「隣国に他陣営の軍事的脅威が来そうなので」「敵側が攻撃してきた体の口実で開戦」「楽に制圧できると思ってたのに、敵国が他陣営から無限の供給を受けるので苦戦して長期戦」 どこかで見た歴史だ……ううっ頭が……。
盧溝橋事件からの日中戦争で、出兵する祖父に対する送辞が見つかった。祖父はその後無事に帰り、長男、次男にも大東亜戦争時に赤紙が来たらしいが無事帰った。我が家系は偶々運が良かったのだと思う。 父方母方、両方とも祖父たちは帰ってこれた。帰って来なければ父母も私もこの世にいない不思議さ。
満州エリアでの、共産党軍(ゲリラ)の活動は、めざましく1936年9月から1937年4月までに、関東軍は765回もの攻撃を受けたようである。 こういう経緯があった後の盧溝橋事件であったということを理解すべきである。
1932年の満州事変後の満州での【抗日運動】への展開に関しては、第12回プレナムにおいて、【【コミンテルンの指示】】で、中国共産党が【抗日活動】を展開させていくことになり、1935年の8.1宣言を経てさらに強化されていく。その流れで1937年の盧溝橋事件は起こるのである。
当方の記事の中で、閲覧のトップになりましたな。 読んでもらえたことは、ありがたいことです。 第二次世界大戦への流れ「日中戦争」 ー中学生向けの日中戦争の流れー https://note.com/jojjjsssjjjoj/n/n4b4b38e9827a
盧溝橋事件後、日本は不拡大方針と軍の増派を同時決定した。この軍の増派が中国側を刺激した、従って日中戦争の開戦責任は日本側にあるとする論調が今も根強い。しかし中国側の過去の行動から居留民への危害が及ぶのは容易に予想されたわけであり不拡大方針と軍の増派は矛盾しない当然の決定であった。