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思想

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#エッセイ

踊りと踊る

踊りと踊る

僕は”踊り”はできないけど”踊る”ことはできる。音楽にノッては不器用に身体を動かし、至るところで踊っていることだろう。
踊りと踊るは違うことだと思う。踊りは技術がいるが、踊ることは誰にでもできる。
踊り/踊るをあえて二項対立的に分けるのであれば、文化/自然、行為/反応、能動/受動、意味/無意味、開/閉、外/内、目的的/非目的的というようになるだろう。
踊りを表現行為と考えれば、それは文化であり行為

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もやもやと実験 ー 喫茶ザンゲシツを終えて

もやもやと実験 ー 喫茶ザンゲシツを終えて

喫茶ザンゲシツ前日、喫茶ザンゲシツのLINEグループに明日は風が強いらしいとメッセージが入る。お天気アプリを開いてみる。確かに一日を通して風速は高い数値で、昼過ぎ頃は10mになっていた。喫茶ザンゲシツでは焚き火とザンゲシツ(テント、場所の都合でペグが打てない)がある。全部なにもかも風で飛ばされるのでないかと心配になる。
しかし喫茶ザンゲシツは「もやもやを楽しむ」ことをテーマにしている。だからこれは

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喫茶ザンゲシツ

喫茶ザンゲシツ

音楽がいつもと違った美しさを見せるときがある。例えば寂しさを感じているとき。
寂しさを感じているとき、音楽を聴きながら夜の散歩をしてみる。すると音楽がいつもと違った美しさを見せる。散歩道も、いつもと違った美しさを見せる。まるで寂しさとダンスをしているようだ。

話は変わる。以前とある悩み相談の対話スペースに参加した。そこで僕はこう感じた。ここでは、悩みが楽しさに変わっていると。悩みは解決しない。例

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路上着座論 ーあのベンチの前に座ろう

路上着座論 ーあのベンチの前に座ろう

ベンチがたくさんあることはいいことだ。しかし、ありすぎるとそこが、「座る場所」から「座ってもいい場所」になってしまうのではとも思う。つまり、座ってもいい場所と座ってはいけない場所ができてしまうということだ。
それは「座れる」の意味が「座ってもいい場所」ということになり、「座れる」の判断基準がルールだけになってしまうことである。そこに個人の「座れる」の判断基準が入る余地はない。
もちろんなんでもかん

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限りなく窓に近いスクリーン ー 映画『アダマン号に乗って』について

窓の外をぼんやりと眺める。そこには意図のない、「あるがまま」の風景がある。
スクリーンに映る映像、即ち映画はどうだろう?人がカメラで撮影し、編集する以上、何かしらの意図があるだろう。恐らく意図から逃れることはできない。それは『アダマン号に乗って』も同じだ。
しかしこの映画は、まるで窓の外を眺めているように感じた。意図がほとんど感じられず、そのスクリーンは、限りなく窓に近かったように思える。
映画は

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目にうつる全ての現象は詩

『やさしさに包まれたなら』の歌詞の有名な一節「目にうつる全ての"こと"は メッセージ」を、僕はなぜか「目にうつる全ての"もの"はメッセージ」だと思い込んでいた。

勝手に読者に甘えて、言い訳をさせてもらう。考えてみれば「目にうつる全ての”こと”」とよりも、「目にうつる全ての"もの"」の方が自然に感じられないだろうか。
「目にうつる全ての”こと”」というのは、ちょっと不思議な感じがする。「目にうつる

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「愛されるとは何か?」についての思弁

友人と恋愛や性愛の話をしていたとき、その友人は、「今の望みとしては、とにかく愛されたい」と言っていた。しかし、「愛される」とはどういうことだろうか?

「愛するとは何か?」や「愛し合うとは何か?」ということは話し合われたり、考えを聞くことは多いと思うが、「愛されるとは何か?」ということは、話し合われることも、考えを聞くこともあまりないように思う。

その友人と話しているときには、深く考えることがで

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「異なるもの」と「他なるもの」 ー『食客論』から観る、他者と出会うことの葛藤としての『戦場のメリークリスマス』

映画『戦場のメリークリスマス』を、私は「他者と出会うことの葛藤」というパースペクティブで観ている。
そして、星野太さんの『食客論』(講談社)を読み、このパースペグティブでの『戦場のメリークリスマス』と非常にリンクすると思った。

『食客論』で論じられているのは、「友でも敵でもない、あるいはいずれでもありうるような曖昧な他者」、「傍にいるもの」、「中間的な他者」、「不審者」という存在だ。

例えば、

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クィアという情、クィアという関係、クィアという愛

序論:名前はまだない
「あなたの性は何ですか?」と聞かれた時、
男性でも女性でもない場合、ノンバイナリーと答えることができる(答えの一つとして)。
それは、世の中で通じる名前になりつつあり、「あなたの性は何ですか?」という問いの、十分な答えになる。

しかし、ノンバイナリーという名前がなかった頃、まだ性が男女の二元論だった頃は、どうだっただろうか?
「男でも女でもない。どちらでもない」と答えるしか

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【思想】高解像度と粒子

作曲家、ピアニスト、アコーディオン奏者である、Leo Svirskyのアルバム、「River Without Banks」を聴いた時、僕は粒子的音像世界の中にいた。
2台のピアノによる、密度の高いアルペジオで紡がれる音像世界。
一つの音を構成する、一粒一粒の粒子を表現しているかのように感じる。
この音像世界には、高解像度で見ることとは違う、別の見方があることを思わせてくれる。
高解像度によって忘れ

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