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やっちゃば一代記 実録(23)大木健二伝

やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記
 戦時
昭和十二年七月七日夜、北京南部の盧溝橋で不明の銃弾が日本軍を襲った。三週間後、日中両軍が全面衝突した。築地市場は開場して二年足らず。
まだ国内に戦争の切迫感は薄かった。それでも同年中に物品販売価格取締規則の公布、配給所業務の開始など、戒厳下の体制は着々と整えられていった
昭和十五年八月に至り、時の商工省が『生鮮食料品の配給および価格の統制に関する件』という省令を発布、翌年から青果物も統制価格となるや卸売市場は単なる配給所に過ぎなくなってしまった。
 盧溝橋事件以来、築地市場の仲卸業者は一班から十数班にグループ分けされて配給業務に携わっていた。大方は一般家庭や商店への配給だったが、
一部の百貨店の受け持ちはなぜか羽振りが良く鼻息が荒かった。配給の仕事がばかばかしくなるくらい利権、裏取引、闇市がはびこった。大木の気持ちは次第に萎えていった。セリ、やま周り、新野菜のセールス。
打ち込みたい仕事の全ては封じられた。
 「もう市場に俺のやりたい仕事はなくなった。居場所もない。」
 新妻の琴にポツリと告げた大木の眼は虚ろだった。
昭和十三年春、大木二十二歳。すでに新妻の琴と所帯を構えていた。
 戦線が拡大し、米国との戦争も避けられなくなると、大木は外地領事館の採用試験を受ける。天衣無縫のやっちゃば家業からガチガチにお堅い役人稼業への大転換である。だが、いずれ赤紙で招集されるのは目に見えていた。
軍部の言いなりに無辜の一兵卒として戦地にさらされるよりは、たとえ狭くても将来の道は自分で選びたかった。それが領事館警察官への転身であった
二年間みっちり中国語、憲法、民法、刑法、警察法などの研修を受け、昭和十五年一月、上海への赴任を命じられた。当時上海の在留邦人は十万人以上
至る所でテロが勃発し、暗殺や毒殺は日常茶飯事だった。領事館付き警官の仕事は邦人の安全と治安の維持、さらに諜報活動家の取り締まりなど重要かつ危険の付きまとうものだった。大木を含めた上海赴任組は二十五人。警官は命中精度の高いモーゼルを装着、三人一組になって街の警邏に当たった。
大木はモーゼルのずしりとした重さと手触りが気に入り、どこからか実弾を調達、一人で射撃訓練に没頭した。負けず嫌いがこんなところにもひょっこり顔を出すらしい。おかげで大木の腕前は館内でずば抜けたレベルにあったが、幸いにもモーゼルを使う場面はなかった。
 警官は仕事柄、凄惨な現場にたびたび立ち会う。国策会社だった鐘紡江北興業小公司の社員送迎バス爆破事件、手榴弾を受けて無残に顔を潰された、
三八五三部隊の安田隊長の遺体、たまたま非番のときに起こった江虬(ほんきゅう)シネマの爆発テロなどはいまだに生々しく、吹き飛ばされた片脚が窓枠にぶら下がっていた光景は大木の瞼の裏に焼き付いている。なぜか官舎の前に火葬場があって、毎日、煙突から煙が噴き出され、遺体の焦げる臭いが官舎を襲った。夜はキツネ火さえ飛んだ。

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