クィアという情、クィアという関係、クィアという愛
序論:名前はまだない
「あなたの性は何ですか?」と聞かれた時、
男性でも女性でもない場合、ノンバイナリーと答えることができる(答えの一つとして)。
それは、世の中で通じる名前になりつつあり、「あなたの性は何ですか?」という問いの、十分な答えになる。
しかし、ノンバイナリーという名前がなかった頃、まだ性が男女の二元論だった頃は、どうだっただろうか?
「男でも女でもない。どちらでもない」と答えるしかなかったはず。
しかし、これは問いの答えとして十分か?
男女の二元論ということは、男か女かということ。男か女以外であることは、不思議なことや理解できないことである為、「男でも女でもない。どちらでもない」という答えは、「それってどういうこと?」となってしまう。
つまり、問いの答えとしては、不十分ということだ。
しかし、今はノンバイナリーという名前が一般的に認識されつつある。
ノンバイナリーという名前が広まったことにより、どちらでもないということは、広く認識、理解されるようになり、「男でも女でもない。どちらでもない」ということが、一般的に不思議なことや、理解できないことではなくなった。
では、リレーションシップはどうだろうか?
「あなた達ってどういう関係なの?」と聞かれた時、友達でも恋人でもなく、どちらでもない関係だった場合、どう答えられるだろう?
性において「どちらでもない」を表す、ノンバイナリーのような名前はないので、「友達でも恋人でもない。どちらでもない」と答えるしかない。
これは、かつて性が男女の二元論だったように、リレーションシップが、友達/恋人の二元論だと考えられないだろうか?
「友達でも恋人でもない。どちらでもない」という答えは、答えとして不十分で、「それってどういうこと?」と、不思議に思われたり、理解できないと思われたりするだろう。
僕には、その情を"友情"と呼ぶにも"恋愛感情"と呼ぶにも、違和感がある人達がいる。“友達”と呼ぶにも”恋人”と呼ぶにも、違和感がある人達がいる。
それでは、その人達のことをなんと呼ぶか? 名前はまだない。
二元論ということは、多様性がないということだ。
性が本当に男女のどちらかだったのであれば、多様性はないということになる。当然、多様性について語る必要はない。
しかし、実際には性は男女のどちらかではなかった。
それは、存在していたのだ。存在していないのではなく、表現されていなかっただけだ。男と女という在り方しか、表現されていなかったのだ。
そして、男と女という在り方は規範的であり、男か女で在ることしかできなかった。それ以外の在り方は、抑圧されていた。
しかし、まだ男と女という在り方に当て嵌める文化は残っているとはいえ、今はノンバイナリーなど、多様な性の在り方が表現されるようになった。
大事なのは、人が抑圧や疎外を感じずに、"その人らしく生きられる"ことだ。
本質的に言えば、カテゴリーを分け、それらに名前を付けるなどして、表現することは必要ないのかもしれない。
また、名前を付けることは、蔑む為になされることもある。
性においてならば、男と女という在り方の規範を強める為に、男と女以外の在り方を蔑む目的で、名前付けが利用されてしまうということだ。
しかし、このカテゴリー分けや、名前を付けるということは、多様な在り方を、世の中に知らせることにも貢献したはずだ。
"その人らしく生きること"という本質も、これがなければ気付けなかったかもしれない。もしくは、"その人らしく生きること"は、男女二元論においての、限定的なものになっていた可能性もある。同じ性でも、グラデーションや揺らぎがあるという考えも、細分化していくことで得られたのかもしれない。
また、名前がないということは、その存在に対しての無関心、無視や隠蔽でもあるのではないかとも思う。(隠蔽も蔑む為の名前付けも、外部への排除、存在の否定という目的では一致している)
名前を付けることは、蔑みの方法でもある。しかし、抵抗の方法にもなるのではないか?
では、リレーションシップにおいては、本当に、友達と恋人以外は存在しないのだろうか?また、リレーションシップと相関性がある、情についても同じだ。友情や愛情以外の情は存在しないのだろうか?ただ、表現されていないだけではないだろうか?
リレーションシップは、まだ在り方が一般的に限られており、規範が強いように感じる。リレーションシップの多様な在り方が、まだ表現されていないように思える。
性は個人の在り方。
性の在り方を問うことは、私やあなたが、自分らしくあることを問うこと。
リレーションシップは、あなたと私などの、私達の在り方。
リレーションシップを問うことは、あなたと私、私達が私達らしくあること、お互いにとってのいい関係について問うこと。
このテクストは、リレーションシップの多様性が、広く対話される為の問題提起である。そして願わくば、リレーションシップの多様性が、一般的に認知されてほしい。
その為にも、まずは友達と恋人の二元論の外へ行くことを目指し、友達と恋人以外の関係に名前を付てたいと思う。
性が名前付けによって、多様性を獲得したように。
友情でも恋愛感情でもない情に、
友達でも恋人でもない関係に、
僕はここでは、仮に"クィア”という名前を付ける。
もちろんこれは仮であり、一つの提案だ。
では、なぜ"クィア”という名前なのか?
"クィア"は、もちろんセクシュアリティにおけるクィアから取っている。
クィアは、「奇妙な」、「不思議な」という意味の他に、「変態的」という意味を込めて、蔑称として使われていた。だが、クィアの人達は、今はそれを逆手に取って、その名前を自らのプライドとしている。
情や関係にクィアという名前を付けることについて、僕が"クィア”な情を持つ人に話したところ、その人は、クィアの人達がプライドを持って使っている言葉だから、私は違和感があると答えが返ってきた。
その人はモアミというのはどうかと、提案してきた。
mon ami(男性)/mon amie(女性)はフランス語で、友達という意味で使うこともあれば、恋人という意味で使うこともあるそうだ。
つまりこの言葉には、友達と恋人の両方の意味があり、友達か恋人かよく分からない、決められない関係を表すのにいいのではないか?とのことだ。
語感もいいし、僕もいいかもしれないと思った。
しかし、確かに友達か恋人か分からない関係という意味ではいいけれど、恋人でも友達でもない関係という意味を含めるには、物足りなく感じた。
つまり、恋人友達の二元論の外に行くことは難しいのではないかと思った。
その人がいうように、"クィア"という名前を付けることは、本当にいいのだろうか?という思いは僕も持っている。
先も述べた通り、"クィア"はクィアの人達がプライドを持っている名前だ。
その名前を使うことには、躊躇いがある。
しかし、友情でも恋愛感情でも、恋人でも友達でもない関係が変わっている(クィア)のであれば、僕も"変わっている"にプライドを持ち、情やリレーションシップにも"クィア"という名前を付けたいと思う。
また、セクシュアリティとリレーションシップは相関性が強いと考える。
"クィア"という共通する名前を付けることによって、セクシュアリティとリレーションシップが一緒に議論され、セクシュアリティにおいての"クィア"の人達と連帯を持てるのではないか?
また、性自認や、性指向の他に、リレーションシップを新たなアイデンティティのカテゴリーに加え、セクシュアリティと一緒に語ることも提案したい。リレーションシップは個人を表すものではないが、その人がどういうリレーションシップを好むのかを語ることは可能だろう。
ここから僕はこのクィアな情、クィアな関係、そしてクイアな愛について、考えていることを綴りたいと思う。
クイアな情
はっきりと確信しているわけではないが、
僕はセクシュアリティとして、クワロマンティックを自認している。
クワロマンティックの定義は「自分が他者に抱く好意を、友情か恋愛感情か判断できない/しない」とされている。
僕の場合は、友情か恋愛感情か全く分からないとも言えない。どちらの感情も感じるような気がするし、本当に愛情か友情なのかが、確信できないといった感じだ。
一つ確かなことは、それがどういう情であれ、相手に対して、好きという気持ちがあることだ。その情がどういう情かは分からなくてもいいし、決める必要がないと思っている。僕にとっては、好きという気持ちが一番大切だからだ。
この好きという気持ちは、友情か恋愛感情かのどちらかなのだろうか?または、友情か恋愛感情の間で揺れるものなのだろうか?友情でも恋愛感情でもない情も存在するのではないか?
どっちかであることもあるし、どちらもということもあるし、どちらでもないこともあるのではないだろうか?
確かに僕は、それを友情と言うにも恋愛感情と言うにも、違和感を抱くことがある。この情には名前はまだない。
それならば、この情を、"クィア"と名付けたい。
クィアな関係
・男女の友情はありえるか?
古典的かつ、未だに話されることがある問いだ。
僕はこの問いは、とても排他的だと思う。
この問の根本的な問題は、この問いの前提が、性的関係を持つ、または欲求を抱くなら、友達ではないということである。
何故、性的な繋がりや欲求を持った場合は、友達ではないのだろうか?
友情も性的な欲情も両立する。それぞれの情は対立するものではない。それぞれが個々にあるだけだ。
それに、リレーションシップは当人同士の間で決めることであって、第三者が決めることはできない。どういう関係であろうと、例えば、当事者同士が友達と言えば友達なのだ。
性的なことは、関係においてメインではないことが多いだろう(メインのこともあると思うし、当然否定することではない)。
例えば恋人という関係において、性的なことがメインではないとすれば、性的なことはオプションであり、コミュニケーションの一つで、関係においての本質ではないであろう。
これは、恋人以外の関係においても、同じではないか?
性的なことは本質ではないが、オプション、一つのコミュニケーションとすることはありうる。
この問いからは、恋人以外との性的な繋がりや欲求は、不純なもの、良くないものとする価値観も見えてくる。
誰かに対して恋愛感情を感じないが、性的情は感じる人もいる(アロマンティック)。
カジュアルに恋愛を楽しみたい、その方が落ち着く人もいる。
若い時遊んでいたから今は落ち着きたいという人がいるならば、その逆の人もいるだろう。
また、例えば特定の人に依存し、傷を負い、その痛みからポリアモリーな関係を望む人もいるだろう。
また、恋愛には真剣、真面目、遊びという言葉が使われる。
これも、すごく規範的な考え方、価値観の表れであると思う。
誰もが100%愛している、あなたしかいないといった恋愛が心地いい訳ではないし、それで幸せになれる訳ではない。
どういう恋愛や性的な関わりを望むかは、人それぞれ違う。
にもかかわらず、社会的に強い価値観を作り、そこからはみ出すことをよくないものとしてしまうのは、やはりとても排他的だ。
この問いは、セクシュアリティにおいても排他的であることも記しておく。
セクシュアリティにおいては、両性、または性別関係なく恋愛的な魅力、性的な魅力を感じる人を排除している。
・付き合うとはなんだろう?恋人ってなんだろう?
この問いは、一度は考えたことがある人も多いと思う。
僕もこの問いについて考えてみた。
僕はまず、好きな人とどうなりたいんだろう?
好きな人に何を望むのだろうと考えた。
まず何より望むことは相手が健康で幸せでいてくれることだ。
そして次に望むのが、一緒にいられて、良い関係でいることだ。
僕は嫉妬はすると思うが(羨ましい、ずるい、いいなと思ったりする)、独占欲や、その人にとって唯一の特別な人になりたいとは思わない。
そう考えると、僕にとって恋人になることは、必要はないと思った。
恋愛感情を抱いたとしても、誰もが必ずしも恋人になりたいと望むとは、限らない。(恋愛感情を抱いている人と、両思いになりたくないことを特徴の一つとする、リスロマンティックというセクシュアリティもある)
それにしても、恋人にもならず、相手の健康や幸せが一番だなんて、そんな綺麗事があるのかと思う人もいるだろう。
もちろん、「相手の健康、幸せ」以外にも欲がある。「一緒にいて、いい関係でありたい」もそうだし、下心だってある。下心がないと言ったら嘘になる。
ただ性的なことはあったら嬉しいが、それ以上に大切なことがあるだけだ。
相手に何を望むかも、それぞれが対立する訳ではなく、それぞれが存在している。試しに欲を対立させるのではなく、並べてみよう。
「相手が健康で幸せでいてくれるのが何よりだけど、一緒にいられたら嬉しいし、いい関係でいたい。性的なことができたら、それは嬉しい。下心も消えないだろう。でも、やっぱり相手が健康かつ幸せでいて、そしていい関係でいられるなら、性的なことはなくてもいい。」
これはおかしいことだろうか?
僕は上記のことを考える中で、恋人になるとは、社会的な関係に入るということだと考えた。
結婚には法的な繋がりがあるが、恋人には法的な繋がりはない。
しかし、恋人とは社会的に作られた概念であると考える。付き合う、恋人になるとは、その社会的な関係に入ることだ。
具体的にはどういうことか?
恋人は社会的に作られた概念であり、こういうものという定義がある。それは、暗黙の了解的なルールである。
恋人とは、モノガミーで、他の人と恋愛及び性的な関係を持つことはだめ。お互いに恋愛感情がある。唯一の特別な存在になるということ。
また、友達も同じように社会的な概念だ。恋人よりかは定義が緩く、自由であるが、友達の関係としては好ましくない、よくないものといったものがあるだろう。
・友達でも恋人でもある関係、友達でも恋人でもない関係
しかし、この規範とも呼べる関係が全てだろうか?他の関係はあり得ないのだろうか?
そもそも、人との関係において一番大切なことはなんだろう?
それは、「お互いにとってよい」ということだと思う。
友達や恋人は規範ではなく、一つのモデルに過ぎないはずだ。そしてこれは、社会的に作られたテンプレートだとも捉えられる。
この社会的なモデルに名前を付けるとしたら、ソーシャルスタンダードであろうか?
また、ソーシャルスタンダードなどのテンプレートを使わず、オリジナルな関係を一から築いていくこともできる(リレーションシップアナーキーが代表されるだろう)。
ソーシャルスタンダード以外の関係は、一般的には変わっている関係といえるだろう。一言で相手に関係を説明するのは難しい。
それならば、ソーシャルスタンダード、つまり恋人や友達以外の関係を総称する関係に、名前を付けてはどうだろうか?
そのことによって、恋人や友達でもない関係ということを伝えられるようになり、また、恋人や友達以外にも関係があること、リレーションシップの多様性を広めることできるのではないか?
ソーシャルスタンダードとは違う、変わった関係、つまり恋人や友達でもない関係に、僕は”クィア”という名前を付けたい。
もちろん、僕はクィアな関係が正しいと言っているのではない。
ソーシャルスタンダード、クィア、これはどちらが良い関係かということはない。大切なのは、どういう関係がお互いにとっていいかだ。
ソーシャルスタンダードやクィア、それぞれにメリットやデメリットもあるだろう。
ソーシャルスタンダードのメリットは、何よりも楽なことだろう。
このことは、後で述べるクィアな関係のデメリットの部分を読めば分かるはずだ。
ソーシャルスタンダードはテンプレートである程度関係が築かれている。
このテンプレートで曖昧さがあり、お互いで決めないといけないところは少なく、例えば恋人という関係であれば、「どこからを浮気とするか?」ということなどだ。
ソーシャルスタンダードな関係で、いい関係が築けるのであれば、それでいいし全く問題はない。
しかし、ソーシャルスタンダードの一番のデメリットは、「お互いとってよい関係を築く」ということを、忘れやすいことだと思う。
テンプレートに捉われて、こうではなくてはいけない、これはありえないんじゃないか、こうしなきゃいけないとなってしまうこと。
つまり、テンプレートが規範となり、関係(形式的)>関係(本質的)という図式になってしまうことだ。これは、思いやりを失くしてしまうことにも繋がる。極端な例では、相手が苦しみや、痛みを抱えているのに、「いや、そんなのありえないでしょ?(常識的に、規範的に)」となってしまうことだ。
クィアはどうであろうか?
例えば、オリジナルな関係を築いていくとしよう。お互いとって、いい関係を築いていくことが常に念頭にある。これはクィアにとって、一番のメリットだ。
しかし、テンプレートを使わないで関係を築いていくことは、すごく大変なことであると思う。常に対話をし、また、変化にも敏感にならないといけない。成功と失敗の繰り返しも多々あるだろう。そう考えれば、傷つきやすい関係とも考えられる。
ここで、例としてポリアモリーを見てみよう。
ポリアモリーも一つのモデル、テンプレートであると考えるが、しかしソーシャルスタンダードに比べて、テンプレートでの決定事項が少ない、といより僕が考える限りでは一つしかないと思われる。
それはポリアモリーの定義でもある「合意の上で複数の人と恋愛、性的な関係を持つ」ということだけであろう。それ以外は、全て対話を持って決めなくてはいけない。
例えば、どういうことを対話で決めないといけないのだろうか?また、どのような要求があり、対話で決めないといけないのか?想像してみる。
「関係を持つ人は全て相手に知らせないといけないのか?特に報告はいらないのか?」
「知らせる場合どこまでの情報を伝えればいいのか?ただ情報として伝えればいいだけなのか?それとも直接会った方がいいのか?」
「性的な関係を他で持つことはいいが、恋人と呼ぶ人は自分だけにしてほしい。自分が一番であって欲しい」
「他の人に恋愛関係を持つのはいいが、性的な関係を持ってほしくない」
何を望むかは自由だ。しかし、お互いにとっていい関係でなければならない。これらを常に対話を持って、お互いを思いやるのは、楽なことではないはずだ。非常に大変なことだと思う。
(恐らくだが、)人は知らないものや、変わったものに対して、あれこれと疑問を持つのではないか?
「〇〇になった場合は、どうするの?」
(例えば、クィアな関係でいたが、片方だけが強い恋愛感情を持ってしまった場合など。)
このような質問は、クィアの関係に対して、度々聞かれることが予測される。
ソーシャルスタンダードのメリットはここにもあるのだろう。「〇〇だったの場合はどうすればいいか?どうするべきなのか?」、それもある程度、テンプレートとして用意されているのではないだろうか?
クィアの場合は、テンプレートがないので、その時々で自分達で考えないといけない。
このように、ソーシャルスタンダード、クィア、どちらがいいということではない。
ソーシャルスタンダートな関係の方がお互いにとって、いい関係でいられるのであれば、そうするべきだし、ソーシャルスタンダードに違和感や、居心地の悪さを感じたり、またはイデオロギーとしてソーシャルスタンダードを受け付けない、などであればクィアな関係がいいかもしれない。
テンプレートというものは、追加したり、変更したりできる。恋人だから、友達だから、こうではないといけないということはない。
テンプレートをお互いの関係によってアレンジし、ソーシャルスタンダードとクィアな関係を揺らいでいくのもいいだろう。
・リレーションシップの真理
ここで少し論を修正したい。
ここまでは、友達や恋人を、社会的な定義や規範の共通認識がある、ソーシャルスタンダートとしていた。確かに友達や恋人という関係には、そのような定義や規範の共通認識がある。
しかし、僕は「男女の友情はありえるか?」にて、「リレーションシップは当人同士の間で決めることであって、第三者が決めることはできない。どういう関係であろうと、例えば、当事者同士が友達と言えば友達なのだ」と述べた。
つまり、社会的な定義や規範は、あくまでも社会的な定義や規範でしかない。
友達や恋人に普遍の真理はない。あなたにとっての友達や恋人とは何か?いわば、あなたにとっての真理は、あなた自身で感じ、理解しなければならない。
例えば、社会的な「友達の定義•規範」が、あなたにとって友達の真理だと感じられるであろうか?もし、それが本当に自分にとっても真理だと感じられるなら、それはあなたにとっての友達の真理だろう。
しかし、それが友達の真理だと感じられないのであれば、あなたにとっての友達の真理は違うことになる。
例え似たような関係性を持っていたとしても、友達という人もいれば、友達ということに違和感があり、クィアという人もいるだろう。
真理は自分で感じ、理解するしかない。
当然、これはクィアも同じだ。
僕はある意味、友情というにも恋愛感情というにも違和感を抱く情の状態や、友達というにも恋人というにも違和感を抱く関係、それぞれに真理を感じ、その真理にクィアと名前を付けて表現したのだろう。
友達の真理や恋人の真理など、真理は名前の後にある。
友達や恋人といった名前が、真理よりも先にあったのか?
真理が先にあり、後からそれに友達や恋人という名前が付けられたのではないか?そして、それらの真理は認識として共有されたのだろう。しかし、認識は認識でしかなく、真理ではない。
僕は僕が感じた真理にクィアと名前を付けた。そして、認識として提案した。この認識が共有されて、どちらでもない情や関係が一般的に認知され、そして、リレーションシップの多様性の対話が為されることに繋がって欲しいと、願っている。
・クィアのノーマライズについて
このテクストについて、僕自身批評したいことがある。
それは、クィアのノーマライズについてだ。
一般的に認知されるということは、社会的に認められるということは、マジョリティから受け入れられるということになる。
僕は、現在のリレーションシップが規範的なソーシャルなものといったが、クィアな関係も、結局はソーシャルの中に入ってしまうのではないかということだ。
例えば、ステレオタイプなサクセスストーリーは、貧しくて社会の周縁にいる人が、成功を掴み、名声を得るといったものだ。
これは、美しい話にも思えるが、この名声とは、結局はマジョリティに受け入れられる、認められるということだろう。
つまり、これは移動の話で終わってしまう。その人が周縁(マイノリティ)から中心(マジョリティ)に移動する話だ。
周縁は何も変わらない。
僕はノーマライズに違和感を抱いている。
例えばセクシュアリティにおいて、「シスやヘテロ以外も普通のことだよね」というのに、違和感がある。
そうではなくて、「シスやヘテロであることが普通のことではないよね。みんな倒錯的だし、変態的だよね」である方がいいのではないかと思う。その方が、差異を肯定し、多様性を肯定できるのではないかと思う。
しかし、シスでヘテロである人が、自分のことを倒錯的とすることに、マイノリティの人達に対して、後ろめたさを感じることもある。
また、自分のことを「平凡でつまらない」と感じる人もいる。
そのことについては、別途考えていく必要がある。
・関係の同意について
どんな関係であれ、行為の同意は必須である。
相手を思いやっての自主的行動もあるが、ほとんどの行為において同意は必須だ。また、心からの同意なのか?仕方なくの同意なのか?騙された同意なのか?どういう同意であるかも、とても重要だ。もはや同意と呼べない同意もある。
また、同意も単純ではない。前向きな同意ではなくても、その他の理由が肯定的なことがある。
分かりやすいことはやはり性的なことだろう。
性的なことはそんなに好きではないけど、相手が喜んでいるのは嬉しいということもある。
ただし、これは勿論状況や背景、パワーバランスによって、ポジティブなことなのか、ネガティブなことなのかが大きく変わってくる。
例えばパワーバランスが偏っていれば、「相手が喜んでいるのは嬉しい」が相手を引き止めておけるからなどの、理由になってしまうだろう。
パワーバランスが取れており、対話が成り立つ状況であれば違う。
「相手が喜んでいるのは嬉しい」が、本当に利他的なことで快楽を感じることになり、これはポジティブな欲望となるだろう。
では、関係の同意については、どうだろう?
恋人という関係は、一般的にお互いの同意があって成立する関係だ。
お互いが恋人ということを認めないと、成立しない。
しかし、友達は同意が必要ない、というより確認することはほぼないはず。相手に関係を同意したり、確認したことがないにも関わらず、「私の友達が」と誰かに話すことなどはあるだろう。
また、このことにより関係の齟齬も起きることがある。
悲しいことだけど、こっちが友達だと思っていても、相手が友達だと思っていないことはあり得る。
では、クィアはどうだろうか?
僕は友達と同様で必要ないと考えているが、明確に答えを出せない。
友達のように、一方的にこちらがクィアな関係だと思っているのは、自由かもしれない。だが、こちらがどう思うか自由を突き詰めれば、こちらが一方的に恋人と思うことも自由なのか?という問いも出てくる。こちらがどう思うかは自由なのだろうか?
ただ、注意すべきことがある。
まずは、相手以外の第三者に関係を伝える時だ。
仮にこちらが一方的に恋人と思っていたとしよう。それを第三者に、「あの人は恋人です」と伝えることは、これは大問題だろう。
では、「あの人はクィアです」と伝えることはいいのだろうか?
もし、一方的に思っているだけなら、「僕はクィアな関係だと思っている。でも相手は分からない」と伝える方が好ましいだろう。
友達においては、こちらが一方的に思っているだけでも「あの人は友達です」と答えることは、問題がないように思える。しかし、相手が友達だと思われたくない、という可能性もゼロではない。
関係を第三者に伝えることは、本当は繊細なことなのかもしれない。
もし、お互いがお互いを恋人だと思っている恋人の関係においても、第三者に恋人がいると知られたくない人もいるだろう。
もちろん、逆に公にしたい人もいる。特に、セクシュアルマイノリティの方にとっては、カミングアウトについても関わってくる。
次に、こちらが一方的に思うことが、相手がどう思うかだ。
相手から一方的に恋人と思われていた場合、快く思わない人がほとんどだろう。クィアはどうだろう?一方的にクィアだと思われることはどう感じるだろうか?
これについては、ここでは僕自身がどう思うかを語るしかできない。
まず一方的に恋人と思われているのを想像すると、違和感はあるが、第三者に恋人と伝えないのであれば、別にいいかなとも思う。
次に一方的にクィアだと思われていることは、問題ない。第三者にクィアだと思われていることに対しては、人によるとしか言えない。なお、友達についてもクィアと同じだ。ただし、どちらも人によるの"よる"のレンジは広いと思う。
逆に、一方的に思う方も想像しよう。
一方的に恋人と思うことは、僕はしないが、仮にしてしまったと想像してみると、後ろめたさを感じるだろう(これには、自分だけの秘事がどこまで許されるのかという問いもあるだろう)。
そして、正直に言えば、一方的にクィアと思うことにも、後ろめたさを感じると思う。これは、世の中的にも関わる人にも、クィアという関係がどう受け止められるかが分からない故に、不安を感じ、後ろめたさを感じるのかもしれない。もし、クィアな関係が一般的に認識されれば、後ろめたさはなくなるかもしれない。ただし、安心してしまうことはないだろう。
相手との関係について、一方的に思っているにせよ、同意があるにせよ安心することはない。相手との関係を問うことも大切だと思う。
そのことも、"思いやり"に繋がり、いい関係を築くことに繋がるかもしれない。
・価値観の個人の自由
これは当然だが、価値観は個人に押し付けるものではない。
個人でどう思うか、感じるかは自由だ。
恋愛感情がない人との性的な関係を、不潔だと感じるのであれば、それはそのままでいい。変える必要はない。個人の好み、価値観は大切だ。
僕が願うのは、社会でリレーションシップの多様性、様々なリレーションシップのあり方や価値観が認められることだ。
個人的にどう思うかは、その人の権利でもある。
ただ、社会的には様々な価値観が認められるようになるべきだと思う。
・何者でもない私達
序論で述べたことについて、もう一度述べよう。
私達は個人について、他の何者でもない、"私"や”あなた”ということがある。
セクシュアリティならば、僕はクワロマンティックである前に、他の何者でもない、”私”である。
私は何かである前に私であるし、あなたも何かである前にあなたである。
これは、リレーションシップについても同じだ。
友達や、恋人、またはクィアである以前に、私とあなたは、他の何にでもない”私達”、"私とあなた"なのだ。
リレーションシップにおいても、多様な在り方があることが一般的に広まり、"私達"が私達らしく、お互いにとっていい関係でいられるようになればと願う。
クィアな愛
愛という言葉がある。
これは神か家族などを除けば、恋愛感情や恋人の特権的なものと認識されているのではないか?
しかし、どうだろう。例えば、友達に対しては、愛は本当にないのであろうか?友愛という言葉もある。しかし、恋人への愛と比べたら、一般的には劣るものとされるだろう。
しかし、愛の強さとは必ずしも、恋人への愛が一番なのだろうか?誰かにとっては、恋人の愛よりも友愛の方が強いという人もいるのではないだろうか?もちろん、優劣がない人もいるだろう。
クィアというものも同じはずだ。友達でも恋人でもないが、愛はある。僕はこの愛に”クィア”という名前を付けたい。
追補:名前をつけてやる
今回の記事を書きながら、頭の中で鳴っていた歌がある。
スピッツの「名前をつけてやる」だ。
スピッツの歌は、実に多様な読みができる。
スピッツの歌は、大衆(マジョリティ)だけではなく、マイノリティにも響く。大衆を超えた、ポップ・ミュージックだろう。
引用した「名前をつけてやる」の歌詞は、クィア的な読みができる。
このテクストで書いたこととリンクするだろう。
名前もないような場所、つまり無関心であったり隠蔽されている周縁。そんな場所で出会った似た者同士も、。
"むき出しのでっぱり"はファリックな表現に思えるが、"欲"のメタファーと読むことも可能だろう。抑圧されている欲は、抑えることができず、屹立しようとしている。周縁にいる名前のない私達が、突き抜けようしている。だから名前をつけるのだ。
※この「名前をつけてやる」の読みは「スピッツ論-「分裂」するポップミュージック(イースト•プレス) 伏見瞬 著」を基にしています。
というかほぼ同じであると思うのですが、クィアに貸しており、手元にないので確認できず…
参考文献
・「現代思想」2021年9月号 特集=〈恋愛〉の現在――変わりゆく親密さのかたち 青土社 より
深海菊絵/ポリアモリーという性愛と文化
中村香住/クワロマンティック宣言
・A.C.ドイル、H.メルヴィル他/大橋洋一監訳 利根川真紀、磯部哲也、山田久美子訳「クィア短編小説集 名づけえぬ欲望の物語」平凡社
・千葉雅也、二村ヒトシ、柴田英里/「欲望会議 性とポリコレの哲学」KADOKAWA
・伏見瞬 /「スピッツ論-「分裂」するポップミュージック」イースト•プレス
きのコ/「「クワロマンティック」とは何か? 恋愛感情と友情を区別しない①」
「「クワロマンティック」とは何か? 恋愛感情と友情を区別しない②」
「リレーションシップ アナーキーでなくクワロマンティックを名乗る私」
LGBTER
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