、医師に「私の血液はいくらでも使ってください。もし、命が危険に晒されるようならば、とにかく命を優先させてください。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。」と手渡した。

(「ありがとうございます」とは、「ご尽力ありがとうございます、先生方を信頼しています。どうぞお願いします。私達にできることは、何でもします。どうか娘を救ってください!そして、娘を助けてくれてありがとうございます。」という気持ちが凝縮されている。窮地に立たされると、人間は語彙が減り、とにかく想いが膨れ上がり、誠意を持って対応してくれる救世主にすがりつく想いでへつらいながらも、その能力が十分であると信じて、その現在と未来のスーパーセーブに感謝する。)

普段は契約書に穴が開くまで読むようなピーターだが、同意書が視界に入ってから、握ったペンが紙に接触するまでの数秒間に速読できた内容で、真宙に遅れること数秒で迷いなく豪快なペン捌きでワンモーションでサインする。研修医が看護師2人にうなづくのが早いか、真宙とピーターが立ち上がるのが早いか。2人は立ち上がる中、お互いの目を見て無言のうちに意思疎通をしていた。彼ら夫婦の視線は「スージーは俺達の娘だ。絶対に治る。」と「私達が助ける。」を同時に共有するかのような自信と気迫に満ちていた。(癌は寛解と呼び、完治と表現しない。しかし、気持ちは「治る」・「治す」なのだ。)

真宙は立ち上がりながら有輝の肩に手を置き、「大丈夫よ」と言って微笑んだが、それはコンマ数秒のうちに凛々しい戦闘モードの表情へと変わった。ピーターも似た表情で「俺の血液をあげれば、スージーは絶対に治る。善は急げだ。何処に行けば良い?」と続ける。

ピーターは体格の良い男性看護師に続き、真宙は女性看護師に続いて献血しに待合室を後にした。

ここで、奇跡的に最高なのは、父ピーターがO型のため、赤血球と血小板をどの血液型の人にでも提供できる体質ということ。さらに、真宙はAB型なので、血漿という血液の薄黄がかった透明のタンパク質などを含む液体部分を全ての血液型の人に提供できる体質だという点だ。そして、血小板は血液型が合わずとも、洗浄してあれば輸血できることもある。

こうなると、さっきのお弁当による栄養(血糖値)補充と食べ物に含まれる水分も、飲み物での水分補給も大きな助けとなった。血管は、十分な飲水と十分な血糖値があった方がよく出る。となると、採血や献血前に飲食物を摂取していた方が、上手く針が入り、献血もスムーズに行くことが増す。

両親が献血のために待合室を後にして、研修医も駆け足で手術領域の自動扉をくぐって走り去る。

大きな大きな薄暗い待合室の角にある自動販売機の蛍光灯の白い光が、不気味にその周囲の空間だけを冷たく照らす。待合室の椅子は無機質な白色の固いプラスチック椅子が金属のパイプに横一列に引っ付けた作りだ。それが、向き合った形でいくつか並ぶ。何かを取り繕うかのように、壁には防壁のように赤煉瓦で作られた空間が50cm間隔くらいにいくつか作られている。津波が来ても堰き止められないように見えるどこか頼りない煉瓦造りの空間は鉢か孤独な花壇のように、一本の大きな肉厚な葉のゴムの木のような植物が植えられている。植物の根元は小石を焼いて煉瓦に作り替えようとして、予想以上に乾燥が目立つような破片で敷き詰められている。オレンジっぽい色調なのに、不思議と待合室の緊迫した冷たい空気を和ませることはしない。ただ、どことなく場違いに孤島のように壁内にオアシスをイマイチ作れずに手術の成功を願う者を見つめ返す。

夏の病院の天井から噴き出す冷気は、やはり真夏日和の短パンにTシャツでは滲みるように冷たい。冷たくて固いプラスチックの椅子になりきれないベンチに座っていると、四肢(両腕両脚)の骨の髄まで広がる鈍痛のような冷感が身体を巡り始める。

有輝は立ち上がって、1mくらいを往復して歩きながら体を温める。不思議と不安はなく、優愛の完治は確信している。「いつまでかかっているんだよ。遅いなぁ。」もう何時間も待っているように感じて、壁にかかった大きな時計を見上げると30分も経っていない。

「寒いなぁ」と雪降る冬のように両手を口の前に持ってきて、大きくハーッと温かい吐息を吹きかけながら歩く有輝。

待合室は静まり返っていて、完全に無音だ。時たま、自動販売機のジーッという電子音が澄み切った音のしない待合室で低く小さな地響きをあげては静まる。手術が無事終了することを願う家族の密かで本人達も気がつかないフラストレーションを代弁するかのようだ。

さっきまで静まり返っていた待合室には、事故を聞きつけた家族が駆けつけていた。そして、やけに消防隊や自衛隊を思わせる体格で角刈りの人々も多い。突然の予期せぬ事故に慌てふためき、声を大きくして状況を他の家族に尋ねる者もいれば、青ざめて沈黙したまま消え去りそうに佇むものもいる。走って駆けつけて息が上がっていたものの、他の家族や関係者を見た瞬間にその場に泣き崩れる者もいる。そして、険しい表情で腕組みをして、仁王立ちしてジッと手術領域やその向かいに構える大きな二重扉奥のICU方向を見つめる者もいる。

さっきまでの正気を吸い取るような静けさと寒さが嘘のように、一気に災害現場の混乱の渦中の象徴のような光景に変貌した。

有輝は、周囲の会話が耳に入り、近くで大規模な交通事故があったことを知る。同時に、まるでガラス玉を外から眺めるかのように、ゆっくり鮮明な光景が異世界の映像のようだ。

有輝はどこか無感情にその光景を目にして、状況を咀嚼し切らない状態で、「なんでこんな時に事故が?」と一瞬頭をよぎりながら、さっきのドタバタと激しくなった手術領域の行き来の理由が、優愛の手術の苦戦と必ずしもイコールで結ばれないことに安堵した。その瞬間、有輝は「そんなことを思ってはいけない。多くの方々が怪我してるんだぞ」と思考を正した。

そうこうしているうちに、ピーターと真宙が待合室に戻ってきた。

ピーターはいつもの口癖のように「パスポートは大切だ。絶対に安全なように、肌身離さず持つ癖をつけなさい。」と半分独り言で、半分は有輝に教えるように言った。

有輝は「普通に免許証や保険証があればよくない? パスポートが大事だからこそ、家の安全な所に保管して置いた方がいいんじゃない」と笑顔を取り戻してツッコミを入れる。

真宙も笑って、「こっちの方が血液型も載ってて便利じゃない?」と献血中しまい忘れた運転免許証を財布にしまいながら有輝に同感する。

ピーターは「2人ともパスポートがいかに重要か十分分かってないからそんなこと言えるんだ。母国以外に住んでいる時は、常にパスポートを身につけている義務があるんだ。」とちょっと説教じみた口調で言う。

真宙も「確かにそうね。」と微笑む。

そこですかさず、真宙が「どうしたの? この人集り」と変わり果てた待合室の様子に軽く素早く人集りの方向に頭を傾けて有輝に尋ねた。

有輝は「近くで車が事故って、爆発したとかしないとか。なんか、皆んな病院に呼ばれたばっかりで、まだ正確に状況把握はしてないみたい。いや、けど映画じゃあるまいし、流石に爆発まではしてないんじゃない? 救急外来から、手術室に来た人の家族がこの人数だよね。結構大きい事故じゃない……? 助かると良いね。」

真宙は「え!? そうなの? 事故ってさっき?」と表情を曇らせた。

ピーターは立ち上がって、近くで青ざめた顔色で頭を抱え、待合室の冷たい座席に項垂れて崩れ落ちたように座る女性に声をかけている。どうやら、様子を聞いて慰めているようだ。

有輝は同情とフラストレーション、失笑と苦笑とも言えないよく分からない表情で、自分でも認識できない感情を抱く。

すると、ピーターが話しかけた亡霊のように虚ろな大きな目に、黒のウェーブ髪を振り乱した様子の女性の声が断片的に聞こえてきた。

女性「夫が全身に火傷を負って重症…… 人工呼吸器…… 朝まで元気…… 救助隊…… 子供…… 生まれたばかり…… 今晩のおかずの材料を…… なのになんで…… 皆んながスティーブのために献血……」涙を流しながら、ピーターに話す女性の言葉は断片的だが、厳しい状況を物語っている。

車から子供を救出中に爆発に巻き込まれてしまった男性の名前はスティーブという。スティーブの事故の知らせを聞いた新妻レイチェルは先日生まれた赤ちゃんを近所の友人の元に預けて、病院にすっ飛んできた。真っ白になって状況が理解できない中、涙を必死に堪えながら、自家用車に飛び乗ろうとしたレイチェルを友人が引き止めた。混乱と葛藤の渦中に運転をしたら、レイチェルまで交通事故を起こしてしまいかねない。とにかく、テレワーク中(リモートワーク中)の友人がレイチェルを病院まで送り届けた。病院の駐車場に車を止めて、レイチェルの生まれたばかりの娘を寝かしつけて、そのまま冷房の効いた車内で大切な会議に参加する。何も知らない赤ん坊がスヤスヤと眠る車内で、レイチェルの友人の胸中がざわめきと葛藤に悶える。会議終了と同時に、上司に相談して、早退かせめて時間給をお願いしたい。しかし、とても大切な会議だ。レイチェルとスティーブのことを心配する自分を落ち着かせて、とにかく一点集中で議論に全力を注ぐ。

スティーブは命を脅かしかねない顔面を含む頭と首、肩や背中に広がる燃焼を負った。その半分以上が深い火傷の上、熱風とススを吸い込んでしまっていたのだ。かなりの重体で病院に運び込まれた。劇しく焼け爛れた皮膚は赤や白が入り混じる組織が生々しい。火傷から大量に流れ出る体液、火傷に伴う炎症、傷組織から滲み出たタンパク質は腎臓を蝕む。怪我から必死に格闘する身体のシステムは破断して悪循環に入ってしまっている。気道熱傷もあり、機械が代わりに呼吸をしてくれている状態だ。運び込まれて直ぐに、心肺停止に陥ってしまい、スティーブを搬送した救助隊仲間と病院スタッフ総動員で胸骨圧迫(心臓マッサージ)を即座に開始した。循環不全による脳への血流は、その場で直ぐに胸骨圧迫を開始できたから、おそらくそこまでは障害されていないと予想されるものの、火傷自体の影響やそれに伴って様々な臓器がダメージを負っている。心臓マッサージをしなければ命を落としてしまったであろうスティーブの胸骨圧迫は、多くのスタッフと同僚が代わる代わるに強く深く押した。この際、ボキッと肋骨が折れる感覚があったが、心肺蘇生ではよくあること。そんなことで止まることなく、皆がテキパキと交代しながらスティーブの足の付根の太い大腿静脈から中心静脈カテーテルを挿入する。そのカテーテルから輸液(点滴)が次から次へと繋がれていく。蘇生しながらの投薬は、ナースステーションから慣れた手付きで直ぐ隣のストレッチャーのスタッフにポンポン劇薬入り50mlシリンジが投げ渡されていく。もはや、オーケストラのシンフォニーのようなラグビー試合を観ているような鮮やかでスピード感溢れるスムーズな流れだ。一回目のDCショック。心拍は戻らない。直ぐさま心臓マッサージが再開される。アドレナリンが注射器で血管内に投薬され、再びDCショック。祈るような視線がモニターに集まる。荒波のように痙攣していた心臓のモニターアラーム音が静まり、真っ直ぐな1本線が現れる。皆が固唾をのんでスティーブの胸に乗せた腕を組み直した瞬間、ピッ、ピッという規則的な音に合わせて逆V字の波形が規則正しく主張する。心拍再開! 皆が喜びと安堵の表情を浮かべ、即座に急いで追加処置に取り掛かる。スティーブの心臓は動き始めたものの、いわゆる多臓器不全の状態で、今晩を越すためには、非常に緻密できめ細かな対応が欠かせない。手術室と同じフロアにあるICUの特殊な熱傷処置室で重症熱傷の処置を受けている。大量の点滴や投薬と傷からの出血の治療のための輸血、様々な処置でどうにか状態を安定させようと医療チームが奮闘している。

そんな中、スティーブは救出した児を胸に抱きかかえて、離さなかった。その児を必死に守ろうと奮闘したスティーブの祈りと必死さの影響だろうか。上半身の皮膚が焼けただれて剥けたり焦げたりしている状態で、胸だけは健康な皮膚に覆われていた。スティーブの救出した児も熱風やススを吸い込んで、人工呼吸器を装着してICUで治療を受けているが、火傷は奇跡的に少なく、命に別状がない可能性が高い。あの事故車両に乗っていた5人の家族のうち、生存者はこの児1人だった。

真宙も事故の詳細は知らずとも、過酷そうな状況に複雑な表情に同情が入り混じっている。そして、少し声をひそめたくらいの声量で「血小板は洗浄すると、血液型が違っても輸血できるから、もしも追加で優愛に必要ってなったら、お願いできる?」と有輝に聞く。

有輝は胸を張って、「もちろん。我が輩の貴重な血液を優愛に分けてしんぜよう」と右腕を真っ直ぐ突き出し、肘の内側にプクッと浮き出た立派な静脈血管を自慢げに見せて、ウインクをしながらクシャッと笑顔になって笑った。

シュレディンガー家の3人は、午後の早い時間にさっきピーターが買ってきたサンドウィッチのパックを各々平らげて、沢山の水と牛乳を飲んだ。有輝は自販機で100%オレンジジュースを見つけて、「ヘ〜、こんなところに100%ジュースあるんだ。グレープフルーツとブドウもあるけどいる?」と自分用に購入したオレンジジュースを片手に、Tシャツの上に乗せてオレンジ、グレープフルーツ、ブドウの3パックをTシャツの上を市場のようにして両親に見せた。ピーターは我先にグレープフルーツジュースを手に取り、「おまえは何がいい?」と真宙に聞いている。

「じゃぁ、グレープにしようかな? 有輝はこっち飲む? 飲むならオレンジにするけど。」と有輝に聞く。

「お母さん好きなの飲みなよ。オレンジジュースビタミンC豊富だし、後で他のが欲しくなったら、また買うからいいよ。」とブドウを真宙に渡す。

待合室には、家族やスティーブの同僚は増えたままだが、静けさが戻ってきた。

有輝と真宙がしりとりをしていると、手術領域からジョンが疲れた笑顔で出てきた。

3人は目を合わせて飛び上がるように立ち上がって、空中でハイタッチを交わして喜びを分かち合ってから、ジョン医師と場所を変えて説明を聞いた。

ジョン医師は両親と目を合わせて頷いた後、有輝の肩に手を置いて「手術は成功だ」と笑顔で張りのあるよく通る太い声で言った。

ジョン「皆さんよく頑張りましたね。スージーの手術は成功です。検査で見えていた以上に難しいところもあり、大腿(太もも)は予定よりも少し多く切断しました。でも、膝下の長さの補正で対応できました。予定通りの患肢温存的回転形成術(rotationplasty)ができました。義足は着ける必要がありますが、リハビリ後は膝の機能があるかのように活動的な生活ができることが予想されます。リカバリールームから出たら面会できますよ。今日は皆んなでお祝いですね。」と有輝にウィンクした。

3人は無邪気に飛び跳ねて子供のように、手術の成功と優愛のこれから訪れるであろう活発な日々を喜んだ。

手術の直後は、ICUで体調管理と経過観察、下肢の血流の状態もアセスメントされた。ICUの特殊なワンモーションでほぼ全裸にできる病衣を纏い、お気に入りの枕の上でお気に入りの毛布をかぶって、毛布の角を顔の前の両手で握り締めて眠っていた。とっても長い手術だったし、輸血をしたとはいえ出血量も多かったので笑顔の家族は優愛を起こさずに側のソファーに座り込んだ。昼間はアドレナリンが出ていて気が付かなかったけれども、待合室にいた3人もそれまで自覚していた以上に疲れていたようだ。3人ともそのままソファーに座って眠りに落ちてしまった。本来、面会時間に厳しい病棟だが、この日は少し規制を緩和した家族水入らずの睡眠に目を瞑ってくれたようだ。

夜中にトイレに起きたピーターは、ソファーで寝ている真宙と有輝に毛布をかけて、付き添い用ベッドで横になって朝まで眠った。こうして、スレディンガー家の4人は大きな波を乗り越えた。

優愛がICUから小児腫瘍外科病棟に移動する日、ピーターは再びICU待合室にいたレイチェルに話しかけた。幸いにも、スティーブは事故の日とその後1日半も乗り越え、必死に闘病しているという。全身麻酔をかけて、人工呼吸器装着中だが、レイチェルは話す。「スティーブには彼女が面会に行くと分かるのよ。普段は心拍数が100以上だけど、私が傍に居るときだけは、少し心拍数が落ち着くのよ。きっと安心するんだわ。」

ピーターが相槌を打つ中、真宙は優愛のベッドサイドから穏やかな視線を送る。ICU待合室を通ってエレベーターに向かう優愛に声をかけて、その瞬間、真宙はレイチェルの両手を握った。「意識がないように見えても、スティーブにはあなたの声が届いているのかもしれないわ。あなたのことやお子さんのことを話してあげたら、きっとスティーブの力になってくれるはずよ。私も祈っているわ。」

レイチェルは真宙の手を握り返して、「ありがとう」と目に涙を浮かべて笑顔を見せた。

シュレディンガー家とレイチェルは、出逢って48時間にも満たないにも関わらず、強固な信頼と類稀なる絆で結ばれていた。

激しい治療中の場合には、体調が思わしくなくて寝ている時間が多い日もある。そこから回復してくると、早々に退院して自宅療養をする人が多い。そして、感染症などの体調不良時は、速やかに「抗がん剤治療中」と書かれた病院でもらうカードを持って救急外来を受診する。すると、歩いて病院に行けても、急激に悪化するリスクもあるので、順番が直ぐに回って来て診察と治療を受ける。

しかし、手術後の入院はひと肌もふた肌違うものとなった。痛みは背骨の辺りから入れている麻酔で結構コントロールされており、手術した脚にはギプスがハメられている。車椅子ならば、優愛はこの1週間前後の入院中、多少の院内散策も可能だ。なので、回復中のリハビリ施設や自宅に戻るまでの間、院内のカフェやスーパー、様々なレストランや大きな庭などに寛ぎに行ける。興味があれば、様々な病院敷地内の施設にも探検に行ける。体調がそこまで悪くない感覚で過ごせる入院期間は、院内も好奇心を満たせる退屈しない場所なのだ。

そして、抗がん剤治療中や血球が低い時期には、一定の年齢以下の子供はお見舞いに病棟に入れない。しかし、手術は少し違い、外を一緒に散策できる。優愛が個室ということもあり、少し規制が緩和されている節もあるかもしれない。他にも重い病だからこその配慮というのがある場合もある。

優愛の入院している病院は広大な敷地の上に、いくつもの病棟や研究棟が立ち並ぶ。徒歩で行き来できる建物もあれば、自転車や車、院内バスなどで移動しなければ行けないほど遠い施設もある。腫瘍外来病棟や一般消化器内科外科外来病棟、小児科外来病棟などと多くの科が別々の建物がある。さらに入院病棟も子供病院と内科病棟など、外来のように別々の建物もある。病院の敷地内は、それだけで小さな村くらいのつくりなのだ。搬送が必要な患者さんは、容態に合わせて院内救急車のような医療機器が揃った搬送車両か、ほとんど運搬機能単独のワゴン車のような色違いのサブ救急車のようなワゴン車で搬送される。救急車内で医療処置が必要(ないし必要になるかもしれない)場合には、医師が同伴する。しかし、病状が安定している患者さんの搬送ならば、搬送担当職の人が移動ストレッチャーを押し、ガシャンと車内の固定装置に滑らせるように乗せて、レバーで動いたり倒れたりしないようにロックして、1人が患者さんの元に座って、運転席に移って搬送車を運転する。患者さんの体調が悪くない場合には、スタッフと患者さんが和気藹々と会話して盛り上がることもしばしば。

病院も、患者さんに入院中も日常を感じてもらうために、様々な工夫をしている。病院敷地の正門周辺には、スーパーマーケットや様々な種類のカフェやレストランが立ち並ぶ。広大な敷地で端から端までは車で10分以上になるので、少し離れた病棟や研究棟の中にも、社員食堂や生協や本屋さんが散在している。木や他の植物が綺麗に手入れされている庭や広場などもある。こういう場所では、スタッフや学生がピクニックのように昼食を食べていたり、キャッチボールをしていたりする。アトラクションがないだけで、アミューズメントパークやモールにも似ているつくりの敷地なのだ。

特に、院内の施設に詳しくて、車椅子を押すのが大好きなエネルギーをあり余している案内役がいると、広大な施設は博物館と裏庭や近所の野山を足して2で割ったような施設へと変貌する。

有輝は真宙によく「あんまりはしゃいで優愛を無理させるんじゃないわよ!」と注意されていた。優愛も「疲れたり、少しでも体調が悪かったら、ちゃんと言うのがあんたの仕事だからね。無理すんじゃないよ。」と念押しされていた。

元々活発な2人は、ついつい遊びや探検に夢中になって、後々後悔することが後を絶たない。普段は聡明に見える2人も、この「無理しない」に関してだけはどうしてもやらかしてしまう。

優愛いわく、「気をつけているし、休むようにはしてるんだよ。けど、早めに休んでも、どうもやりぎちゃっているみたい。気を付けてはいるんだけどなぁ。お姉ちゃんに無理させられてなんてないよ。」ということだそう。

有輝は有輝で、「気を付けてるよ。無理させないようにしてるってばぁ。アラームセットしたりもしてるし…… けど、もっと気を付けるよ。」と言う。

「元々活発だったからね。特に闘病初期や改善していて体調が上り調子の時ほど、許容量の推計が外れ易くはあるのだろう。」真宙も温かく見守る気持ち半分、喝を入れる気持ち半分。いかなる事情があろうとも、小児の発達時期も遊べる時期も「今だから大事」ということが多々ある。できる限り、目一杯子供らしく遊びに没頭する日々を送らせてあげたい。しかし、それでも体調や命ほど大切なものは他にない。放任主義だけでは、親としての安全配慮や子供達が苦しまない工夫が務まらない。絶妙な匙加減で子供らしくやりたいようにやらせつつ、上手く指導というか誘導をできれば一番良い。ピーターが3人目の子供のように先頭を切って遊びに拍車をかけて、ちょっと過激にしやすい傾向があるからこそ、真宙がひとり親のように責任を持つ必要も出てくることもある。

有輝も優愛の手術日の交通事故で爆発に巻き込まれたスティーブの妻レイチェルを少し気にかけていた。なので、毎日そっとICU前の待合室をこっそり覗くのが日課になっている。レイチェルは、ICUに入室できない時間帯にも、待合室に来て祈るように手を顔の前で組んでいた。院内のチャペルでも膝をついて、祈りを捧げるレイチェルを見かけたこともある。それ以来、有輝はたまにチャペルに行くようになった。1ドル25セントで購入できるキャンドルを「スティーブが生きれますように」と光を灯した。この時、有輝はむしろ神はいないのではないかと思うようになっていたが、レイチェルが信じているのなら、とキャンドルをスティーブのために灯した。そして、半信半疑ではあるものの「優愛もお願い」と1ドル25セント追加して、もう一本キャンドルに火を灯した。この2つのキャンドルを、キャンドル同士が淋しくなく、仲間として呼応してより天に祈りが届きやすいようにと必ず隣り合わせにして並べた。心のどこかで、ピーターの時は祈りに応えてくれずとも、「今度こそは」とどこかで願っていたのかもしれない。そして、「神はいない」と言葉では言いながら、心では信じ続けているのかもしれない。強い想いはそれが強い信仰であろうが、強く宗教を否定する感情であろうが、何かしら理由があることがある。強い愛情が裏切られた時、その愛情は怒りや恨みに一過性に変化して、より一層救いを求めて胸中で葛藤するのかもしれない。

この日も優愛は車椅子に乗り、有輝が後ろのグリップを握って車椅子を押す。こうして、2人は院内の探検に繰り出して行った。

実は、優愛にTP53遺伝子変異が見つかったため、有輝も週明けに遺伝子検査を受けることになっていた。なので、2人で下見を兼ねて、遺伝カウンセリング室がある建物に行くことにした。この建物には、職員証か受診予定の患者にだけ渡される主治医名と診療科が印字され、受診日を図書カードのように手書きで下のカラムに記入する。この鮮やかで毒々しい緑色のB5用紙半分くらいの大きさの厚紙できた若干レトロな仕様のパスカードがないと入れない。有輝がこのパスカードを手に入れたことで、今までは立ち入り出来なかった未知の建物に2人は入れる切符を手に入れた。普段よりも好奇心が弾ける2人は、早速院内バスでこの建物に向かった。

建物を入ると、他の建物と違い、お店がなくて、関門のように受付窓口がある。子供2人とはいえ、優愛と有輝には「私達はここに来て当然」というオーラが漂う。2人とも、実に堂々と胸を張って、顎を上げて実家に戻って来た時の安堵と、久々の帰省に伴う非生活空間に足を踏み入れた若干の緊張感が漂う。手書きの受診日日程だけ指で隠れて、受診月が見えるように、堂々と有輝が緑のパスカードをかかげた。短髪のブロンドに赤みがかった濃いめのグレーの目をした若干フクヨカでおっとりしてそうな受付もこの2人がここに来る必要を疑わず、有輝の質問に答える。

有輝「遺伝カウンセリング室はどこですか?」
受付「このまま右にずっと進むと、外来抗がん剤治療を受けるケモ室があるわ。それを通り過ぎて、さらに真っ直ぐ突き当りまで進んだら、突き当りを左に曲がって。左に曲がると、10mくらい何も無い廊下を進むと、その奥に待合の椅子が並んでいるけど、椅子の向かいの壁には何も置いていないから、車椅子で待つのにちょうどいいわよ。少し歩くけど、気を付けて進んでね。」
有輝「ありがとう。綺麗な目ですね。」と笑顔で御礼を言いながらコメントする。
受付女性は笑顔に明るさが増して答えた。「私の目? 珍しい色でしょ。私の目の色はね、着る服の色で変わるのよ。今日はグレーの瞳だけれども、日によっては青や緑のこともあるのよ。」
有輝「そうなの? 今度また来る時に眼の色を見るのを楽しみにしてるよ。」
受付女性は穏やかながらも、何かを悟ったような深みが滲み出て、直ぐに笑顔に戻った。
受付女性「今度来る時は何色が見たい?」
優愛と有輝はハモった「緑!」2人は笑顔でお互いを見つめて笑った。
有輝は続ける「緑の目に額に傷は、好きな本の主人公の特徴なんだ」
受付女性「予約日が分かったら、帰る時に教えてね。その日は緑の目になる色の服を選んで着るわ」
「ありがとう」またまた有輝と優愛ハモった。
優愛は「優しいね。お名前は?」と尋ねると、「ホープよ。私の名前はホープ。名前負けせず希望や笑顔を増やしたいわ」と優しそうに微笑む。
優愛「ありがとう。光も希望も増やしてくれてるよ。次来るのを楽しみにしてるね。」

そして、大きな笑顔で有輝と優愛はホープに手を振り、廊下を進んでいく。

受付の前を曲がって、外来入口方面に進むと、1mくらいのところに自動販売機が3つ並んでいる。一つは飲み物専用、次がスナック菓子専用、そして3つ目がアイス専用。

2人は一本づつアイスを買った。有輝はチョコミント、優愛はレモンシャーベット味。2つとも、プラスチックの棒にフランクフルトのようにアイスがついている。個包装のビニール袋から出して、優愛がレモンシャーベットをシャブリ、有輝がチョコミントに齧り付こうとした。

その時、ハッとしたように有輝が優愛に聞いた。「一口いる? 私が口つけちゃうと、感染リスクあるから、優愛食べられないでしょ? 欲しかったら、一口だけあげるよ。」

優愛「じゃぁ、もらう〜」キャピキャピした感じに、目を輝かせた。

有輝「一口だけだよ。本当に一口だけだからね。」ちょっと不安が混じった、ハッキリした大きめの声で念を押す。

優愛「大丈夫。全部食べたりしないから。一口だけね。」ハニカミ笑顔が可愛い。

そうして、優愛は大きく口を開け、でも思いとどまったように一旦口を閉じた。今度は小さめに口を開けて、チョコミントを小さくかじった。

優愛も2種類のアイスを食べられることに満足しながら、姉の優しさの余韻という名のチョコミント味を満喫した。

有輝は付け加えるように、「ね、優愛。私の分もレモンシャーベット一口残しておいてね。あんたが食べ終わったら私味見したいから。」

優愛「え? お姉ちゃんの分残したら、食べ終わってはないけどね。イイよ〜。一口残しておいてあげる。」

そういうと、優愛はクスッと笑いながら、有輝にウィンクをした。

その後、優愛がレモンシャーベットアイスを舐めながら、有輝もペロッと溶けたりしないようにチョコミントを舐めた。有輝が片手で車椅子を押しながら、少し奥に進んだ2人は、その場で止まって、各々のアイスを目一杯堪能した。

有輝は最後の一口にレモンシャーベットアイスを優愛からもらって、自販機脇のゴミ箱に駆け寄って、ゴミを捨てた。

ケモ室を背に、受付方向に自販機の方にかけて行く途中、受付のケモ室と反対側左方向に50mくらい進むと、そこには部屋が2つと待合椅子が並んでいることに有輝が気がつく。

有輝「ね、あっちはなあに?」

ホープ「あっちは放射線科外来と骨髄移植外来よ。必要なら、きっと先生から説明があるわよ。」

有輝は「あっちも色々あるんだ。」と興味津々。

ひとまずは、ケモ室ともっとずっと奥にひっそり隠れたように存在する遺伝カウンセリング室へと向かった。

さらに、右奥に進んで、突き当りを左に曲がると、部屋が一つだけあった。これは遺伝カウンセリング室だった。

他のエリアからは待合室も見えない。そして、ケモ室前にもトイレがいくつもあるが、この遺伝検査室の待合室奥にもトイレ個室が一つだけあった。遺伝検査はかなりデリケートな内容だ。自分のことだけではなく、家族とも関わる場合もあるかもしれない。たとえ、患者1人に突発的に起こった遺伝子の変化であっても、調べなければそれを家族が受け継いでいないことが分からない。なので、とにかくプライバシーに極力配慮された造りにしているようだ。

好奇心旺盛な有輝と優愛だったが、色々考えて、場所の下見だけで満足した。部屋の中は受診時に見れば良い。

放射線治療や放射線を使う検査施設から外来施設やがん治療棟から院内の定期バスが走っている。

受付を通り過ぎて50mほど左手に進むと、そこには放射線科の診察室があった。放射線治療前やその途中、終了直後に診察を受ける放射線科の診察室は、病院の他の施設からは少し離れた人通りが少ない建物に作られている。抗がん剤や放射線治療中に免疫が落ちることや、放射線治療を抗がん剤治療と組み合わせる患者さんも多いことから、この2つの部屋は同じ建物に設けている。(放射線治療は少し離れた建物の地下に設けている。ここは、一般的な放射線治療室、ガンマナイフ室、陽子線室など様々な種類の放射線治療用の部屋が各々別々に作られている。大きな地下の廊下を進んで、右に曲がってさらに100mくらい進むと、PET-CTやCT、レントゲンなどの撮影施設が並んでいる。ここから車で5分くらいの所に、他の外来が共存する建物が建っている。広大な病院の敷地内には様々な施設が立ち並ぶ。)

骨髄移植は超大量抗がん剤±放射線で患者本人の骨髄を破壊して、ドナーさんの造血幹細胞を輸血のように点滴して移植することが多い。移植の時は、免疫が全く無くなるので、無菌室に入る。

(今でも一般的に骨髄移植と呼ばれるものの、現代では大半が末梢血造血幹細胞移植という血液に呼び出した骨髄の血液工場のような細胞を移植したり、産まれた直後の赤ちゃんの臍帯血を捨てずに移植できるように加工して移植する。)

実際には、腰骨から大きな針で骨髄液を吸い出して使用することが減り、末梢血造血幹細胞や臍帯血の造血幹細胞を移植することが増えたので、以下骨髄移植ではなく、造血幹細胞移植と呼ぼう。

今でも看板は骨髄移植外来となっているが、ここは造血幹細胞移植の事前説明やドナーが見つかったか、等の様々なことを聞く部屋になる。

移植前は抗がん剤治療を継続しながら寛解維持できている人もいれば、寛解前の人もいる。外来に来れる人でも、移植前に感染してしまうと、移植が延期になるので、感染予防は死活問題だ。

だからこそ、骨髄移植外来という名の造血幹細胞移植外来も、遺伝子カウンセリング室同様に他から離れて奥まった場所にある。

有輝と優愛は、左右対称に作られた建物の放射線科外来(右ではケモ室の場所)を通り過ぎて、それまで一度も入ったことがなかった骨髄移植外来(右では遺伝カウンセリング室)の前で停まっていた。ちょうどその時、骨髄移植外来に訪れたのがティモシー(通称ティム)だった。ティムは年齢には早そうな真っ白な白髪の頭と綺麗に剃った色白の顔をして、濃茶の年代物だけど立派な生地のスーツを纏っている。その彼の腕を両腕で大切そうに抱いて一緒に歩く女性は、鮮やかな花柄が目立つ大きな大きなスカーフを頭に巻いて、黄色のワンピースを着ている。2人はゆっくり踏み締めるように、穏やかな足取りで骨髄移植外来に向かって歩いて来る。ちょうどその時に、綺麗に輝くスキンヘッドに大きくて色鮮やかなアゲハ蝶を描いた車椅子に座る優愛と、その直ぐ後ろに立って車椅子の上から覆いかぶさるように立っている2人を見かけた。どうやら、幼く見えるこの2人組は、部屋を覗いてから入ろうとする空き巣のような姿勢で、好奇心とイタズラ心が垣間見える瞳をキラキラ輝かせている。

「そこの若いお二方、ここに来るには随分と若そうに見えるね。」と、ティムは穏やかでゆったりした口調で、しかしイタズラ小僧を温かく見守る近所の駄菓子屋店主のような眼差しで問いかける。

次話に続く

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