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小磯良平「娘子関を征く」・鑑賞編~戦争画よ!教室でよみがえれ⑧

戦時中に描かれた日本の「戦争画」はその出自のため未だに「のけ者」扱いされ、その価値を語ることを憚られている。ならば、歴史教育の場から私が語ろうではないか。じつは「戦争画」は〝戦争〟を学ぶための教材の宝庫なのである。これは教室から「戦争画」をよみがえらせる取り組みである。
 目次
(1)戦争画とは何か?
(2)わたしが戦争画を語るわけ
(3)戦争画の鑑賞法
(4)戦争画を使った「戦争」の授業案
(5)「戦争画論争」から見えるもの
(6)戦争画による「戦争」の教材研究
(7)藤田嗣治とレオナール・フジタ

(4)小磯良平「娘子関を征く」・鑑賞編ー戦争画を使った「戦争」の授業案

小磯良平『娘子関を征く』1941

 タイトルにある「娘子関」は何と読むのか?

 初めて、この『娘子関を征く』を見たときに思ったのは「これ何て読むんだ?」であった。調べてみると・・・「娘子関」は「ジョウシカン」と読む。

 何よりも印象的なのは、黄色味がかったというか黄土色というか、この絵の色調だ。私たち日本人には異質な黄色・黄土色の世界である。そこに軍服のカーキ色が溶け込んでいる。

 緑のない黄土色の山やそこから伸びる万里の長城(?)的な建造物を見ればここが中国大陸であることがわかる。そして「〇〇を征く」というタイトルから娘子関が地名であることも予想できる。

 もしタイトルが漢字でなかったらこの絵の風景をエジプトなど中東の国々であると感じる人もいるかもしれない。それほどに私たちの住む日本とは違う風景である。日本人にとって山の色といえば、木々の緑、川や湖の青だろう。絵の中に描かれた山、建造物そしてその色調だけで、ここが日本とはちがう遠い異国の地であることが伝わってくる。

 画面を見ると日本軍の兵隊さんと馬が描かれている。足もとは石畳。兵隊さんは重そうな背嚢を背負い、銃を持っている。だが、その立ち姿は何ともノンビリしていて、町内で挨拶を交わすおじさんの顔である。そのノンビリ感は尾っぽを降る馬の後ろ姿にも表れている。牧歌的で誰が見てもほっこりする風景だ。

 異国情緒の中のほっこりする情景―ほっとするような素朴な安心感がこの絵の魅力だ。居間に飾ってもいいなあ、と思わせるやさしさがある。

 ちなみに小磯良平はこの絵を完成させて3か月後に『斉唱』という作品を描き上げている。どちらも群像画であり、画面構成が似ていることからこの2枚はよく比較されるようだ。

小磯良平・斉唱

 タイトルには「征く」とある。「行く」でもないし「往く」でもないことに注意しよう。「征く」には「遠方へ行く」「敵を討ちに行く」などの意味がある。ということはこのノンビリ感はすでに大事な戦闘が終了してホッとしているのところなのかもしれないし、これから戦闘地域へと向かうその途上にあるつかの間の休息場面なのかもしれない。

 1937年7月7日の廬溝橋事件に端を発して日中戦争が始まった。連戦連勝の日本軍は約2か月後には山西省の太原まで占領している。

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 この絵で描かれている娘子関で太原攻略作戦の戦闘が行われた。太原は人口20万の中国を代表する商工業都市。古くより娘子関はこの太原を守るための要害の地で山地を利用した陣地を構築した「東の守りの第一線」だった。

 太原を攻略する主な目的は、ここに住む中国民衆に日本軍の善政を浸透させ、万里の長城以南の北支(現在の華北地方。河北省・チヤハル省・山西省北部など万里の長城に近いところ)に親日政権を作ることにあった。

 そう聞くと、この絵の上部に描かれている建物は「万里の長城では?」と思うかもしれないが、違う。ただし、違うがここ娘子関は万里の長城から遠いところでもないと言ってもよいかもしれない。

 ちょっと中学・高校で習った世界史をおさらいしよう。

 万里の長城は南の漢民族が北からの外敵の侵入を防ぐために造られたものであること皆さんもよくご存じだと思う。ということはこの万里の長城よりも北側(一般的な地図でいえば上側。漢人から言えば外側)は異民族の地。ここには漢人とは別の満州人が住んでいた。その満州人が作った国が清だ。満州人は長城を越えて漢人を支配し、清を建国した。そしてその清の滅亡後にできたのが中華民国である。

 つまり、古くは万里の長城を境目にして北と南はまったく別の民族が住んでいたということになる。これは、当時の日本と中国の関係を考えるときに重要な地理感覚になる。

 絵の中の娘子関はこの万里の長城にほど近いところにあり、日本軍がこうした風景の中で戦っていたことをまずは理解しょう。ただ単に「日本が中国で戦争をした」という具体性もなにもない貧弱な認識では正しい理解に到ることはできない。歴史的な風景をもとにした正しい戦争イメージを持つことが重要だ。

 話を戻す。

 ところで、万里の長城は6352kmもの長さをもつ壮大な古代建築である。約2000年にわたって造られたというのだから気の遠くなるような話だ。

 長城は、満州と境界を接する河北省の海に突き出た東端の山海関をスタート地点とすると西へ西へと延びていく。途中、河北省の北西で接するチヤハル省との境で二つに分岐し、一方はいわば本ルートとしてそのままさらに西へ。もう一方は南へと下降していく(これを内長城線と呼ぶこともある)。南下ルートの長城は今度は河北省の西隣にある山西省との境目で再び分岐する。一つは西へ延びて1回目に西へ分岐した本ルートとぶつかって接続。もう一つは再南下して途中で終わる。この再南下ルートがそのまま河北省と山西省の境界線と重なっている。
 
 アバウトな説明だが、この再南下ルートの終点に近いところに娘子関があるとお考えただければいいかと思う。そして、そのさらに西に目標の太原がある。

 ここまでの説明を読んだだけでも相当な山奥ではないかと想像できる。もう一度、絵を見てほしい。左上部は白茶けた険しい山。その山にへばりつくように石造りの建物が建てられている。右にも山が見え、その前方に大きなアーチのようなものがある。ここが大陸の山間部であることはわかる。ただし、山間部といっても日本の山のように木々が茂る緑豊かな自然ではない。河北省と山西省の境目には1000m級の山が400kmにわたっていて、黄土地帯の険しい峡谷があり樹木はあまり生えていない

 日中戦争の一つの大きな局面はこうした山間部での戦闘にあったことがイメージできることが肝要である。その意味でもこの絵はとてもいい教材だ。

 娘子関を攻撃する日本軍は約2万。迎え撃つ中国軍は約10万。ちなみに日本軍と中国軍の兵力差はいつも大きな開きがあるのだが、ほぼ100%日本軍の勝利に終わっている。無論、苦戦したことがないわけではないが、日本軍が圧倒的に強かった。

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 さてこの時、日本軍は正面からの攻撃を不利と見て左側に迂回し背後へと回って攻撃した。するとあっという間に中国軍は全面後退。そのまま追撃した日本軍は、娘子関とは別ルート太原に迫る別部隊とともに約10日後に太原を占領した。

 この絵のノンビリ感はここまで連戦連勝の日本軍の士気の高さからきているのかもしれない。この絵に描かれたような風景が連日の行軍で疲れ切った体を休める絶好のロケーションだったのだろう。

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