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『私の勝手』


『私の勝手』


クラシカルな雰囲気の純喫茶で固めのプリンを食べているとき、右斜前のソファ席に座った中年男がスマホを見ながら、偉そうにふんぞり返っていた。
遮光器土偶のような顔の五十半ばの男である。男は額から後頭部にかけてハゲていて、闘牛の顔が散りばめられている変なデザインの黒のパーカーを着ていた。また、奥さんと思しき中年女が男と差し向かいに座り、爪をいじりながらうつむいている。

すると、店員の女がメロンクリームソーダとマンゴーミルクをお盆に乗せて彼らの席に近づいてきた。妙におどおどした、目の上で横一直線に前髪を切り揃えた丸顔で黒髪の女である。床に足を擦るようにしてちまちま歩くその女の動作は些か鈍く、顔も何だかぼんやりしていて頼りなかった。新人なのかもしれない。女は男の背後から遠慮がちに、

お待たせいたしました。
お客様ー。
こちら…あっ。

と言うと、お盆が斜めになり、男の後頭部に飲み物をひっくり返した。ガガシャンという音がして、飲み物が派手にテーブルと床に散らばった。無論、男のハゲ頭と黒のパーカーもびしょびしょである。
すると、男は口から唾を飛ばすような語気で、

おい、何やってんだ。うすのろ!
冷たてーな。背中も濡れたじゃねーか。
あー、このパーカー、おろしたばっかりなのに、何してくれてんだよ。ぼさっとしてねーで、
拭くものを早くもってこいよっ!


そう言うと、如何にも苛立った感じで女をにらみつけた。男は分厚い下唇を突き出して激昂している。
ソファから腰を浮かした奥さんは狼狽し、バッグからハンカチを取り出すと、それでテーブルに散らばった液体や砕氷を包み込むようにして拭いていた。


私は、「あーあ、店員さん、やっちゃったな。なんか危ない感じだとは思っていたけれど、まさか本当にやってしまうとは。でも、わざとやったわけではないだろう。誰だってミスはするんだ。おい、おっさん。今回は大目に見てやってくれよ。そんなに目くじらを立てて、鬼の首をとったように店員さんにキレるのはみっともないよ。苛立つ気持ちはわかるけどさ、いい歳の大人なんだから、もっと寛容な態度で接してやってくれよ。心に余裕を持ってさ。あー、こういう男を見ていると胸糞が悪いよな…」


などと思っていると、他の店員が飛んできて、男に平身低頭して謝っていた。女は今にも泣き出しそうな顔になりながら床にしゃがみ込み、草むしりをしているような体勢で、床に散らばった割れたグラスの破片やスプーンなどを素手で拾っている。
私は女の丸めた後ろ姿が小さく見えて、わびしい気持ちになった。男は、「おねえちゃん。もういいよ。危ないから手で拾うのはやめなよ。今度から気をつけてね」などと優しく言うのかと思いきや、


あたまおかしーんじゃねーの!常識的に考えて、俺の背後から飲み物を持ってくるやつがあるかっ。


と言って、高圧的な態度を崩さずに興奮しており、煤煙のような黒い目で女のことを熟視している。
男のせいで、店内が変な空気になっていた。
私の席の前方にあるスクリーンには映画『ナイト・オン・ザ・プラネット』が無音で映されているが、それを私の後ろの席にいる大学生カップルが冷凍シマチョウみたいな顔をして、無言で眺めていた。

おーい、おっさんよ。あんたのせいで、店内の空気が最悪になっているじゃないかよー。後ろの大学生カップルも怖がってるって。あと、ジム・ジャームッシュにも謝れよ。いいムードが台無しだよー。


と思っていると、私は男の黒のパーカーのフードのなかに白いものが入っていることに気がついた。よく見ると、それはメロンクリームソーダにのせていたバニラアイスである。偶然にそれがパーカーのフードのなかに入ったらしい。しかも、真っ赤なチェリー付きである。男は、おしぼりで頭と顔と背中を拭いていたが、そのことに気づいていなかった。

私は、「ざまーねーな、おっさん。あんたはフードのなかのバニラアイスとチェリーに気づかずに店を出て、街を歩くんだ。そして、何かのタイミングでフードを被ったときに、溶けたバニラアイスがあんたのハゲた後頭部にべっちょりと付着するんだよ。そして、あんたはふたたび憤慨するんだ。あんたの怒りは今この瞬間だけじゃないからな。ひひひ」

などと思いながら、固めのプリンを食べ終え、残りのアイスコーヒーを飲み干してから店を出た。
これから、私は予約していた美容室へ行く。ホットペッパーで見つけたはじめて訪れる店である。
美容室では、素人が作ったこけしみたいな顔の女が私の担当になった。接客が丁寧であり、話しやすかった。そして、いい感じにカットしてもらい、帰るとき、私は受付で女からコートを着せてもらった。
右袖から手を通し、左袖にも手を通そうとしたが、どんくさい私は何度も左手が空振りしてしまった。しかし、女は、「あははっ。ゆっくりで大丈夫ですからぁ〜」と明るく言って、微笑んでいた。

外は小雨が降っていた。私は、先日、買ったばかりのこのお気に入りのコートを濡らしたくなかったので、徒歩ではなくてタクシーで家に帰った。
そして、自分の部屋の襖をぴしゃりと閉めて、コートを脱ぐと、コートの両肩に美容師の女の手の跡がべっとりとついていたのである。女はヘアワックスでベトベトに汚れた手でコートを掴んでいたのだ。


激昂した私は、コートを絨毯の上に思いきり叩きつけると、自転車のハンドルグリップを握るような変なポーズをとって煩悶しながら、目を剥いて、

あの女、やってくれんじゃねーかっ!
あー、このコート、おろしたばっかりなのに、何してくれてんだよ。何万したと思ってんだ、クソ野郎。あたまおかしーんじゃねーの!
常識的に考えて、ベトベトの手で客のコートを触るやつがあるかっ。一回、山に埋められてこい!


などとひとしきり美容師の女の悪口を吐き出すと、溜飲が下がった。そのとき、私ははっとした。
私はさっきのあの中年男とほぼ同じことを言っている。自分のことは棚に上げて、ああいう愚かな男を見ていると胸糞が悪くなるなどと非難していたが、私もそういう男と大差ないみっともない男だった。世の中には、自分のことがあまりよく見えていない人間が多いように感じるが、私もそういう人間のひとりだったのである。私は、ワット数の低いオレンジ色の天井照明の光を見上げながら反省した。そして、台所へ行き、欠けた茶碗でお粥を食べた。


          〜了〜



愚かな駄文を最後まで読んでいただき、
ありがとうございます。
大変感謝申し上げます。


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