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九十六話 盧溝橋事件当事者

 貨車内は、藁が深々と敷き詰められていた。
 「釜山で乗った時と一緒だ」と浅井は思う。それもあってか、座る場所を寺尾兵長の隣にとった。これまた、釜山の時と同様である。

 列車は、本線に戻ると西へ進む。山海関を通過して天津へ。下車命令はない。浅井らは、すでに一号作戦に突入していた。

 天津から北京へ近づくと、寺尾兵長が現役兵だった頃の話を始めた。支那事変の発端となった盧溝橋が北京郊外にあったため、その頃のことを思い出したと言う。
 自身の大好物な話に、浅井の目がピカッと光った。

 盧溝橋は、金代、明昌三(一一九二)年に完成。北平(北京)から西南西へ四駅、豊台区を流れる永定河(旧称・盧溝河)に架かり、全長二六六・五メートル、十一幅、各十一メートルからなる石造りのアーチ橋だ。
 西欧では、マルコ・ポーロが訪れ、自書『東方見聞録』第四章で「世界中どこを探しても匹敵するものがないほどの見事さ」と紹介したことより、Marco Polo Bridge(伊:Ponte di Marco Polo)と呼ばれている。

 兵長曰く、盧溝橋がある永定河一帯は、広々とした河原。小石が混じる砂原すなはらが広がり、所々に背の低い楊柳が生えていたそうだ。このため、軍事演習に最適で、豊台の第三大隊及び歩兵砲隊は、ホームグランドとして常用。北京の第一大隊も度々演習しに来ていたと言う。

 時は、昭和十一(一九三六)年。支那駐屯歩兵第一聯隊創設の年。
 聯隊は、初代聯隊長の牟田口廉也大佐が率いていた。麾下の信頼も厚く、少佐時代にはカムチャツカ半島に潜入し、縦断調査に成功した経験を持っている。
 また、豊台に駐屯する第三大隊、約九百名を率いていたのは、一木清直少佐。陸軍歩兵学校の教官上がりで、指導の評判がよく、人徳もあった。

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