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百六話 中華思想

 それにしても昭和十二(一九三七)年は、激動の年だった。
 同年七夕の盧溝橋事件が、大陸での全面戦争の発火点になったように言われているが、そもそもそれ以前から支那は日本を敗北せしめる気満々だった。

 その根底には、己が世界=東洋の中心という中華思想がある。そのため、日本がいくら協調を呼びかけても一切応じず、結果、日清戦争で敗北する。その後、日本が日露戦争に勝ち、満洲ひいては朝鮮から露西亜を追っ払うと、ずうずうしくも支那による満洲占領を主張した。そして、それが思うようにならぬと、日本人に対する数々の悪行を繰り返す。昭和六(一九三一)年八月には、青島で氷および魚類の販売す国粋会の本部を集団に襲撃。さらに、日本人女学生数十人が、ピクニック中に強姦される事件も発生し、同年九月十八日の満洲事変につながる。直後の二十二日、上海で開催された反日大会では、排日貨運動が推進され、また、日本人通学児童への投石事件も相次いだ。

 こうしたことに、当時、広東政府と何度も話し合いを行うなど、国際協調を重視した幣原喜重郎外相ですら、「支那人は満洲を支那のものと考えているが、あれはロシアのものだった。牛荘の領事を任命するには、ロシアの許諾が必要だった。日本がロシアを追い出さなければ、満洲は清国領土から失われたことは間違いない。しかし、日本は領土権は主張しない。日本人が相互友好協力の上に満洲に居住し、経済開発に参加できればよいのであって、これは少なくとも道義的に当然の要求である。また、中国がかりそめにも日本の鉄道に無理強いするような競争線を建設できないことは、信義上自明の理である」と苦言を呈している。

 なお、余談になるが、日本では三国志において、劉備玄徳が最も人気がある。人徳があるからだ。
 これが、支那だと人気No.1は、今も昔も曹操だ。巨悪、独善、我を通すからである。

 従って、こうも日支の間には違いがあり、いくら日本が東亜の団結を求めても無駄だった。加えて、支那は、軍閥割拠の内戦状態。一九二〇年代から、独逸が武器販売のため後押しするなど、その他欧米各国の思惑も当然の如く入り組んでいた。

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