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「でんでらりゅうば」 第24話

 三週間の仕事を終えて、アメリカから戻ってきたマイケル・サンズは、到着した翌日の朝、別荘の近くを通る旧道を歩いていた。真冬のように、鈍色の雲が厚く垂れこめていて、もう八時過ぎだというのに周囲は薄暗かった。
留守にしていたあいだに、道は雪で深く埋もれていた。雪道用の長靴を履いてきて正解だった、と彼は思った。
 ちょうど三週間前、この道の上で出会った小柄な日本人の女性の姿を探して、彼は黙ったまましばらくのあいだ歩いた。彼が警告を与え、自分の連絡先を教えた相手だった。
 もう一度会うことができれば、時間を取って彼女にゆっくり話をするつもりだった。自分の生い立ちと、この村のすぐ近くに別荘を構えた理由……。
 サンズは真っ白な雪に埋もれた人気のない旧道の前方を見やった。遠く向こうの杉林まで続く一本道は、その先のカーブに遮られて見えなくなるところまで、人っこひとり見当たらない。
 ふっ、と、小さな溜め息をついて、サンズは視線を落とした。
 あの日、あるいは言ってあげればよかったのかもしれない。あのはかなげな、人のよさそうな物語好きの女性に、この村についてのすべてを。この村に今も生きているはずの、彼の祖母に関する悲劇のことを。
 サンズは父親から聞かされた祖父の話を思い返していた。カンザスだったかネブラスカだったか、アメリカの片田舎の出で、幼かった自分はよく覚えていないが、素朴な性格の男だったという。その彼が、下の村に英語教師として暮らし始めたのは、戦後間もないころのことだった。そのとき、戸丸村から下りてきて、下の村で働いていた祖母と祖父は出会った。二人は正式に結婚し、そして父が生まれた。下の村で生活した六歳までの記憶は、後になっても父のなかに瑞々みずみずしく残っていた。
 けれど六歳になったその年、父と彼の父親の人生は突然狂ってしまった。母親が体調を崩して、しばらく実家に戻ることになったのだった。
 サンズの父は、息子にこう語って聞かせた。
 ――元々あまり丈夫なほうではなかった彼の母親は、土地に馴染まず、どちらかといえば常に病気がちではあった。アメリカからはるばるやって来た自分より、このすぐ上の山から下りてきただけの君が体を悪くするなんて、可笑しな話だね、と、父は冗談交じりにからかったものだったが、母の顔は蒼白で、父の軽口にも応じるだけの余裕もないようだった。
 そういうわけで、実家のある山の上の戸丸村へ帰った母は、最初の予想のひと月を過ぎても戻ってこなかった。心配になった父がある日山の上へ上っていったが、「具合が悪くて起き上がることもできない」と説明され、家にも上げてもらえず顔を見ることも許されずに怪訝けげんな顔をして戻ってきたときのことを、サンズの父はよく覚えていた。
 それからだった。戸丸村からの連絡は途絶えてしまった。元々標高の高いところにあるからという理由で電話線もほとんど引かれておらず、回線は存在するものの、電話が繋がることは滅多になかった。毎日のように電話機の前で四苦八苦している父親の背中を、母に会えなくなったサンズの父はじっと見つめていた。
 結局、父はそれっきり母親と会うことはできず、声を聞くことも叶わなかった。
 悲しみと絶望に打ちひしがれた祖父は、父の手を引いてアメリカに引き上げた。祖父は地理的にも日本からできるだけ離れようとするかのように、東の端のニューヨークに職を見つけ、生涯を終えるまでその土地で暮らした。
 父親から祖父と祖母の話と、幼いころ過ごした日本での生活のことを聞かされて育つ内、サンズは自分のなかにもその血の流れている日本に興味を覚えるようになった。大学では日本文化や日本の文学を専攻し、日本への憧れはどんどんエスカレートしていった。
 成人して、祖母の面影に引かれるように日本へと渡ったサンズは、日本文化を研究する外国人留学生と偽って戸丸村に入り込み、村人からさまざまな話を聞き出しては祖母の消息について調査をしたのだった。
 そうしてわかったことは、彼を戦慄させた。
 さりげない世間話を持ちかけて、そうとは知らぬ人のいい村人たちから少しずつ引き出した情報によると、どうやら祖母はまだこの村のどこかで生きているらしかった。だが祖母がその状態に至るまでの経緯は、吐き気をもよおさせるようなものだった。
 彼の祖母、しずせい家の娘で、若いころ戸丸村で暮らすのを嫌がって、下の村に下り、そこで働いていた。あっという間に低地症になってしまったが、家の者の反対を押し切って我を張って村を出た以上、おめおめと帰るわけにはいかぬと辛いのを我慢して頑張っていた。そしてそこでアメリカ人の青年と出会って恋をし、結婚して子どもまで産んだ。その生活は静にとっては幸せでもあり、また同時にその体には終わりのない責め苦でもあった。気力だけで夫に気取られぬよう何とか結婚生活を続けていたが、あるときどうにもならなくなって、戸丸村へ引き上げざるを得なくなった。そこでしばらく養生して、また下の村の家族のところへ帰るつもりでいたが、どうやらそこで、星名の家の者たちが話し合いを持ったらしい。
 家の意向は、下の村の男と別れさせ、静を砥石といし家の長男と結婚させることであった。静はそのときまだ二十五歳、嫁にやるには充分な若さだった。
 けれど静はそれを拒否した。村中が、下の村へ下りようとする静を引き留めにかかった。どんな説得にも脅しにも応じようとしない静は、とうとう家のなかに閉じ込められ、強引に結婚式が執り行われることになった。高砂の流れるあいだ、半ば拘束衣のようでもある重い花嫁衣装で身を固められた静は一度も顔を上げず、抜け殻のようになって一ミリも身動きしなかった。
 だが初夜を迎えたとき、手を出そうとした夫となる砥石の長男、正剛まさたけを静は殺してしまう。正剛が火鉢に頭を打ちつけて出血性ショックで亡くなったことは明白な事実で、静による故意の殺害ではなかったことが立証されはしたが、だからといってそれは許されることではなかった。
 村には古来、厳しい掟があった。村の人間は、村にとってひとりとして欠くべからざる存在で、自然死として山に召される以外の人為的な死には、その死に責任のある者が身を以て償いをせねばならないのだった。
 村は、〝村の人間から霊力を吸っている〟と村人たちは言った。なので、人間をひとり減らすことは、ほかのどんな罪にもまして一番の重罪なのであった。
 静は否応なく、その制裁を受けなければならなかった。死んだ正剛の不在を埋めるべく、最低ひとりの子どもを産まなければならないとされ、その上二度と自力で山を下りられないように、両足を折られた。人ごろしの女であるから、もはや村のなかで正式な結婚はできず、最低限ひとり産まねばならぬ子どもの父親は、その日から静のもとへ通った無数の男たちの内の誰かだった。

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