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踊りと踊る

僕は”踊り”はできないけど”踊る”ことはできる。音楽にノッては不器用に身体を動かし、至るところで踊っていることだろう。
踊りと踊るは違うことだと思う。踊りは技術がいるが、踊ることは誰にでもできる。
踊り/踊るをあえて二項対立的に分けるのであれば、文化/自然、行為/反応、能動/受動、意味/無意味、開/閉、外/内、目的的/非目的的というようになるだろう。
踊りを表現行為と考えれば、それは文化であり行為であり、能動的であり、意味があり、外に開かれている。一方踊ることは、例えば僕は音楽に受動的に反応にして、無意味に目的もなく、誰かや何かに向けられているわけではなく、ただ踊るでけである。

踊ることは身体の大事な反応ではないだろうか。悲しいことがあったとき、身体の反応として踊ることができたらいいかもしれないと思う。怒ったとき、踊ることができたらいいかもしれないと思う。それは暴力に取って代わる反応かも知れない。また、それはネガティブなことをネガティブなままポジティブにすること、楽しむことでもあるだろう。

ロック・ミュージックは大切なんだ、人々にとってね、だって、許してくれるから、このクレイジーな世界でさ、それって許してくれるんだよ、そこにある問題から逃げないで向き合うことを、それと同時に(それらの問題の)あちこちで踊ることをね、それがロックンロールとはなんたるか、なのさ

web記事『ピート・タウンゼントの名言:ロックンロールは・・・』 ページ2より ※1

The Whoのピート・タウンゼントはかつてこのように言っていた。
また、これはジル•ドゥルーズのマゾヒズム的ユーモアにも通ずるのではないだろうか。※2

また、踊ることは誰にでもできるということは、星野源が「うちで踊ろう」と歌っていたように、身体だけのことではない。例えば心が踊るとも言う。踊ることは誰にでもできる。より詳細に言うならば、踊ることは誰にでも備わった可能性である。

とある音楽イベントの打ち上げで、盆踊りをしている方とお話しをした。その方は「私は型がないと踊れない。盆踊りは型があるから踊れる」というようなことを言っていた。
確かに僕も音楽を聴き、踊っているときでも、それはめちゃくちゃに踊っているようで決してそうではない。自分の中に型があるのだと思う。型があるというのは、もちろん踊り的であるだろう。その型は、今ままで出会ったり、触れてきたものに無意識的に影響を受けたり、参照したりして作られたものだろう。トム・ヨークのめちゃくちゃなダンスだって、体が反応するままに動かしているにしても、その動きは決して全くのゼロから自分で創造したわけではないだろう。何かしら参照や影響があるはずだ(それは人のダンスとは限らない)。

即興やコンテンポラリーダンスはどうだろうか。表現行為ではあるが、それと同時に反応的でもある。今と歴史が関わり、踊りと踊るの淡いを踊っているようにも感じる。
踊りという表現行為は、突き詰めるなら長い鍛錬で築いた身体や磨かれた感性が必要であり、確かに誰にでもできるわけではない。しかし、踊りの中にも踊る的なものが混ざっている。それは何かに反応するという受動性があるということ。それはせざるを得ないといったような「取り憑かれ」とも言えるだろう。もちろん受動性や取り憑かれには程度があるが、もしそれらが全くないとしたら、なぜ踊りをしているのだろうか。また、それらがないとすれば、踊りを辞めることは簡単だろう。もちろんこれは踊りだけではなく、表現行為全てにおいていえる。

このように考えると、踊りと踊るの境界線はしなやかに、柔らかくなり、そして霧散し、踊りと踊るは一つのグラデーションになる。
踊りも踊るも根本的には同じなのかもしれいない。それらをとりあえずダンスという言葉で統括するのであれば、ダンスは他との出会いによって生成され、ネガティブなことをネガティブなままポジティブに変え、このクレイジーな世界を楽しく生き抜く、ユーモアな戦略なのかもしれない。

※1

※2
ジル・ドゥルーズのマゾヒズム的ユーモアは、國分功一郎のこちらの動画を参照にした。

https://vimeo.com/693520015

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