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意識的に自分の殻を壊す 私の習慣 その1 当たり前過ぎて意識しなくなっていること

 そもそも私はとても保守的な面を強く躾けられていました。子供としてもちと固かった。(笑) 
 例えば母の友人でも有り同級生でも有った友達の家に遊びに行った時のエピソード。おやつを出してもらったのですが、私が
「食べて良いか母に訊かないと食べられない。」
と言ったそうです。事程左様に固い感じ。
 それを見かねたその母の友人が小学校2年生の夏休みに博多への帰省に私も誘って下さいました。東京駅で見送られた時はワイシャツに紺の半ズボン。東海道新幹線からできたての山陽新幹線の終点岡山まで。

 そこから夜行寝台“月光”で博多に早朝到着。小倉辺りでの真っ赤な朝日が眩しかった。

その日から2週間、九州男児に矯正されました。私自身、その母の友人の方の趣旨は良く理解していました。ですからやったことの無いことを積極的に何でもやってみたのです。

楽しかった

 昼は駄菓子屋で爆竹や癇癪玉を買って鉄道高架下の反響の効く場所で遊び、

 そもそも駄菓子屋自体も禁断の場所でした。祖母からお手伝いをすると貰えたお駄賃を貯めて、祖母の家から1分の自家製パンやアイスクリーム、お菓子を売っている店(梅花堂という何とも粋な名前のお店でした。)でホームランバーというアイスを買うのが精一杯(笑)
 ですから博多の駄菓子屋さんはワンダーランド。

 一週間遅れて帰省しできた友人の従兄弟で少し歳上姉弟とアーケードゲームやジューク・ボックスで最新の洋楽を楽しんだり。

ビートルズもミッシェル・ポルナレフもこの時知りました。

 この洋楽デビューは、友人の従兄弟(いとこ)姉弟のお姉さんの影響。英語系の女学院大学の付属中学校の学生さんで英語番組を視聴するという小学校2年生の私から見れば別世界のインテリに見えました。当時流行っていた貸本屋から洋楽雑誌を借りてくる姿はとても良い知的刺激になりました。

 佐賀の山までドライブしてハイキング。また志賀島まで生まれて初めての船で行き、海遊び。サザエをバケツ一杯買って、贅沢にも肝は捨てて身だけをむさぼり食う。

夜は花火や帰宅したおじさんにオイチョカブ、花札等を教えて頂きました。確か10円玉とか使って賭けてやったかと。

 2週間後に東京駅に到着した時は、Tシャツにゴム草履を紐で縛って肩に掛けての帰還。

 母親はあまりの変容にびっくり。

これが初めての意識的に自分の殻を壊す習慣の始まりでした。

 これ以来

意識的に自分の殻を壊す

という私の習慣は定着していきます。

つづく 


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