【アカデミア】大学の先生には、自分の専門の話をもっと自信と誇りをもってしてほしい
専門の話をしない先生たち
必修科目で、英語のリーディングを教わっていたときのことだ。
その先生は大学院の授業も持っていて、複数の学会で理事などの偉い役職を担当していて、しかも学部生に英語だけではなく、教育学を教えている先生がいた。
その先生は、初回授業のとき、こう言った。
「原田です。リーディングの授業を担当します。よろしくお願いします。」
専門や研究の話は一切なく、そのまま授業が続行され、1学期間先生の専門や研究の話を聞くことはなかった。
せっかく、いろいろな学問が出会う場所である大学に入ったのに、がっかりした。
その先生が専門の話をしなかった理由
後日、私はその先生に「なんで専門の話をしないんですか」と聞いた。
「学部生の1年生に話しても、理解されないと思ったので」と言われた。
理解なんて求めていない。
「こんな世界があるよ。私と一緒に行こう」とガイドしてほしかった。
たとえば、TESOL(彼の専門分野。英語を外国人にどう教育するかといった内容の学問)の専門です、とひとこと言ってくれるだけで良かった。
そうしたら、「自分もTESOLに興味があるんです」という学生が要るかもしれないし、今後TESOLをなんらかの方法で習ったときに、「そういえばあの先生が面白そうにTESOLの話をしていたなあ」となったかもしれないのに。
その先生は、TESOLに学生が触れるためのひとつの機会を逃している、もったいないことだと思う。
結局、私は先生の研究室に押しかけて、TESOLの面白さを語ってもらった。研究室で個別に対応するのは嬉しそうだった。ならなんでみんなの前で研究室の番号とオフィスアワーを言わなかったのだろう。
大学の教員は、自分の専門に誇りを持ってほしい
今度は、また別の英語史(言語学のひとつの分野)の先生の話だ。
その先生も、例のごとくリーディングの授業で、一切専門の話をしなかった。
「大崎です。よろしくお願いします。」と先生が言ったので、今度はすかさずみんなの前で私はこう聞いた。
「先生のご専門はなんですか?」
彼女はこう答えた。
「生成文法という分野ですが、結構難しいし、とっかかりにくいです」
たしかに生成文法は難しい。でも消え入るような声で「誰も興味ないかもしれませんが」と言ったときにはびっくりした。
アカデミアはストレスフルな環境だし、生活の余裕がないこともよくわかっている。
ただ、先生には「生成文法ってこんなに面白いんですよ」って延々と(授業時間の制約があるので実際はそうもいかないが)語るくらいの力があってほしかったなあ、と思う。
大学の教員は恥ずかしい仕事ではない
そもそも、職業に貴賎はないので、恥ずかしい仕事というものはない。
ゴミ清掃員などを「社会の最底辺」として扱うひとはいるが、そもそもゴミを投げ捨てるひとと、街にあるゴミを拾う仕事をしているひとと、どちらがすごいことをしているか考えればわかることだろう。
アカデミアを見ていると、自分より優秀なひとがたくさんいるから、自分なんかが専門を熱く語っていいのかと思うひともいるかもしれない。
ただ、研究というのは、自分にしかできないことをしているからかっこいいし、自分にしかできないことをとことん追求するのが楽しいというひとがいちばん向いている仕事だと思う。
会社の利益のためでも、故人の利益のためでもなく、社会に研究成果を還元しようとしている。直接それが生きることは少ないかもしれないが、社会を豊かにしているのは、研究の成果のおかげだ。
だから、恥ずかしがらずに、専門のことを自信を持って楽しそうに語ってほしい。
自分が世界一その分野を愛しているのだという自信があると、研究生活はうまくいく
まだ学部生なのにここまで偉そうなことを書いているが、今後もそのような偉そうなことが続く。
研究というのは、自分にしかできないという自負のもとに行われる。
私がこれについて世界一詳しくて、世界一この分野を愛している。
そう思うことは傲慢なことではないし、それくらいの愛を持って研究できたら幸せだろうなあと思う。
なかなか難しいこともあるし、日々忙しいし、お金や時間や若さを失っていくのはこたえるものがあると思うが、研究とは本来楽しいものであって、それを楽しめるようなこころの余裕がないようなアカデミアが本来おかしいのかもしれない。
アカデミアではプライベートな生活など一切考えられていない
女性なら、出産することもあるかもしれない。
高齢の親を介護して看取ることだってあるかもしれない。
プライベートで世界一周旅行をするのが夢だと思っている研究者の方もいるかもしれない。
そういったものは、アカデミアのひとの進路として考えられていない。
妊娠出産をアカデミアのキャリアと両立させるのは果てしない困難を伴うし、介護なんてしている時間はないし、世界一周だって定年後のお楽しみになってしまいがちだ。
アカデミアでの生活はもっとゆっくりで、こころの余裕があるものであるべき
これは誰かひとりのせいではないが、アカデミアの世界では、ひたすら高いレベルが求められる。
もっと完璧にやれ。
もっと量を書け。
もっと質にこだわれ。
もっとたくさん成果を出せ。
もっと科研費を稼いでこい。
ただ、アカデミアで働いているひとたちはロボットでも競走馬でもなく、ひとりの人間だ。
疲れることだってあるし、辞めたくなることだってあるし、ときには落ち込むことだってある。
アカデミアのこころの余裕がなくなってくるということが、「自分の専門を誇れないアカデミアのひと」を生み出すひとつの原因であるように思う。
自分の専門を誇れるようにするために、教員自身がもっと胸を張ってほしい
完璧でなくていい。
全知全能でなくていい。
なにもかも知っていなくたっていい。
わからないところがあったっていい。
難しいなと思ったっていい。
それでも、自分が選んだ専門を、嫌いにならないでほしい。
教員が「こんなつまらない分野なんて誰も興味ないと思うけど」と言ってしまうことは、将来アカデミアで一緒に共同研究する仲間を減らしてしまうと言ったら過言だろうか。
就職する学生が圧倒的に多いのだから、大雅楽の学部でアカデミアの楽しさを教えるべき
私は、アカデミアに行くひとがもっと増えてほしいとか、就活なんてしなくていいとか、そういったことが言いたいわけではない。
多くのひとは、大学の学部を終えるとともに就職して、一般企業に入って、アカデミアとか研究とか論文とか、そういったものから遠ざかってしまう。
それは悪いことではない。
大学の学部で教えてほしいことというのは、具体的にはこういったことだ。
「大学院というものがこの世にあって、それは楽しい場所だ」
「アカデミアというのは、こういった理由でやりがいがあって楽しい」
「アカデミアという選択肢だってある」
大学の学部で学生に教えてほしいことの追加
あるいは、こういったことも時間の許す限り教えてほしいと思う。
「論文はこうやって読む」
「正しい引用の仕方はAPAマニュアルに従うとこう」
「この文章は引用がなっていないから信頼に値しない」
「WikipediaやYouTubeは引用元としてふさわしくない」
そもそも、論文の書き方や読み方を知らずに、学士号を出してしまうのはどうかと思う。
アカデミアのストレスフルな環境が、先生たちの専門を誇れなくしているのか?
アカデミアは楽な場所ではない。
競争社会だし、ストレスフルな環境だし、トラブルは絶えない。
だから、先生たちが最初は自分の専門を誇らしいと思っていたのに、次第に情熱を失っていくのだとしたら、それはすごく悲しい。
あるいは、学生自身が授業をちゃんと聞かないで、不正行為をしたり、あるいは怠惰だったりすることに起因するなら、それも悲しいことだ。大学は学ぶための場所なのに、それができていない学生がいて、教員がそれに影響されるなんて。学びたい学生にとっては、ただの迷惑でしかない。
世界一の愛を学生にぶつけてほしい
まとめると、要は「自分の専門を世界一愛している」ということを、学部生にちゃんと伝えてほしいということだ。
たとえ彼らがアカデミアを選ばなくても、一生の思い出になることだろう。
学問の楽しさ、やりがい、面白さといったことを一番知っているのは、大学の教員だと思う。
その熱意を学生にぶつければ、きっと学生も教員も得られるものが多いだろう。
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