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エッセイ 戦争への分岐点(降る雪や 昭和は遠く なりにけり)

11(いちいち)に 22(にに)を足せば 6となる 昭和の歴史 忘れじ と思う

1+1+2+2=6。この判じ物のような文章は一応短歌である。出て来た数字を並べると
11226   昭和11年2月26日の数字だけを並べたものである。昭和11年2月26日。2・26事件の起きた日である。私は時々2・26事件の起きた年がわからなくなる。それでこの短歌を作った。たまたま年月日が1+1+2+2=6になっていることに気づいたので、面白半分に作ってみたのである。
 2・26事件は昭和史のターニングポイントとよく言われる。2・26事件を期に、日本は戦争に突き進んでいくようになったと。確かに翌年の7月には、盧溝橋事件が勃発し、中国との戦争が始まる。そしてそれが太平洋戦争につながっていく。
 しかし、満州事変が起きたのは昭和6年である。2・26事件より5年も前である。2・26事件をターニングポイントと考える見方は、満州でのことは太平洋戦争には繋がっていないと考えているような感じがする。それは甘いと思う。実際、東京裁判で日本の戦争犯罪の対象にされたのは満州事変以降の行為である。中国大陸への侵略すべてが、東京裁判の対象とされたのである。
 では、朝鮮併合は問題なかったのか、台湾に対しては?と遡っていくときりがない。日露戦争は?日清戦争は?と考えていった時に、そもそも日本の近代外交はマイナスからスタートしたと考えてみたらどうだろう。不平等条約という大きなマイナスを背負って始まった日本の近代外交であるなら、それがゼロに戻ったところから、日本の近代外交を考えてもいいのではないか。となるといつか。日露戦争ということになる。
 日露戦争でロシアに勝って、名実ともに世界の一等国の仲間入りを果たした。そして1911年に関税自主権の回復に成功している。国情も、追いつけ追い越せの脇目も振らず、といった状態から、ちょっと一息つける余裕ができた状態になった。本来の日本に戻れた時期ではなかったか。
 しかしそこに長くは留まれなかった。10年後に第一次世界大戦が起きる。日英同盟によって戦争に参加せざるを得なくなる。そして、そのさなかにロシア革命が起きる。これは日本にとって脅威であった。帝政ロシアの南下政策でさえ、大きな脅威であったのに、そのロシアが社会主義国家ソ連に生まれ変わったのである。天皇を戴く日本にとって、たとえ、ソ連が直接攻めて来なくても、ソ連の影響を間近に受けて、日本に革命が起きないとも限らない。緩衝地帯として朝鮮は必須、できれば満州も押さえておきたいと思ったことだろう。この時期に日本は中国大陸への進出を企てて、いろいろやっている。対華21か条の要求、シベリア出兵・・・。
 私はこの第一次世界大戦終結の時期こそ、日本にとってのターニングポイントではなかったかと思う。一等国になって、強い軍隊も持ったのだから、そう簡単には攻め込まれることはなかったはずである。ソ連と不可侵条約を結べば、(中国大陸へは進出しないという条件で)西の憂いはなくなるし、当時まだ新興国だったアメリカとうまくやっていけば、(こちらも中国に進出しなければうまくやれたはずである)石油などの資源の問題で苦しむこともなかったであろうし、第二次世界大戦に引きずり込まれることもなかったのではないか。日本の外交力の弱さと軍隊の統帥権問題がネックではあるが・・・。
 いずれにしても戦争を起こさないためには、国同士の相互理解、相互リスペクトしかないと思う。

※私の個人的な見解を述べただけですので、歴史上の問題で事実誤認があり     ましたら、ご容赦ください。


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