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「歴史上の日付」という話_24504

「歴史上の日付」という話

2月26日とか8月15日とか、日本でも気になる日付がありますが、中国では5月4日は #五四運動 (T8-1919.5.4)となります。中華民国における対華21カ条要求についての抗日、反帝国主義運動です。

他にも、7月7日は七七事変があります。#盧溝橋事件(S12-1937.7.7)

その前には #張作霖爆殺事件 (S3-1928.6.4)や #柳条湖事件 (S6-1931.9.18)があります。

その後が #南京事件 (S12-1937.12.13)です。

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大日本帝国は、今の国際法の基となる万国公法(ばんこくこうほう)に従っていました。当時の日本が植民地ではなく主権ある列強の一となるためには、列強と同じこと――武力による不平等条約締結をする必要があった訳です。

契機は、日清修好条規(明治4年1871年)にあります。大日本帝国と清との条約の特色はそれまでの不平等条約ではなく、両国が対等関係としたことです。

これでめでたしめでたしならよかったのですが、同年に宮古島島民遭難事件が発生します。琉球王国の宮古島の島民が台湾近海で遭難し、台湾原住民によって殺害されました。これに明治政府が清に抗議します。

もうここで、ややこしいですね。「琉球が抗議するなら分かりますが、どうして大日本帝国が?」です。

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その昔、慶長14年(1609年)に薩摩藩が琉球侵攻し、尚寧王は降伏します。琉球は明に助けを求めたのですが、宗主国は冊封国を助けませんでした。けっこう薄情ですが、慶長2年(1597年)に慶長の役があったところです。明の内情は不安定でしたし、実際1644年に滅んでしまいました。

日本の軍事政権に征服された琉球王国は、表面上は独立王国として明とも冊封関係を続けます。

どうして冊封関係を続けるのか不思議ですが「親戚のオジサンの小言を聞いたらお小遣いをくれる」と考えれば納得いくかもしれません。どうせ盆正月の年に二回しか会わないんですから。

親戚のオジサンに会いにいくのに手ぶらという訳にはいきませんから、贈り物をもっていきます。すると、もっと豪華なものをくれる訳です。とまあ、初期のころはそうでしたが、清の時代になるとより過酷になります。

どのような世界でも上の二人がケンカしていたら、下はやっていられません。沖縄の人が本土の人に不信感があるのは当然でしょう。

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宮古島島民遭難事件で、琉球を実質支配していた明治政府が清に抗議します。

日本人の感覚からすると「遭難した人は助ける」ものです。けれど、台湾原住民にすると「知らない人が村に入ってきた=敵の排除」です。殺害方法は首切りでした。

残忍なように思えますが、その地域の人にするとそれで終わりな訳です。まあ死人に口なしと言いますが、それ以上の遺恨をもたないのです。復讐の概念がありません。

さて、明治政府の抗議に、明は生蕃(せいばん)(台湾の原住民)は「化外(けがい)の民」なので統治外だと答えました。ここでも宗主国は冊封国を助けませんでした。もうそうした時代ではなくなってしまったのです。

明治政府は「じゃあ統治外なら、こっちで処理するね」と〝黙って〟台湾に出兵します。←清にも各国にも通達していなかったので、後で怒られます。

清としては「なにしてくれてんねん」ですが、大日本帝国の行動を追認します。

ここに琉球は晴れて大日本帝国に併合されました。←酷い話です。

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大日本帝国は無理を押して万国公法に従いました。「犯罪組織に入るなら、誰それの命を奪ってこい。そうしたらお前を認めてやる」のような世界観です。ある種、今のロシアの世界観とも似ています。

台湾の次は朝鮮です。当時の李氏朝鮮は自治権がありました。しかし、いつまでもそうしたことはできないため、大日本帝国が介入して西欧列強の植民地にさせませんでした。前述していますので、この話はここまでです。

さて、前述の事件や運動は大日本帝国と中華民国との話です。日中戦争は戦前の日本と、今の台湾になった中華民国と戦争です。(了)

#五四運動 (T8-1919.5.4)
#張作霖爆殺事件 (S3-1928.6.4)
#柳条湖事件 (S6-1931.9.18)
#盧溝橋事件 (S12-1937.7.7)
#南京事件 (S12-1937.12.13)

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