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今日のリンク「沖縄歴史編」2022/06/02

ちょうど、「縄文海進と古神道、神社、天皇制(27)、天鈿女命の陰謀Ⅱ」で呉王夫差がでてきて、朝鮮半島経由、東シナ海経由だけじゃなくて、三国時代の呉国(今の揚子江周辺)から沖縄経由で天鈿女命(アメノウズメノミコト)と天照大神が居る佐賀県神崎町、現在の吉野ケ里遺跡近くの佐賀の津との交易があったと思われるので、沖縄の歴史に疎いので調べた。
縄文海進と古神道、神社、天皇制(26)、天鈿女命の陰謀Ⅰ

それと、「マガジン『エレーナ少佐のサドガシマ作戦』」で「アニータ少尉のオキナワ作戦」を書いていて、沖縄、南西諸島が舞台なのに、地理的な情報ばかりで歴史を忘れていた、というので調べてみました。

今日の「リンク」2022/06/02

【歴史解説】消えた?琉球王国!なぜ沖縄という名前が生まれた謎!【MONONOFU物語】

【沖縄・琉球】あまり知られていない琉球史〜前編〜

【沖縄・琉球】あまり知られていない琉球史〜後編〜

琉球王国

● 琉球

琉球」の表記は、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 流求國」が初出である。同書によると、「607年(大業3年・推古天皇15年)隋の煬帝が「流求國」に遣使するが、言語が通ぜず1名を拉致して戻った。翌608年(大業4年・推古天皇16年)再び遣使し慰撫するも流求は従わず『布甲(甲冑の一種)』を奪い戻る。

この時、遣隋使として長安に滞在していた小野妹子らがその『布甲』を見て『此夷邪久國人所用也(此れはイヤク国の人が用いるものなり)』と言った

※これは驚いたが、小野妹子は推古天皇の時代の遣隋使で、『隋書』が記録するかの「日出処天子」の文言で知られる国書を携えた使者である。近江国滋賀郡小野村の出身で、奈良県明日香村の小墾田宮に出仕していたはずである。その彼が「夷邪久(イヤク)」つまり、屋久島や種子島・屋久島より南方の甲冑を見て出自を当てたということは、飛鳥時代の南西諸島、琉球列島との交流が多分にあったということだろうか?

帝は遂に陳稜に命じ兵を発し流求に至らしめ、言語の通じる崑崙人に慰諭させるも、なお従わず逆らったため之を攻め、宮室を焼き払い男女数千名を捕虜として戻った。」と記されている。

同書は「流求國」の習俗を子細に記すが、その比定先として挙げられる台湾や周囲の先島諸島、沖縄諸島やルソン島などは、この時点ではいわゆる先史時代に当たり同定は難しい。

なお、「夷邪久(イヤク)」は屋久島を指すとする説と、南島全般(すなわち種子島・屋久島より南方)を指すとする説とがある。

「琉球」に落ち着いたのは明代以降であり、最も使用の多かった「流求」に冊封国の証として王偏を加えて「琉球」とされ、14世紀後半、本島に興った山北・中山・山南の3国(三山時代)に対して明が命名したものであり、それぞれ琉球國山北王、琉球國中山王、琉球國山南王とされた。

このうち中山が1429年までに北山、南山を滅ぼして琉球を統一した。これ以降、統一王国としての琉球王国(琉球國)が興る事になるが、国号と王号は琉球國中山王を承継し、これは幕末の琉球処分まで続いた。

なお、鎌倉時代にあたる1305年(大徳9年・嘉元3年)の称名寺所蔵行基図、14世紀半ば作と見られる『日本扶桑国之図』には南島の領域として「龍及國」と記されており、これは三山の冊封貿易開始よりも前である。

● おきなわ

一方で、「琉球」は隋が命名した他称であり、内政的には古くから自国を「おきなわ(歴史的仮名遣:お(う)きなは)」に近い音で呼称していたとする研究もある。

「おきなわ」の呼称は、淡海三船が記した鑑真の伝記『唐大和上東征伝』(779年・宝亀10年)の中で、鑑真らが島民にここは何処かとの問いに「阿児奈波(あこなは)」と答えたのが初出であり、少なくとも鑑真らが到着した753年(天平勝宝5年)には住民らが自国を「おきなわ」のように呼んでいたことが分かる。また「おもろさうし」には平仮名の「おきなわ」という名の高級神女名が確認され、現在も那覇市安里に「浮縄御嶽(ウチナーウタキ)別名:オキナワノ嶽」という御嶽が現存し、県名の由来とされている。

その他にも国内外の史料に「浮縄(うきなわ)」、「悪鬼納(あきなわ)」、「倭急拿(うちなー)」、「屋其惹(うちな)」といった表記が散見される。なお、現在の「沖縄」という漢字表記はいわゆる当て字であり、新井白石の『南島誌』(1719年・享保4年)でまるで「沖」に浮かぶ「縄」のように細い島であるという表現が使われたのが初出で、長門本『平家物語』に出てくる「おきなは」に「沖縄」の字を当てて作ったと言われている。

この「沖縄」が琉球処分後の県名に採用され、今日では一般化している。

また、第二次世界大戦直後に名護市出身の日本共産党最高幹部徳田球一が「沖縄民族は少数民族であり、歴史的に搾取、収奪された民族である。」との主張を行い、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーは「沖縄人は日本人ではない」と断じて日沖分断作戦に利用し、琉球列島米国軍政府(のちに琉球列島米国民政府[琉球政府の上部組織])として「琉球」の名称を再登場させた。

● 「琉球」が指す範囲の変遷

『隋書』における「流求」は福建省の東海上に位置する一介の島嶼としている。隋書に続く時代の『北史』『通典』『諸蕃志』においては『隋書』の記述を踏襲し、『太平寰宇記』(宋代の地理書)においても内容に大差はなかった。元代に完成した『文献通考』においては、「琉球」は台湾と沖縄県周辺を混同して指す記述となっている。

その後13世紀まで、北から奄美群島・沖縄諸島・先島諸島・台湾のいずれの地域も小勢力の割拠状態が続き、日本の役所が一時期置かれた奄美群島(喜界島)以外は、中国大陸や日本列島の中央政権からの認識が薄い状態であった。

14世紀、沖縄本島中部を根拠地とする中山王が初めて明の皇帝に朝貢し、冊封に下ったことで認識が高まり、沖縄地方を「大琉球」、台湾を「小琉球」とする区分が生まれた。その後、「琉球」は琉球王国の勢力圏を指す地域名称として定着していく。

近代に入って「琉球(流求)」の語が指す地理的領域の考察が進んだ。1874年(明治6年)にサン・デニーが『文献通考』の一部を翻訳し、その琉球条により流求は台湾であるとする説を発表した。

1895年(明治28年)にはグスタフ・シュレーゲルが、元以前の「琉球」は台湾のことを指し、明以降は沖縄県周辺のことを指すようになったとする説を発表した。1897年(明治30年)、ルートヴィヒ・リース(当時、帝国大学文科大学(現東京大学)史学科の教授)は著書『台湾島史』(吉国藤吉訳、1898年)において、「流求」は台湾を指すとした。

● 民族

琉球王国の正史『中山世鑑』や『おもろさうし』などでは、12世紀に源為朝(鎮西八郎)が現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球最初の王統の始祖・舜天になったとされる。

真偽は不明だが、第二尚氏2代王の尚真は1522年(嘉靖元年・大永2年)に建立した「石門之東之碑文」に漢文で「尊敦(舜天の神号)から20代目の王」と彫らせ、続く3代王の尚清も1543年(嘉靖22年・天文12年)に建立させた「かたのはなの碑」の表碑文に和文で「大りうきう國中山王尚清ハそんとんよりこのかた二十一代の王の御くらひをつきめしよわちへ」と彫らせ、裏碑文に同様の内容を漢文で彫らせている。

舜天の始祖説は琉球の正史として扱われている。これら話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産み、さらに日琉同祖論へとつながったとも言える。16世紀前半には「鶴翁字銘井序」等に起源が見られた日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、1922年(大正11年)には「為朝上陸の碑」が建てられ、表碑文に「上陸の碑」と刻まれ、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。

また天孫氏裔を自称した初代中山王の察度は1368年(洪武元年・貞治7年)に真言宗の勅願寺(後に護国寺)の創建と熊野信仰の波上宮の創建を行っている。

『中山世鑑』を編纂した羽地王子朝秀は、摂政就任後の1673年 (康熙12年・延宝元年)3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている。

沖縄学の研究者の伊波普猷は、琉球の古語や方言に、中国文化の影響が見られない7世紀以前の日本語の面影が多く残っているため、中国文化の流入以前に移住したと見ている。

高宮広土(鹿児島大学)が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降であるため、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘するように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。

遺伝子研究では、琉球列島(沖縄諸島、宮古列島、八重山列島)の集団は、遺伝的に中国本土や台湾の集団との直接的なつながりはなく日本本土と同一の父系を持つという研究結果や、2018年の核DNA分析から遺伝的に、アイヌから見て琉球人が最も近縁であり、次いで日本本土人が近縁であるという研究結果が発表されている。

2021年11月10日、マックス・プランク人類史科学研究所を中心とした、中国、日本、韓国、ヨーロッパ、ニュージーランド、ロシア、アメリカの研究者を含む国際チームが『ネイチャー』に発表した論文によると、宮古島市の長墓遺跡の先史時代の人骨をDNA分析したところ「100%縄文人」だったことが分かり、先史時代の先島諸島の人々は沖縄諸島から来たことを示す研究成果となった。また、言語学および考古学からは、中世(グスク時代、11世紀~15世紀)に九州から「本土日本人」が琉球列島に移住したことが推定でき、高宮広土(鹿児島大学)は、「結果として、琉球方言の元となる言語を有した農耕民が本土から植民した。著名な『日本人二重構造論』を否定するという点で大変貴重だ」と指摘している。

● 16世紀の琉球人

16世紀頃の琉球人を知る手がかりとしてよく知られているのは、ポルトガル人旅行家のトメ・ピレスが1515年(正徳10年・永正12年)に記したとされる「東方諸国記」の第四部「シナからボルネオに至る諸国」にある、「レケオス(Lequeos)は元々ゴーレス(Guores)であり、正直かつ勇猛で交易相手として信頼に足る。彼らは明に渡航してマラッカに来た品々を持ち帰る。そしてジャンポン(Jampon)に赴いて金や銅と交換するという。

また、彼らは偶像崇拝者である。彼らは色の白い人々で、シナ人よりも良い服装をしており、気位が高い」と記した。しかし、現在まで続く沖縄の土着信仰は無形のアニミズム、祖霊崇拝、おなり神信仰であり、当時すでに首里近郊には仏教寺院が多くあったため、明の滞在歴のあるピレスがそれらを指して「偶像崇拝者」と捉えるのは不自然であるとし、レケオスは琉球ではないとの指摘もある。

また、ピレスと同時期にマラッカの植民地征服に成功したポルトガル人総督のアフォンソ・デ・アルブケルケの叙述伝である「アルブケルケ実録(アルブケルケ伝)」には「ゴーレス(Gores)の本国はレキオス(Lequios)である、彼らは色白で正直であり、長衣をまとい、腰に細身の長剣と42cm程度の短剣を常に佩用していて、マラッカでは彼らの勇猛さは恐れられている。

また彼らは交易が終わればすぐに出発し、マラッカに留まることを好まない。」と記されており、長衣に大小の打刀を佩用する琉球人は室町武士と同様の出で立ちであり、日本文化圏に帰属する傍証だとする研究者や、ゴーレスはレキオス(琉球)交易船に乗り込んでいた本土日本人であるとする研究者もいる。いずれの内容も琉球が東アジアにおいて、中継貿易に長けていたということに変わりはない。なお日宋貿易時代からの貿易海商や船長の事を「綱首(和読:ごうしゅ)」と言う。

一方で、薩摩侵攻時の王府三司官であった謝名利山や羽地王子朝秀の改革を引き継いだ蔡温らは、1392年(洪武25年・明徳3年)に明の洪武帝より下賜され琉球に入籍した閩人・久米三十六姓の末裔であり、琉球王朝の高官や学者、政治家を多く輩出している。その多くは久米士族として琉球人と同化していった。


今日アップした「つぶやき」の解説、意図 2022/06/02

ついに世界が私に追いついてきた。2022/05/30、05/27~30までのつぶやきニュースリンクの意味解説


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